第682話 令和3年3月18日(木)「苦い現実」辻あかり

「宣言、解除されるみたいだね」


 マスクを着けた口元が汗ばんでいる気がして、外してハンカチで拭う。

 宣言が解除されたってマスクとおさらばできる訳じゃないが、良いニュースには違いない。


「春休み中は練習できそうで良かった」とほのかがホッとしたように言った。


 今回の緊急事態宣言が出てからうちの学校では休日の部活動が中止になっている。

 ダンス部はほかの学校と競う訳ではないので焦りはないが、それでも週末の練習がないといろいろ支障があった。

 特に大きいのが真面目に自主練に取り組む部員とそうでない部員との格差が広がる問題だ。

 卒業式でのパフォーマンスがAチームメンバーのみとなったこともあり、Bチーム以下の部員のモチベーション低下が最近目立ってきている。


「どれくらい参加してくれるやろか」と呟いたのは琥珀だ。


 今日は放課後に部室でいつもの3人による話し合いが行われている。

 ダンス部にとって直近の大きな事件と言えば1年生の中核メンバーだったさつきちゃんの退部宣言だ。


「さつきちゃんの影響はあるだろうね」


「このタイミングなんはそれも考えてのことやろね」


 あたしの発言に琥珀が頷いた。

 うちの学校は、部活は強制加入ではなく退部や転部も比較的自由だ。

 年度替わりのこの時期は今後も部活を続けるかどうか考える絶好の機会になる。


「これで何となく続けているだけの子が辞めやすくなったのは事実だね」とほのかは複雑そうな表情を見せた。


 これまで退部者を出さないことを目標のひとつに掲げてきた。

 だが、その皺寄せが悪影響を及ぼしている。

 あたしたちの代は人数が少なかったから、なんとか全員で続けていこうという気持ちを共有できた。

 しかし、1年は部員数が非常に多く、部活に対する温度差もかなり大きかった。


「残念だけど、全員の望みを叶える魔法はないってよく分かった。次は心を鬼にしてやる気のある子だけを入れるようにするよ。それが後輩のためになると思うし」


 ダンス部は創部して日が浅く、伝統がない。

 昨年は一斉休校の影響もあって入部希望者が殺到し、そのすべてを受け入れてしまった。

 特殊な状況だったから仕方がないとはいえ、その負担は1年生の中心メンバーに重くのし掛かっている。

 4月になれば新入生が入学し、ダンス部を希望する生徒も出て来るだろう。

 人気クラブであることは誇らしいが、同じ失敗を繰り返してはいけないと思う。

 部長であるあたしの決意表明に副部長のふたりは賛同してくれた。

 諸手を挙げての賛成ではないが、あたしたちの手に余るこの状況を現実として受け入れるしかない。


「1年はそれでええけど、2年で辞める子が出たら辛いけどな」


「えっ! 辞めそうな子、いるの?」とあたしは琥珀の発言を聞いて驚いた。


「そりゃあ、うちらも受験生になる訳やし」と琥珀は苦笑し、「部長の件で不安が広まっているみたいやで」と言葉を続けた。


 彼女が口にした「部長」はあたしではなく前部長の笠井先輩のことだ。

 結果的に先輩は中学浪人を選択した。

 通信制を目指すという話だが、これから受験生となるあたしたちにはショックな出来事だった。


「部活辞めたからって勉強するようになるかは別の話やって先輩も言うてはったけど、塾とかもあるから迷うところやね」


「私も4月から塾に行くし、何もしていないのはあかりくらいじゃない? 大丈夫なの?」とほのかは心配そうにあたしを見つめる。


 家でも勉強しろとは言われるし、テストの成績で怒られることもある。

 塾の話が出ることもあるが、諦めているのかそんなに強くは勧めてこない。


「高校は成績で決まるんやから、いまのままやと小西さんみたいな子がいっぱいいる高校しか行かれへんよ」


 琥珀に現実を突きつけられ、あたしは頭を抱える。

 小西は不良として有名な生徒だ。

 これまでぼんやりとしか見えなかった未来が初めて具体的な映像として頭に浮かんだ。


「せめて、ももちとかあの辺と同じところに行きたいと思うやろ?」


 琥珀の言葉にあたしは何度も首を縦に振る。

 成績が良い琥珀やほのかのレベルは無理だと分かっていた。

 ただ、できない中にもいくつかランクがあることをあたしは理解していなかった。


「でも、勉強しても成績上がらないし……」


 部長として恥ずかしくない成績を取れと言われて、試験前はいつもほのかに教えてもらっている。

 だが、赤点回避が精一杯というところだった。


「覚えておけって言われた単語は覚えるけど、試験が終わるとすぐに忘れてしまうし……」


「ちゃんと理解させようと思っているのよ。だけど、あかりが『分かった』と言っても全然分かっていないから仕方なくそういう勉強法になってしまうの」


 あたしの言葉を受けて、言い訳するようにほのかが顔をしかめながら語った。

 琥珀は「ほのかはうちより感覚的に理解する方やから教えるんは苦手なんやろね」と理解を示した。

 そして、「やっぱり塾に行った方がええんやない? 勉強のやり方を身につけた方がええと思うんよ」と言葉を続けた。


 あたしは琥珀に教えてもらえないかと期待を込めた視線を送るが、彼女は「うちもこれから本腰入れて勉強せなあかんねん。志望校のランクが上がってしもうたからな」とはっきり断った。

 ほのかからは「黒松って子と同じところを目指すの?」と聞かれ、琥珀は照れながら「張り合いがあると頑張れるもんやな」と答えた。


「ほのかは決めたん?」と琥珀が尋ね、ほのかはこちらをチラッと見てから「まだ」とだけ返事をする。


 あたしもほのかと同じ高校に行けたら嬉しいが絶対に無理だろう。

 ほのかがランクを落とすこともできるが、それにしたって限度はある。

 彼女は大学進学を考えているようだが、あたしは大学に行ってまで勉強したくはない。


 部室内に気まずい沈黙が流れた。

 あたしは長々と息を吐く。

 せっかくの良い天気なのに、どうしてこんなところで暗い話をしているんだろう。

 そう思うものの、これもまた苦い現実だ。


「志望校はじっくり考えたらええわ」と気を取り直して明るく話す琥珀がこちらを向いて「あかりは早よどうするか決めなあかんよ」と厳しい口調で注意をした。


 これまであたしの周囲でこんな風に勉強のことを言ってくれる子はいなかった。

 日常のとりとめのない話、テレビの話題、噂話、愚痴、そんなものばかりをしていたと思う。

 時にはウザいと思うことはあるが、ほのかや琥珀と仲良くなって、親身にいろいろ言ってもらって、あたしも少しは変わったかもしれない。


「そうだね」と言ったあたしは、ほのかの目を見ながらこの現実から逃げないと決めた。




††††† 登場人物紹介 †††††


辻あかり・・・中学2年生。ダンス部部長。後輩からは部長と呼ばれるが同学年からは名前で呼ばれることが多い。2年生部員にとって部長と言えば笠井先輩のイメージがいまだに根強い。


秋田ほのか・・・中学2年生。ダンス部副部長。成績に関しては、休校明けは少し苦労したが、もともとそれほど勉強しなくてもできるタイプだったのですぐに挽回した。


島田琥珀・・・中学2年生。ダンス部副部長。多くの習い事をしていたが受験に向けて進学塾一本に絞った。堅実指向で絶対に合格できる高校を狙っていたが、黒松藤花と同じ志望校に変更した。


沖本さつき・・・中学1年生。ダンス部。1年生部員の中核メンバーだったが退部を決意した。

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