第529話 令和2年10月16日(金)「策略」川端さくら

 放課後の教室に彼女は何食わぬ顔で現れた。

 スラリとした長身に、艶のある黒髪。

 顔はマスクだけでなくフェイスガードでも覆われている。

 見慣れないせいか中学校の制服が似合っていない気がしてしまう。


「可恋」と日々木さんがふんわりとした笑顔で呼び掛けた。


 普段からニコニコしている彼女だが、日野さんの前で見せる笑みはいつもより柔らかく感じる。

 日野さんが教室に入ると、入れ違いで麓さんが無言で出て行った。

 日々木さんにはいつも誰かしら護衛役が付いている。

 ただの中学生に護衛なんて必要ないと思うのだが、日々木さんであれば誰も不思議に思わない。

 それほど特別な女の子だから。

 小学生並の身長ながら腰まで届く長い髪は緩やかにウェーブがかかり、赤みがかった色合いは透き通るような白い肌によく合っている。

 精巧に作られた人形のように整った顔立ちは誰が見ても美少女だと褒め称えるだろう。

 こんな普通の公立中学校にいるのがおかしい宝石のような存在なのだから。


 教室に残っているのは日々木さん、日野さんのふたりと、文化祭の準備の当番にあたっているわたし、心花みはな、怜南、それに怜南が手伝ってもらうことになったと言った澤田さんの6人だ。

 わたしたちが当番となるのはこれが初めてだ。

 男性教師の時は男子が担当していた。

 その時には麓さんか、なぜか隣りのクラスの安藤さんが護衛役についていたそうだ。


 今日撮影する先生は君塚先生と校長先生のふたりの予定だ。

 校長先生は朝礼の時に教室のモニターで顔を見る程度で、話したことなんかもちろんない。

 一方の君塚先生はわたしたち3年1組の副担任で、英語を教えてもらっている。

 顔は見慣れているが、怖いという印象が植えつけられている。

 君塚先生の前ではビクビク怯えてしまうので、今日の写真撮影への参加は気が重かった。


 先生方はまだ見えていない。

 校長先生は多忙なので、手が空いたら連絡をしてくれるそうだ。

 それまでしばらく教室で待機すると聞いていた。


「昨日、君塚先生の説得をやってみたらって言ったら、自称天才の愛梨ちゃんは『天才だから事の成否がすぐに分かる。無駄な努力を避けるのも天才だ』って答えたのよ。そこで、本物の天才である日野さんに手本を見せて欲しいなって思って来てもらったの」


 怜南が楽しくてしょうがないといった感じでそう話した。

 初耳だったようで澤田さんはかなり厳しい顔になっている。

 日々木さんの目の前でこんなことを言われては怒るのも当然だろう。


「やり方を見て学びたいって……」と日々木さんも不快に眉をひそめた。


 場の空気が凍りついても怜南は平然としている。

 わたしはこのやり取りに巻き込まれないように、興味がなさそうな心花の側ににじり寄った。


「なるほど」と言った日野さんの声は意外にも穏やかだった。


 それでもその一声だけで全員の注目が彼女に集まる。

 表情は分かりにくいがこの状況を楽しんでいるようにも見える。


「高月さんの望み通りにするよ。ただし……」


 わたしはゴクリと唾を飲み込む。

 日野さんは軽い感じで話しているだけなのに、逆らうことができないような重みがあった。


「先に高月さんがやってみせてよ」


 日野さんの言葉に怜南は口をポカンと開けて固まった。

 言われてみれば、それが筋ってものだろう。


「わ、私には無理! それこそやるだけ無駄ってものよ!」


 ようやくフリーズの魔法が解けた怜南が激しい口調で反論する。

 日野さんは「どうして? 高月さんは頭も良いし、駆け引きも上手じゃない。やってみなきゃ分からないんじゃない?」と怜南を追い詰めた。

 声の感じは先ほどから変わっていない。

 さほど感情の籠もっていない淡々とした口振りで言葉を紡ぐ。


「ひとりで無理なら津野さんや川端さんに手伝ってもらえば?」と日野さんはこちらをチラッと見た。


 巻き添えにしないで!

 そう悲鳴を上げるのを必死に堪えた。

 とんだとばっちりだ。

 怜南のことを友だちだとは思っていないが、絶対に縁を切ろうと心に固く誓った。


 怜南はすごすごとわたしと心花のところへやって来た。

 日野さんたちに背を向けている怜南は、屈辱という言葉がピッタリとくる顔つきをしていた。


「どうするの?」とわたしは小声で問い質す。


 さすがに友だちじゃないからと知らんぷりはできない。

 人の目を気にしてしまう小市民のわたしには無理だ。

 それができたらどれほど良いことか……。


 怜南が答える前に教室の扉が音を立てて開いた。

 そちらを見るといつもの赤いジャージを着た君塚先生が立っていた。

 先生は教室内を一瞥すると、「校長があなたたちを呼んでいます」と口を開く。

 その声は鋭く尖っている。

 生徒を前にして一瞬たりとも油断しないと気を張っているようにも見えた。


 わたしたちは荷物を抱えて君塚先生のあとに続いた。

 この荷物の中には君塚先生に着てもらう予定の服もあると聞いている。

 わたしはもう一度怜南に「どうするの?」と尋ねた。

 彼女は前を向いたままこちらを見ようともしない。


「お願いしてダメだったとしても、日野さんにバトンタッチすればいいだけじゃないの?」


 絶対に成功しろと言われている訳ではない。

 先にやってと言われただけだ。


「なら、さっちゃんがやってよ」


 怜南は振り向くことなくそう言った。

 いつもであれば面白がるような響きがあるのに、いまの彼女の声はどこか頼りなさげだった。

 これが芝居ならたいしたものだ。

 しかし、彼女の横顔は、小学生の低学年の頃に時折あったどうしていいか分からなくて泣き出すのを必死で我慢している顔に見えた。


「ああ、もう」とわたしは怜南の手を取ると、先頭を歩く君塚先生の横に並ぶ。


「あの……、君塚先生」と勇気を振り絞って声を掛けた。


 こちらを見た君塚先生はわたしの勇気を打ち砕くほど険しい表情をしていた。

 わたしは危うく立ち止まりそうになった。

 なんとか遅れないように歩を進める。

 だが、言葉が出て来ない。


「何か?」と問うそれだけの言葉なのに逃げ出したくなる刺々しさがある。


「あの……、写真撮影の時の服装のことですが……」


 わたしは頑張った。

 頑張って頑張ってそこまでは言えた。

 けれども、そのあとに続く言葉、お願いだとか要望だとかを口にする気力は残っていなかった。


 校長室目前となって、君塚先生が立ち止まる。

 わたしの顔を睨むように見つめると、「着ますよ」とひと言ポツリと告げた。

 怜南の口から「えっ」と驚きの声が上がる。

 わたしも目を見張った。


「趣旨は理解しています。私としてはこの服装の方が校内での私のあり方を表現するのに相応しいと思っていますが、文化祭では生徒から教師への敬意を示す展示を行うので正装して欲しいと言われ納得しました」


 わたしは振り向いて日野さんを見る。

 フェイスガード越しでも分かるほど、してやったりという顔をしていた。

 どっと力が抜ける。

 わたしの苦労はなんだったんだ。

 君塚先生が校長室に入っていくあとを追えないほど呆然と立ち尽くしていた。

 だから、わたしはすぐ隣りにいる怜南の顔を見ていなかった。

 彼女がどんな顔でわたしを見ていたのかを……。




††††† 登場人物紹介 †††††


川端さくら・・・3年1組。心花グループの一員。心花の尻ぬぐいをすることには慣れているが、なんで怜南にまで……。


高月怜南・・・3年1組。心花グループの一員。さくらとは小学生時代からの友人。ただし、さくらからは低学年の頃と高学年以降とでは別人になったという認識をされている。


津野心花みはな・・・3年1組。心花グループの一員。さくらや怜南にほだされて参加したが、退屈すぎて帰りたくなった。


日々木陽稲・・・3年1組。学級委員。可恋から何も知らされていなくて驚いたひとり。なんで教えてくれなかったのと怒っていたが、その目は嬉しそうだった。


日野可恋・・・3年1組。陽稲に対するサプライズのつもりだったが、別の成果もあって大変満足。


澤田愛梨・・・3年1組。陸上部。自称天才。ボクの出番が少なすぎる。日野の陰謀だ!


君塚紅葉・・・3年1組副担任。アラフォーの英語教師。ジャージ姿の厳しい先生だと恐れられている。

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