第108話 令和元年8月22日(木)「日野さん」神瀬結
あー、どうしよう!
これまで空手しかやってこなかったから、こんな時どうすればいいか分からない。
もうすぐ日野さんが来るというのに、わたしは30分以上洋服ダンスの前で立ちすくんでいた。
わたしの友だちは体育会系ばかりなので、ちょっと出掛ける時だってTシャツにジャージのズボンが当たり前だ。
わたしにとって、オシャレというのは友だちにウケるTシャツを選ぶことと同義だった。
日野さんとの初対面の時だって、小学生の空手大会の見学がメインだったのでわたしは何も考えずそんな格好だった。
日野さんはジャケットにスラックス姿で、え、何それと思ったものだ。
一緒にいた日々木さんのように空手とは無縁の別世界の住人なら着飾っていても分かるけど、同じ空手をやっている中学生でその服装はかなりの衝撃を感じた。
札幌でもそうだ。
わたしは学校の制服だったが、日野さんはビシッと決めていた。
高校生や大学生のように見えて、とても大人っぽかった。
スラリとしていて、ちょっと男性っぽくもあり、肌はきめ細かく、髪も艶やかで、本当にわたしとは大違いだった。
見た目も素敵なのに、知的だし、空手も凄い。
わたしは日野さんに姉の姿をかぶせていた。
わたしの姉、
メディアに取り上げられる時には「美少女」や「天才」の肩書きが付いていた。
学業も優秀で、語学はほとんど独学でマスターした。
当時から世界を意識していたのだろう。
姉は空手界の第一人者となり、世界の舞台で戦うようになった。
空手界の顔、日本人の代表だという自覚を強く持っていた。
だから、身だしなみにも気を使い、普段でも人前ではだらしない服装なんて決してしなかった。
姉とわたしは9歳も離れているので、仲は良いが親密な間柄とは言えない。
わたしが物心ついた頃には姉は注目を浴びていた。
空手についても、それ以外についても、時折わたしに語ってくれた。
わたしのことを気に掛けてくれるのは感じていたけど、それでもわたしにとっては遠い存在だった。
年齢の差以上に、空手の才能の差を感じていたから。
わたしは姉ほど無心に空手に打ち込むことができていない。
それが分かるから、姉と比べられたり、勝って当たり前と見られたりするのが苦痛だった。
日野さんは、そんなわたしと姉との中間に立っているように思った。
年齢はわたしとひとつしか違わないが、精神的な面や空手の技術ではわたしより随分姉に近い。
姉は目標にするには遠すぎるが、日野さんは手が届かないとまでは感じない。
日野さんが大会に出て来ればライバルの関係になるだろうが、いまの彼女は無名で、わたしは比較される恐れもない。
そんな身近な憧れの人がうちに来てくれるというのに、まだ着る服すら決まっていない。
時間がない。
もう少し日程に余裕があれば服を一式買いに行ったのに。
わたしはいちばんまともそうな服――中学校の制服を手に取った。
日野さんなら素敵な服をいっぱい持っているんだろうと思いながら、わたしはバタバタと制服に着替えた。
着替えが終わると、道場の玄関前に直立不動で立つ。
到着の予定時刻の30分ほど前だ。
いつ来られてもいいように、わたしは待機する。
幸い、今日は暑さはそれほどでもない。
稽古に訪れた人はほぼ顔見知りなので、怪訝そうな顔でわたしを見て行く。
中には声を掛けてくれる人もいるが、わたしの緊張が伝わるのか挨拶だけで去って行く。
「遠いところをわざわざ来ていただきありがとうございます」
日野さんたち三人の姿が見えた途端、腹の底から出した大声で挨拶をする。
三人は動じた様子もなく、わたしに近付いてきた。
今日も日野さんはジャケット姿で、クラスの女の子が騒いでいるアイドルのようだと思った。
「今日は休み中なのに時間を取っていただいて感謝しています。暑くなかったですか?」と日野さんに気遣ってもらい、わたしは「大丈夫です!」と返すが、頭に血が上った感じになった。
他の人がまだ挨拶をしてくれていたのに、わたしは日野さんを中に案内し、それから自分の失敗に気付いた。
舞い上がって周りが見えていなかった。
日々木さんは苦笑しながら「気にしないでください」と言ってくれたけど、日野さんに自分の無様な姿を見せたと思うと顔が真っ赤になってしまった。
冷静に、冷静にと頭の中で繰り返しながら、三人を父の部屋に案内する。
お父さんはここの道場主で、うちが経営するグループの空手部門の責任者だ。
日野さんの師匠にあたる三谷先生とも面識があり、そのせいかお父さんの挨拶がやけに長い。
つい、「お母さんに言いつけるよ」と叫んでしまった。
美少女三人相手に鼻の下を伸ばしているように見えてしまったから。
でも、言ってから自分の子どもっぽい言動に赤面する。
今日は赤くなってばかりだ。
お父さんは悪びれもせず、「悪い悪い」と口だけで謝るが、日野さんは後でこっそり「ありがとう」と言ってくれた。
日野さんのリクエストに応じて、道場のAVルームに案内する。
この道場の売りの施設で、稽古場に設置されたカメラで撮影した映像を見ることもできる。
「素晴らしい設備ですね」と日野さんに褒められ、わたしも鼻が高い。
大画面のモニターの前に置かれたソファに三人に座ってもらい、わたしはその横の椅子に座って操作する。
すぐに視聴できるように準備しておいたので、待たせることなくビデオを再生した。
大画面に若い頃の姉が映し出される。
彼女が高校生の時に行われた、うちの道場の門下生や両親の知り合いが参加した身内の大会だ。
だから、姉の試合は二戦とも大人の男性が相手となっている。
姉は初戦に勝利し、二戦目で敗れた。
「これが初戦です」
まだ初々しい感じがする姉が挨拶する。
組み手の勝負が始まる。
相手の男性は中肉中背だが、姉はそれより一回り小さい。
それでも姉が鋭い動きで相手を攻め立てる。
日野さんは食い入るように画面を見つめている。
わずかに目を細め、真剣な眼差しは見入ってしまうほど美しい。
姉は力勝負は挑まず、俊敏さを生かして勝ち切った。
当時、高校生の大会に出場していれば組み手でもいい結果を残しただろうと言われた。
お父さんは娘贔屓で優勝間違いなしと豪語し、お母さんはベスト4くらいかしらと冷静に分析していた。
わたしが次の試合までスキップしようとすると、日野さんから「もう一度見せてもらえますか」と頼まれた。
わたしは頷いて、この試合の冒頭まで巻き戻す。
日野さんは最初に見た時と同じ姿勢で画面に集中している。
意外なことにキャシーさんも映像を熱心に見ていた。
空手に限らず、スポーツや格闘技の世界では見て覚えられる選手は大成すると言われる。
記憶力、理解力、分析力に優れていないとできないし、また集中力も必要とするからだ。
達人の技を覚え、その技の仕組みや使う意図が分かれば、自分のものとすることができる。
「次に進みますか?」と初戦の映像が終わった後で確認すると、日野さんは「お願いします」と頷いた。
姉が負けた試合を流す。
対戦相手は体格も実力も初戦の相手とほぼ同じだった。
しかし、この試合では姉の攻撃は予測されて攻め手を封じられ、何もできずに敗れてしまった。
姉の初戦の試合を見て、相手がうまく対策を採ったと評価された。
姉には珍しい悔しさを顔に出した瞬間が映っていて、そのせいでわたしはこの映像を見るのが嫌いだった。
今回、外部の人間である日野さんにこの映像を見せることについて姉に許可をもらうために電話を掛けた。
姉が嫌がるならこの二戦目は見せなくてもと思っていたが、姉は特に気にしてはいないようだった。
「確認するために見返したけど、お姉ちゃんがあんなに悔しそうな顔をするなんて珍しいね」と話すと、「昔はしょっちゅう顔に出していたけどね」と姉は答えた。
「そうなんだ」
わたしの記憶に残る姉はあんな顔をしていない。
小学生の頃なのだろうか。
「いまはどうなの?」とわたしは尋ねてみた。
「そうね、いまも悔しいことはいっぱいあるわ。顔に出さなくなっただけで」と姉の返答はどこか自嘲気味だった。
日野さんはこの試合ももう一度見たいと言った。
わたしはその言葉に従い巻き戻す。
しかし、姉の完敗を二度もさらすことに「この試合、おもしろいですか?」と聞いてしまった。
日野さんはやや間を置いて「興味深いです」と淡々と答えた。
「貴重な映像を見せていただき、ありがとうございました」と日野さんが立って深々と頭を下げた。
日野さんは二戦目も一度だけ繰り返して見た。
わたしは日野さんの感想が聞きたかった。
姉と同じように形だけでなく組み手も強い彼女の意見が。
だが、「少し瞑想していいですか?」と突然聞かれてわたしが頷くと、日野さんはソファに座り目を閉じてしまった。
眠ったんじゃないかというくらい微動だにしない。
キャシーさんはすぐに退屈になって、わたしや日々木さんに話し掛けてきた。
うるさくないかなと心配しつつ、キャシーさんとの雑談を続けた。
10分ほどでキャシーさんがとうとう痺れを切らして立ち上がった。
どう引き留めようか迷っていたら、日野さんが目を開いた。
「時間を取らせてしまいごめんなさい」と日野さんが謝る。
「気にしないでください」とわたしは言って、『早く行こうぜ』と催促するキャシーさんに引きずられるようにAVルームを出た。
更衣室に行き、日々木さんを除く三人は空手着に着替える。
道場内はこの時間参加者はまばらだった。
準備体操を終えると、日野さんが「ちょっとやってみたいことがあります」と言ってコートの中央に立つ。
動き始めるが形ではなかった。
それが姉の組み手の試合での動きだと気付く。
すぐに気付くほど、それはかなり緻密に再現されているように見えた。
わたし同様、キャシーさんも気付いたようだ。
すると、キャシーさんは日野さんの相手役をやり始めた。
わたしは何度も映像を見たが、どうしても姉の動きにばかり注目し、相手の男性の動きは詳しく覚えていない。
2回見ただけのキャシーさんが相手役の動きができることに驚いてしまった。
日野さんがキャシーさんの動きの正確さを認めたのか、『もう一度最初からでいい?』とお願いし、初戦のスタートからふたりで再現し始めた。
ふたりとも通常の速度で普通に戦っているように見える。
初戦が終わると二戦目だ。
今度はキャシーさんが勝つ番なので、とても嬉しそうな顔をしている。
終わると『楽しいな』と笑いながらキャシーさんが戻って来た。
日野さんは『曲芸だけどね』と苦笑している。
戻って来たふたりにわたしより早く声を掛けたのはお父さんだった。
いつもならこの時間は自分の部屋にいるはずだけど、わたしたちが道場に出て来たのを知って顔を出したようだ。
「うちの道場に移籍しないか?」と茶目っ気を見せるが、わたしが「お父さん!」と怒ると、「悪い悪い」と肩をすくめる。
「何かつかめたかい?」とやっと真面目な顔でお父さんが日野さんに尋ねた。
「ほんの触り程度です」と日野さんは答えたが、その顔は何かをつかんだような感じだった。
「え? どういうこと?」とわたしは当惑して口を挟む。
「せっかくだから、結も自分で考えてみなさい」とお父さんは何も教えてくれようとしない。
わたしは日野さんの方を見る。
日野さんは頬に手を当て、「結さんも自分で身体を動かして考えてみてはいかがですか?」と言った。
つまり、わたしも姉の動きをトレースしてみろと言われたわけだ。
さすがにできないとは答えられないので、「頑張ってみます」と殊勝に頷いた。
この後、キャシーさんの組み手の相手を日野さんとわたしが務めることになった。
でも、その前にわたしは形の勝負を日野さんに挑む。
「お願いです。1回でいいのでわたしと形の対戦をしてください」
わたしは思い切り頭を下げてじっと待つ。
日野さんは「1回だけね」と応じてくれた。
わたしが満面の笑みを浮かべて顔を上げると、日野さんはニッコリと微笑んでくれた。
簡単にルールを決め、お父さんに審判を頼む。
わたしは全中でもっとも高得点だった準決勝の演武を行う。
いま、わたしがいちばん自信を持っているものだ。
身体はスムーズに動き、満足できる演武ができた。
札幌の時よりも良かったかもしれない。
続いて、日野さんが演武を行う。
彼女の演武をちゃんと見るのは武道館以来だ。
ああ、なんて魅力的なんだろう。
姉の演武も大好きだけど、それとは対極にあるこの演武に心が惹かれてしまう。
空手の形にはこれだけの可能性が秘められているんだと叫びたくなった。
勝負を口実に、日野さんの演武を間近で鑑賞できたことが最高に素敵な出来事だとわたしは心から思った。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学2年生。形の選手だが大会への出場を拒んでいる。なお、結視点での可恋の表記は「個人の感想」です。
キャシー・フランクリン・・・14歳。カンフー映画のアクションシーンのコピーはよくしたぞ。
日々木陽稲・・・中学2年生。可恋のクラスメイト。ライバルってなんのことですか?
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