第310話 令和2年3月11日(水)「旧友」岡部イ沙美

 今日は暖かいどころか暑いと思うほどの気温だった。

 一斉休校が始まって10日ほどが経つ。

 突然の事態に多くの教師がいまも対応に追われている。

 そんな中で、新任で担当するクラスのない体育教師の私は比較的余裕があった。


 主な仕事は校区内の見回りである。

 これも最初は不要不急の外出を避けるようにとあったが、最近は公園などで身体を動かすことが推奨されるようになった。

 とはいえ、住民の中には苦言を呈したり、酷い時には子どもたちを病原菌扱いするような言動をしたりと周知が十分になされていない状況だ。

 体育教師としては適度な運動や日の光を浴びることは大切だと伝えたいところだが、現状としては子どもたちにも保護者にも住民の方々にも伝え切れていない。


 予定通りに学校が再開できるかも分からない。

 先が見えないので、職員室は重い空気が充満している。


「いいわね、体育教師は」と藤原先生が非難がましい視線を私に向けた。


「国語は、私が担当しているクラスはほぼ終わっていたけど、田村先生の方は少し遅れていたので若干のバラツキが残りそうなのよ……」


 それでも国語はまだマシらしい。

 他の科目は理解しないと次へ進めないものもある。

 クラス替えもあるので、進み具合が異なる生徒をどう教えるのか。

 補習と新学年の勉強を同時に進めるのは混乱に繋がりかねない。

 4月を補習中心にするという計画もあるが、どちらにせよ4月にはこの一斉休校が解除されていることが前提になる。

 更に長引くようなことがあれば、教える側も教えられる側も相当な負担となるだろう。


 地域の見回り、職員室での雑用、ダンス部の自主練の監督などをこなして今日の仕事を終えた。

 いつもなら真っ直ぐ自宅へ帰るところだが、今日は寄るところがあった。


「久しぶり」と陽気に手を振るのは高校時代からの友人だ。


 名前は高畑智子。

 高校生の時は地味な生徒だった。

 それがいまやバリバリのビジネスパーソンだ。


「久しぶりだね」と私も挨拶する。


 今日は彼女からの提案で一緒に食事することになった。

 こんな時期だからと一度は断ったが、いまはお金を回して経済を殺さないことが大事だと彼女に押し切られた。

 彼女に連れて来られたレストランは小洒落たお店で、いつもならなかなか予約が取れないらしい。

 外食産業は相当打撃を受けていて、この状況が続けばバタバタと倒産するところが出るだろうと彼女は心配していた。


「大変なのは分かるけど、ちょっとやり過ぎだよねー」


 智子は食前酒を一口飲んでからそう言った。

 彼女は外資系の会社で営業職に就いている。

 人に会うのが仕事なだけにいろいろと大変なのだろう。


「いまが大事な時期だからね」と私は答えた。


「地方公務員だから、おかみへの批判はできないか」と智子は笑う。


 私は「そういう訳じゃないけど……」と苦笑した。


「それにしても、イ沙美が学校の先生かあ……もう慣れた?」


 彼女と会うのは昨年の夏以来だが、その時もまったく同じことを言われたと思う。


「まあ、少しはね」


「イ沙美は真面目だけど、口下手だからなあ。ちゃんと生徒と会話してる?」


 智子の心配は的を射ている。

 私自身そんな風に心配していた。

 いまでも胸を張って問題ないとは言えない。


「まあ、少しはね。でも、智子がこれだけ変われるんだから大丈夫じゃないかな」


 高校時代の智子は目立たない生徒だった。

 休み時間はたいてい自分の席で本を読んでいた。

 友だちはほとんどいなかったと思う。


 私も高校生の頃はサッカークラブ中心の生活で、高校では友人を作る気がまったくなかった。

 いまにして思えば、サッカー以外の友人関係をもっと作るべきだった。

 サッカーを通して知り合った同世代の人たちは仲間であると同時にライバルだった。

 残念なことに選手の間には派閥があり、影響力の強い選手の意見は通りやすい。

 それはピッチ外だけではなく、ピッチの中にまで影響した。


「自分でも驚いているよ」と智子は笑い、「海外留学だけでこんなに変われるなんて思いもしなかったもの」と言葉を続けた。


 高校時代の知り合いでいまも連絡を取り合っているのは彼女だけだ。

 それだって高校卒業後にはほとんど縁が切れていた。

 私が怪我でサッカーを諦め、大学に進学した頃に彼女が留学から戻り、連絡をくれたのだ。


「言いたいことを言っていいんだって気付いただけなんだ。日本じゃまだまだ言いにくかったりするのは確か。でも、やり方次第で言えるようになったりするって分かったから」


 智子は自信に満ちた表情で語った。

 高校時代は面倒がって周りと関わろうとしなかった。

 私にはポツリポツリと内心を語ってくれたが、高校という枠に窮屈さを感じていたのだろう。


「私の中学にそれを実践している子がいてね」


 そう話すと智子は目を丸くした。


「公立の中学校で”出る杭”になることは難しいと思うんだけど、それを軽々とやってのけているのよ」


「凄いね、それは」と智子は感心している。


「精神年齢が大人並みで、行動力があり、コミュニケーションの大切さも心得ている。私の方が学ぶことが多いくらいよ」


 彼女との接点はダンス部くらいだが、そこでのやり取りで感心させられることは多い。

 自分の力を過信している傾向は見えるが、視野の広さなどは中学生離れしている。

 一歩引いて俯瞰で眺める能力は私より上だろう。


「中学生相手でも学ぶ姿勢を忘れないのがイ沙美の良いところよね」


「新米だからね。彼女に限らず生徒から教わることは多いわ」


「すっかり教師の顔ね」と智子が笑う。


 自分ではそんなつもりはなかったが、顔に出ていたのだろう。

 教師になってもうすぐ丸1年になる。

 務まるかどうか不安だったが、少しはそれらしくなったのかもしれない。


「先行きは見通せないけど、美味しいものを食べて、しっかり寝て、元気に過ごす。それしかないわね」


 そんな智子の言葉に「そうだね」と私は頷く。


「あとは適度な運動ね」と付け加えると、運動が苦手だった智子は顔をしかめた。




††††† 登場人物紹介 †††††


岡部イ沙美いさみ・・・体育教師。1年女子を担当。ダンス部顧問。教師歴1年目。怪我でスポーツ選手の道を諦めた。


高畑智子・・・外資系企業入社3年目。学生時代は文学少女だったが、留学を契機にアクティブな性格に。


藤原みどり・・・国語教師。2年1組副担任。教師歴3年目。

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