第412話 令和2年6月21日(日)「♡」神瀬結

 キャー!!!


 わたしは心の中で悲鳴を上げた。

 髪をかき上げた日野さんがあまりにもカッコ良かったからだ。


 ……可恋様と呼んでいいですか。


 周りに人がいなければそうお願いしていたかもしれない。


 移動制限が解除されたこともあり、昨日は朝から神奈川にある日野さんの通う道場に行った。

 姉が段取りを決めて、父が車で送ってくれた。

 両親が空手家なので幼い頃から朝稽古をさせられ、早起きには慣れている。

 時間には余裕を持って出たのに、父がカーナビに従わずに道に迷い、着いたのは日野さんたちの練習が始まる頃だった。

 折角おめかしして来たのに、それを見せることなく空手着に着替えて姉と道場に向かった。

 久しぶりに見る空手着姿の日野さんは凜々しくてフィクションの世界で描かれる男装の麗人のようだった。


 見惚れているうちに日野さんと姉の会話が進み、わたしと姉はウォーミングアップをすることになった。

 日野さんの指導が受けられると期待していたのでわたしは急ぎたかったが、姉は入念に時間をかけてコンディションを整えた。

 結局その場では指導は受けられず、3人が形の演武を披露するという話になってしまった。


 それでもわたしは気合が入った。

 生でじっくり見てもらう機会はほとんどなかったし、逆に日野さんの演武を見る機会もいままで数えるほどしかなかった。

 それが叶うのだ。

 もし自分がオリンピックに出場したとしてもここまで気持ちは昂ぶらなかっただろう。

 これまで生きてきた人生のすべてを懸ける思いを込めて、わたしは演武を行った。


「素晴らしかったよ」と入れ替わりで演武に向かう日野さんから褒めてもらった。


 わたしは天にも昇る心地だった。

 そして、その余韻が冷めないうちに日野さんの演武が始まった。

 わたしはトキメキながら彼女の華麗な演武を心に焼き付けた。


 日野さんの演武は独特だ。

 踊りのように流麗で、舞のように見る者を魅了する。

 それでいて戦っている相手が見えるような気がするから不思議だ。

 空手の形はあくまでも武道。

 それが見ていて伝わってくる。

 競技なのでどうしても自分の動きをアピールしようとしてしまうが、日野さんにはそんな邪念がないのではないかと思ってしまう。

 相手を打ち倒すという格闘技の本質から離れることなく磨き続けられた技が繰り出された。

 真似をしたいと思うものではなく、ただただうっとりと眺めていることしかできないものだ。


 演武を終えた日野さんが戻って来た。

 スラッと細身でありながら姿勢が良く中性的な美形がわたしの心をくすぐった。

 黒髪をかき上げた瞬間は気が遠くなりかけた。

 しかし、同時にわたしはハッと気づく。

 急いでタオルを取りに行き、日野さんに差し出した。

 気遣いひとつできなくては日野さんの側にいる資格がない。

 最近の部活は上下関係があまり厳しくないのでこうした雑用を強制されることはないが、見とれているだけではダメだと思ったのだ。


「わざわざありがとう。お客さんなのに、ごめんね」


「いえ、そんな……。日野さんのためなら、わたし、なんだってやりますから」


 わたしは決意を熱く語った。

 日野さんはすぐに姉の演武に視線を送っていたが、わたしは彼女の真剣な表情に釘付けになっていた。

 知性を湛えた黒い瞳、紅潮した頬、引き締まった唇、そのどれもが美しい。

 神が造り給うた最高傑作。

 性別を超えた完成品。

 艶のある黒髪、長い睫毛、尖った顎先、通った鼻筋、色気漂ううなじ、そのどれもがわたしの目を奪う。

 わたしのようなゴツゴツした男女おとこおんなが横に立つのもおこがましいが、それでも崇拝の気持ちで恋い焦がれてしまう。


 そんな祈りにも似た時間は長く続かず、姉の演武が終わると朝食になった。

 日野さんと一緒に食べられることにわたしは舞い上がっていた。

 姉は食事が終わると空手協会の広報の仕事があるとかで急いで東京に帰った。

 まるで大会前のように今日に合わせて調整してきたので、姉もやり遂げて満足している表情だった。


 そのあと一日中、日野さんの稽古が受けられると喜んでいたのに、なんと日野さんも帰ってしまった。

 わたしが「もっと稽古しましょうよ」とねだっても、「今日はもう十分やったからね。結さんは泊まるんでしょ。キャシーをよろしくね。明日の朝の練習には来るから、その時にまた」と日野さんは爽やかな笑顔をわたしに向けた。

 仕方なくキャシーさんと猛烈な練習をみっちりやり込み、不満を稽古にぶつけることで消化した。


『勉強をしたって強くならないぞ。ユイも学校を辞めてもっとトレーニングしようぜ』


 その夜、わたしはキャシーさんと布団を並べて寝た。

 彼女は格闘技のことしか考えていないと思うほどそればかり話している。

 勉強が大嫌いで、もうずっとここで暮らしたいらしい。


『でも、学校は出ておいた方がいいんじゃないですか』


『世界最強になるのに学校は必要ないぞ。ユイ、ワタシと一緒に世界を目指そう!』


 今朝の練習のあと、わたしは日野さんに「学校を辞めて格闘家を目指していいですか?」と聞いてしまった。

 キャシーさんの話を聞いているうちに、それが良いような気になってきたのだ。

 日野さんは一瞬呆れた顔になったが、すぐにニッコリと微笑んで、「私は勉強ができる結さんの方が好きだな」と言った。

 わたしは即座に「勉強頑張ります!」と声を上げる。


「ご両親に勉強の進み具合を確認するからね」と笑顔のまま言われて、とんだやぶ蛇だったことに気づいた。


 わたしの成績は英語以外はパッとしない。

 理数系は壊滅的だ。

 ……勉強の苦しさは頭の良い人には理解できないのかも。

 そんな思いが顔に出たのかもしれない。

 今朝は一緒に来た日々木さんがわたしにこう言った。


「可恋は空手で身につけた集中力を生かしてもの凄く勉強しているのよ。結さんならきっとできるよ」


 柔和な笑みを浮かべて日々木さんが励ましてくれた。

 可憐な外見に目が行きがちだが、彼女は気配りができる女性だ。

 自分に足りないものを突きつけられた気がしてつい目を逸らしてしまう。


『ユイ、カレンが苛める。助けてくれ!』


『キャシーが余計なことを吹き込むからでしょ』


 怒る日野さんも絵になるなあと思いながら、わたしは大声で「勉強を教えてください!」と頭を下げた。

 日野さんから教わるならという甘い期待は、「誰か紹介するね」の一語であっさり潰えた。

 日野さんは自分の勉強以外にもF-SASの運営等でもの凄く忙しいらしい。


「その心意気をキャシーにも見習って欲しいよ」と温かく見守る日野さんの視線を感じて、わたしはがっかりした顔を出さないように気をつけた。


 朝食の席で今後の練習方針について相談したところ、「昨日の演武を見て思ったんだけど……」と日野さんはわたしの筋肉のつき具合について説明し始めた。

 アホな子というイメージを拭い去り、頑張る自分アピールのつもりだったのに、朝食の間ずっと日野さんの講義が続き、最初は興味深く聞いていた三谷先生や日々木さんも途中から聞き流すようになった。

 わたしもすぐについて行けなくなったが分かりませんと言う訳にもいかず、ひたすら頷くしかない。

 空手部の中ではトレーニングの知識に詳しい方だと思っているが、日野さんの前では大人と赤子ほどの差がある。


「そういったのってどうやって勉強しているんですか?」と聞いてみたら、日野さんは目を細め「学校の勉強の延長」と答えた。


 納得がいかないわたしの顔を見て、「英語はもちろんだけど、読解力という意味では国語力は必要だし、論文を読むには数学や力学の知識も不可欠だね」と説明してくれる。

 そして、「学校で学ぶことは基礎の基礎だからそれがどこに繋がっているのか見通しにくいけど、それを無視して上辺だけの知識を身につけても意味がない。空手だってそうでしょ?」と諭してくれる。


「わたしに勉強する意味を教えるためにトレーニングについて熱弁を振るってくださったんですね」と感激していると、「可恋は暴走しただけだよね」という声が聞こえてきたが、わたしは聞かなかったことにしておく。




††††† 登場人物紹介 †††††


神瀬こうのせ結・・・中学2年生。姉は東京オリンピック日本代表に内定している神瀬舞。姉と同じ空手、形の選手。”空手界”では美少女として取り上げられることもある。


日野可恋・・・中学3年生。大会の出場経験が乏しいので空手界では無名だが、実力は全中2位の結を上回る。結の憧れの存在。


キャシー・フランクリン・・・G8。東京のインターナショナルスクールに通っているが休業中なのでこの道場にホームステイしている。格闘家としての将来性は高く評されている。


日々木陽稲・・・中学3年生。昨日は神瀬姉妹の突然の来訪で可恋が朝食に戻って来ず陽子先生とふたりで食事をした。今朝は強引について来た。

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