第675話 令和3年3月11日(木)「卒業式の朝」藤原みどり

 今朝の職員室は特別な雰囲気に包まれている。

 教員のほとんどはピシッと身なりを整え、厳かな面持ちで今日という学校にとってもっとも大切な日を迎えている。


 とはいえ慌ただしさは普段と変わりがない。

 保護者からの問い合わせへの対応だったり、例年以上に神経を尖らせる開催準備だったり、やるべきことはたくさんあった。

 そんな中で私の周囲だけがポッカリと切り取られた空間のようになっていた。


 誰も声を掛けてこない。

 まるで私がそこにいないかのように先生方は談笑したり自分の仕事をこなしたりしている。

 たまにこちらを気遣うような視線を送る人もいるが、遠くから見守るだけにとどまっていた。


 ……20代のうら若き乙女が涙ぐんでいるのに慰めてもくれないなんて。


 実際は「涙ぐむ」というレベルではなく、「ワンワン泣いている」といった方がいい状態だ。

 しかも、涙だけではなく鼻も啜りながらなので声を掛けづらい気持ちはよく分かる。

 重度の花粉症の人がマスクなどを何一つ着けずに杉林の真っ只中にいるような悲惨さと言えば伝わるだろうか。


 一週間前くらいから情緒が不安定になり、昨夜から涙が止まらなくなった。

 ある程度予測できたことだったので対策ができればよかったのだが、こればかりは気持ちの問題なので容易ではない。


 思えば小学生の頃から卒業式に涙はつきものだった。

 自分が卒業生の時はひたすら泣いた。

 在校生として出席した時も必ず泣いた。

 思い入れのある先輩がいたとか関係なく、卒業式というだけで感傷的になってしまう。

 さすがにこれはまずいと思うようになったが、できたのは実は好きな先輩がいたという嘘で誤魔化すことくらいだった。


 教師となってもこの泣き癖は変わらない。

 新人の年は3年生に教えていたこともあり、担任の先生たちよりも大泣きした。

 幸い保護者の方からは生徒思いの良い先生という評価をいただき、それほど厳しい注意を受けなくて済んだ。

 一昨年、昨年は1、2年生の担当だったので卒業式では裏方に回った。

 部活で接したことのある卒業生がいたという理由もあったが、とにかく卒業式というだけで泣いてしまうのだ。

 こっそり人の見ていないところで泣くだけで済んだこの2年間と違い、今年は3年生の担任教師として卒業式を迎える。

 人生初めての担任でもあったし、これで泣かない訳がないではないか。

 かくて、予想通り私は人目も憚らずに職員室で号泣していた。


「いい加減なんとかなりませんか?」


 非難と同情が入り混じった目をして君塚先生が私の側に立った。

 副担任としてこれ以上は見ていられないということだろう。


「す、すいません。涸れ果てるまで泣けばいいかと思っていましたが、涸れる気配がないですね」


 ハンドタオルで目元を押さえ、嗚咽で途切れ途切れになりながら私は答えた。

 君塚先生は呆れた顔で「もうすぐ時間です。一度顔を洗ってきてはいかがですか?」と勧めてくれる。


「そうですね」と答えたものの私は立ち上がらず、君塚先生に顔を向けた。


「私は……私は担任として生徒のためにもっとできることがあったのではないでしょうか?」


 もちろん自分では精一杯やったつもりだ。

 コロナ禍という非常事態の中で、授業の遅れを取り戻し、生徒の心をサポートし、受験という大きな壁に挑む手助けをしてきた。

 だが、いま振り返れば心残りはある。

 もっとできたのではないか、こうしていれば良かったのではないか、そんな後悔の念は消えてくれない。


 卒業式は学生生活に限りがあることを突きつけるものだった。

 昨日と同じ今日、今日と同じ明日は未来永劫は続かない。

 当時はそれに気づくのが怖かった。

 いつまでもこの楽園にいたいと思って泣いたのだ。

 いまはそれが1年間自分が行った仕事の成果を問われる場なのかもしれない。


「……藤原先生はよくやっていると思います」


 君塚先生が真顔に戻ってそう言ってくれる。

 ベテラン教師に認められてほんの少し心が軽くなる。

 私ほど優秀な教師はそうはいないので、ここでダメ出しをされるとは微塵も思っていなかったけど。


 身だしなみを整え、教室に向かう。

 卒業式が始まればまた涙腺が崩壊しそうなので、腫れぼったい目元のことはあまり気にしていられない。

 私と君塚先生が入室すると、賑やかだった声が静まり視線がこちらに集まった。

 津野さんのようにいまから涙を流している生徒は稀で、大半は卒業式を楽しみにしている様子だった。


「みなさん、卒業おめでとうございます」


 教壇に立ちみんなの顔を見回しながら挨拶したものの、最後は涙声になってしまう。

 この子たちのほとんどとは1年生から授業などで接してきた。

 その頃はみんな中学生に上がったばかりの子どもっぽい外見だった。

 それが、3年経ちすっかり大人びている。

 体つきが変わり、男子は男っぽく、女子は女っぽくなった。

 幼さやあどけなさが残っていた顔は見違えるようだ。

 身に纏う雰囲気も大人のそれに近づいている。


 最後の点呼を行うが、出席簿は滲んで見えない。

 見なくても大丈夫だが、ひとりひとりの「はい」の返答にまた感情の波が押し寄せて来てしまう。

 息も絶え絶えに点呼を終えると私は君塚先生を見た。

 彼女は軽く頷いて私に代わって教壇に立ってくれた。


「藤原先生は涙もろい方ですが、皆さんのことを真剣に想っているからこの様になっています。先生に心配を掛けないよう立派な大人になってください」


 君塚先生がさらに私を泣かせに来る。

 副担任は卒業式の注意事項を改めて確認すると時計を見て、「それでは廊下に出てください」と促した。


「大丈夫ですか?」と日々木さんが私のところに来て気遣ってくれる。


 その目はほんのりと赤く見えた。

 私は「ありがとう」と泣きながら微笑んでみせた。


 全員が廊下に出たのを見て、私も教室を出る。

 名残惜しさから入口に立って空っぽになった室内を振り返った。

 この1年間いろいろあった。

 私の手に余る出来事も起きたが、なんとか乗り越えた。

 全員が無事に卒業するというのは決して当たり前のことではない。

 担任になって初めてその難しさを知ることができた。

 私はまだまだ駆け出しの教師だが、今日のことは絶対に忘れないだろう。


「藤原先生、出発します」


「はい」


 生徒たちが廊下に整然と並んでいる。

 彼ら彼女らは私の教え子だ。

 涙は止まらないが、誇りを胸に抱いて私は歩き始めた。




††††† 登場人物紹介 †††††


藤原みどり・・・3年1組担任。国語教師。教師になって4年目で初めての担任を受け持った。学生時代はザ・優等生といった感じの生徒だった。


君塚紅葉・・・3年1組副担任。英語教師。今年度他校から赴任したベテラン。ジャージ姿がトレードマークだが、今日はもちろんスーツ姿。


日々木陽稲・・・3年1組。学級委員。クラスメイト以外からも記念写真の撮影を頼まれ、泣く暇もない忙しさ。


日野可恋・・・3年1組。卒業式に出席するかどうか決めかねていたが、晴れて気温が高いことと陽稲が答辞を読むことが出席の決め手となった。


 * * *


 卒業式のあと、教室で卒業証書をひとりひとりに手渡した。

 その後、サプライズで私と君塚先生に花束が贈られた。

 君塚先生には日々木さん、私には日野さんが花束を持って向き合う。


「日野さんが卒業式に出ることができて良かったと思っています」


「この1年間便宜を図っていただき感謝しています」


 今年度は特例措置があったとはいえ、教師の中には学校に来るように働きかけるべきだという意見もあった。

 彼女の場合は学業面が文句のつけようのない成績だったので私がいなくてもなんとかなっただろう。

 それでも私は防波堤のような役割を担ってきたと自負している。


「生徒のためですし」と言ったあと、「私もいろいろと相談に乗ってもらったので……」と小声でつけ加える。


「転任先でも頑張ってください」と労われ、どちらが大人だか分からない感じだ。


 私も高校で頑張ってと声を掛けようとしたが、日野さんが頑張りすぎるといろいろと恐ろしいことが起きそうで、「健康に気をつけてくださいね」と言葉を換えた。

 制服姿なのにまったく中学生に見えない彼女は「ありがとうございます」と目礼する。


 これで日野さんから解放されると思った矢先に「近いうちに連絡します」と言われてしまった。

 私が驚いた顔を見せると「優秀な人との繋がりは大切にしないといけませんから」と彼女は目を細めた。


「優秀じゃないよ!」と叫ぶこともできず、いままでとは違った涙が零れてきそうになった。

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