第604話 令和2年12月30日(水)「買い出しの日」日々木華菜

「ヒナがいちばんショックを受けているよね」


 朝降っていた雨は上がり、陽差しのお蔭で過ごしやすい気温になっている。

 わたしはお父さんが運転する車の後部座席に座り、ボーッと窓の外を眺めていた。


 赤信号で一時停止すると、お父さんはチラッとこちらを見た。

 そして、正面を向いてから「ショックはみんな受けているよ」と穏やかに言う。


 昨日、お母さんが倒れた。

 一命は取り留めたもののまだ予断は許さないと言われている。

 新型コロナウイルスの検査は陰性だった。

 だが、心不全という病名を聞いてわたしは顔面蒼白になった。


 信号が青に変わり車が動き出す。

 わたしたちは年末年始に備え買い物に向かっているところだ。

 こんな時でも日々の生活のことは考えないといけない。

 お正月のおめでたい気分は吹き飛んでしまったが、入院中のお母さんを安心させるためにも家のことをしっかりしなければならないのだ。


 わたしはフーッと息を吐く。

 昨日わたしが家に帰ると、妹のヒナはいままでに見たことがないほど青白い顔をしていた。

 わたしは話を聞いただけだが、彼女は倒れたお母さんの姿を見ていた。

 その苦しげな顔を。

 どこか実感の湧かないわたしと違い、ヒナは本当に怖かったと思う。

 お風呂掃除をしていて倒れたことに気づくのが遅れたと気に病んでいたそうだが、それを言うならわたしの方がもっと罪深い。

 わたしが家に残っていれば、ヒナにそんな風に思わせずに済んだはずだ。

 久しぶりにわたし、ゆえ、アケミ、ハツミの4人が顔を揃えるとあって、舞い上がって出掛けて行った。

 タイミングが悪かったとしか言いようがない。


 ヒナは今日、昨日できなかった掃除の続きをしている。

 無理しなくてもと思うが、じっとしていると不安ばかりが頭をよぎるそうだ。

 わたしも昨日から台所に籠もる時間が増えている。

 料理をしている間は余計なことを考えずに済む。

 両親と一緒に作る予定だったおせち料理を黙々とひとりで作っていた。


 郊外の大型スーパーに到着した。

 スマホのメモに目を落とす。

 お正月は毎年北関東の祖父の家で過ごしていた。

 おせち料理も親戚一同が集まってみんなで作った。

 今年は新型コロナウイルスの影響で帰省を取りやめた。

 お盆の時期よりも厳しい感染状況なので祖父も仕方がないと折れたそうだ。


 帰省の最中や向こうで倒れていたらもっと大変だったかもしれない。

 不幸中の幸いではあるが、家で倒れても大変なことには変わりがない。

 医療崩壊なんて言葉が飛び交う中での入院だからなおさら心配だ。

 新型コロナウイルスの可能性を疑われヒナの付き添いは認められなかった。

 陰性が確認されたものの、今朝お父さんが入院の手続き等のために病院に行ったものの面会はできなかったそうだ。

 年末年始ということで手術するかどうかといった今後の方針を立てるのももう少し時間が掛かるらしい。

 わたしやヒナがお母さんの顔を見て安心できるのも年が明けてからのことになる。


 陰性という結果が出てもお父さんは新型コロナウイルスを警戒して民間のPCR検査の予約をわたしたちの分まで取った。

 その結果が出るまで原則として外出を自粛するようにと娘たちに要請した。

 とはいえ日用品の買い出しは必要なので、今日はかなり多めに買い込む予定だ。


 みんながマスクをしていることを除けば店内は普段と変わりがない光景だった。

 いや、マスク姿はもう見慣れて、着けている方が普段通りという感じだろうか。

 平日の午後にも関わらず家族連れが多く、正月を前に楽しげな雰囲気が漂っている。

 お母さんのことがなればわたしもそんな風に買い物をしていたはずだった。

 他人の幸せそうな姿を見て、苛立ちを感じるわたしがいた。


「これも買っていくか」


 お父さんは伊勢エビや鯛といった高級な魚介類の並んだ一角を指し示す。

 正月の縁起物として普段より豪勢なものが並べられていた。

 わたしはその中からひとつを手に取り、「カニくらいなら」と答えた。

 値段はかなりするが、鍋料理に最適だし、正月の贅沢としてギリギリ許される価格だと思った。


「じゃあ、それも入れよう」とお父さんはわたしが手にしたカニだけでなく伊勢エビと鯛など手当たり次第に買い物カゴに入れていく。


「ちょっと、買いすぎだよ」とわたしが慌てて止めても、「いいんだよ」と譲らなかった。


「お母さんが大変な時にこんなの……」


「大変な時だからこそだよ。まず、僕たちがしっかり食べて元気でいないとお母さんは心配するだろ?」


 お父さんの言葉にわたしは渋々頷いた。

 それでも罪悪感の消えないわたしにお父さんは言葉を続ける。


「こんな美味しそうなものを食べたってお母さんに毎日見せよう。あの人のことだ。私にも食べさせろと言って早く元気になってくれるさ」


 お父さんが微笑むとわたしもつられて微笑んだ。

 確かにお母さんなら言いそうだ。


「でも、食事制限とかあるんじゃない?」と口にすると、「そこは華菜が栄養士として管理してくれるだろ?」とわたしに責任を押しつけた。


「ま、まあ……」とわたしは頷く。


 1年半にわたってほぼ独学で栄養学について勉強している。

 分からないところは可恋ちゃんに聞けば教えてもらえるので、独学といってもかなり恵まれた環境だった。


「それに、華菜の料理なら陽稲を喜ばせられるだろ?」


 それは難問だった。

 ヒナはわたしたち家族が子どもの頃から美味しいものを食べさせてきたせいで舌が肥えている。

 一方で、太ることを恐れて量は控えめだった。

 何でも美味しそうに食べてくれるが執着はしない。

 落ち込んでいるヒナが気分を浮上させるような料理って何だろう。

 食べ物のことで彼女がもっとも目を輝かせたのは出張料理人の料理を食べた時だったと思う。

 後日わたしも食べて感動に打ち震えた。

 さすがにあのレベルの料理はいまのわたしでは作れない。


 わたしはかなり長い間思考の海に沈んでいたようだ。

 いつの間にかタイムセールが始まっている。

 お父さんは側で辛抱強く待っていてくれた。


「喜ばせることができるかどうかは分からないけど、最善は尽くすよ」


 わたしがそう言うと、お父さんは朗らかな笑顔を浮かべて「いまの華菜は良い顔をしていたよ」と褒めてくれる。

 そして、「お母さんはいま病気と闘っている。僕たちも不安に負けずにこの試練に立ち向かおう」と語った。

 その言葉は自分に言い聞かせるようでもあり、いつも若々しいお父さんが少し老け込んだように見えた。


 ……ヒナだけでなく、お父さんも元気づける料理を作ろう。


 わたしは料理の力を信じる。

 ヒナを、お父さんを、お母さんを、わたしの料理で幸せにする。

 決意を胸に秘め、まずはいまできること=食材選びから始めることにした。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木華菜・・・高校2年生。友人たちからはシスコン扱いされているが、ヒナのような天使が妹なら誰だってこうなると反論している。妹のために作る料理が唯一の趣味だったが、それが高じてプロを目指したいと思うようになった。


日々木陽稲・・・中学3年生。春から親友の可恋宅で暮らしている。昨日母親が倒れているところに遭遇しパニックとなった。


日々木実花子・・・華菜と陽稲の母親。意識は取り戻した。横浜のデパートに勤務している。


日野可恋・・・中学3年生。昨日から電話で陽稲の精神面のサポートを行っている。

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