第603話 令和2年12月29日(火)「大掃除の日」日々木陽稲

「お母さーん、お風呂掃除始めるねー」


 汚れてもいい部屋着に着替えたわたしはリビングにいるお母さんに声を掛けた。

 今日は大掃除だ。

 すでに台所などは日曜日にお父さんとお姉ちゃんが済ませている。

 今日はわたしとお母さんとでお風呂場や玄関周りの掃除を行う予定だった。


 ちなみに、可恋の家も今日は大掃除だ。

 こちらは業者を呼んでプライベートルーム以外を一気に行う。

 だから、いつものように可恋と純ちゃんと3人で朝食を摂ったあと自宅に帰ってきたのだ。


 返ってくるはずの返事がなく、わたしはリビングを覗き込む。

 お母さんはこちらに背中を向けて椅子に座っていた。

 かなり大きな声で言ったのに聞こえなかったのかなと思い、もう一度呼び掛けた。


 振り向いたお母さんは顔色が悪く疲れているように見えた。

 わたしは心配になって「大丈夫?」と駆け寄る。

 お母さんは無理に笑顔を浮かべて「ちょっとね」とか細い声を出した。

 普段はお父さんよりも男らしいと言われる人だ。

 わたしは不安に駆られ、「ベッドで休むか病院に行くかした方が良いんじゃない?」と提案した。


 お母さんは「……そうね。もう少し様子を見て決めるわ」と答え、なおも気遣うわたしに「無理をせずに休んでいるから」と心配を掛けまいとした。

 心配ではあるがそれ以上強くは言えない。

 飲み物などを持って来ようかと言ったが、いらないと断られた。


 見た感じかなり辛そうだ。

 お父さんは今日が仕事納めなので家にいない。

 お姉ちゃんも友だちに会うために出掛けている。

 いまこの家にはわたしとお母さんのふたりしかいない。


 お父さんに連絡しようかと思ったところで、「私は座っていたら平気だから。今日は陽稲に私の分まで頑張ってもらうわ」とお母さんは努めて明るい口調で言った。

 わたしが側でおろおろしていると余計に気を使うかもしれない。

 わたしもなるべく明るい声で「任せて」と答え、お風呂場に向かうことにした。


 心の不安を掃除に集中することで解消しようとわたしは細かなところまで丁寧に綺麗にしていく。

 春以降可恋の家で暮らしているためわたしがこのお風呂に入る機会は激減した。

 しかし、それを認めてくれた両親や何かとサポートしてくれるお姉ちゃんが毎日入るお風呂だ。

 例年の大掃除以上に心を込めて、わたしはお風呂場をピカピカにした。


 お風呂掃除が終わり、わたしはいったん休憩するためにリビングに戻る。

 お母さんはまだそこにいるのだろうか。

 それとも自分のベッドで寝ているのだろうか。

 そんなことを考えながらリビングに足を踏み入れた。


「……お母さん?」


 真っ先に目に入ったのは、床に横たわるお母さんの姿だった。

 ショックのあまりわたしはよろめきそうになる。

 何とか踏みとどまると、わたしは転ぶような勢いでお母さんに駆け寄った。

 口からは「お母さん!」と呼び掛ける声が自然と出ていた。


 お母さんは右手で自分の胸元を押さえて横向けに倒れていた。

 微かに苦しそうな呻き声が聞こえるが、呼び掛けには応えない。

 わたしはお母さんの前にしゃがみ込み、肩に手を載せた。

 でも、揺さぶって良いかどうかも分からない。


 ……どうしよう。


 ほとんどパニックに陥ったわたしは「助けて、可恋」と心の中で叫ぶ。

 それでようやく連絡をしなければならないことに気がついた。


 ……救急車を呼ばないと。


 そうは思うものの目の前で倒れているお母さんから目が離せない。

 自分のスマホは着替える時に自室に置いたままだ。

 居間には固定電話があるものの、わたしは立ち上がると自分の身体を抱き締めるように腕を抱えて「待っていてね」と口にした。


 足をもつれさせながら自分の部屋に駆け込むとわたしはスマホを手に取る。

 すぐに可恋に電話を掛ける。

 リビングに戻ろうと部屋を出る瞬間に『どうかした?』と可恋の声が耳に届いた。


「可恋!」


 わたしの涙混じりの悲鳴に『ひぃな、何があったか落ち着いて話せる?』と可恋はいつもよりゆっくりした口調で語り掛けた。

 わたしは「お母さんがっ!」と叫ぶものの、あとの言葉が続かない。

 リビングに戻ると、お母さんは先ほどから微動だにしていないように見えた。


「どうしよう! どうしよう、可恋!」


 可恋はそれだけで何があったのかある程度理解したようだ。

 極めて冷静な声で『119番はしたの?』と聞いてくる。

 わたしは「まだ」と答え、リビングの電話のところへ向かう。

 可恋は『うまく伝えようとしなくていいから』と言ってわたしに電話するよう促した。


 最初はあたふたしてうまく話せなかったが、向こうはさすがプロという感じで必要な情報を巧みに聞き出した。

 119番を終えると、『家族には知らせたの?』と可恋に聞かれた。

 わたしは焦ったように「まだ」と叫ぶ。

 固定電話を使おうとしたわたしに、可恋は『家族への連絡はスマホを使った方が良い』とアドバイスした。

 救急隊から連絡が来る可能性があるからと言われると頷かざるをえない。


 電話を切ることを躊躇うわたしに『大丈夫。いつでも掛けてきていいから』と可恋は優しく言う。

 わたしはスマホを強く握り締め、「うん」と頷いてから電話を切った。

 自分の心臓がキリキリと締め付けられるような気がする。

 わたしはお母さんの胸に置かれた手の上に自分の手を重ねた。

 そして、左手だけでスマホを操作してお父さんに電話を掛けた。

 お父さんは仕事中だからなかなか電話に出ない。

 それでも根気よく掛け続けているとようやく繋がった。


「お父さん! お母さんが……」


 それだけで察したお父さんは『すぐに帰る』と言った。

 お父さんにしては珍しい大きな声だ。

 わたしは「お願い!」と涙声で縋った。


 次いでお姉ちゃんにも連絡する。

 お姉ちゃんはすぐに電話に出た。

 わたしがお母さんが倒れたことを伝えると、お姉ちゃんは『え……』と絶句した。

 しばらく沈黙したあと、『病院はどこ? 命は? 何の病気? 大丈夫なの?』と質問を立て続けに浴びせてくる。

 そんなお姉ちゃんの取り乱した態度に遭遇したお蔭でわたしは少し落ち着きを取り戻した。


 お姉ちゃんの質問に答えている最中にインターホンが鳴った。

 わたしは急いで玄関に向かう。

 救急隊員は防護服に身を包んでいた。

 それを見て初めて新型コロナウイルスのことが頭をよぎった。


 お母さんが担架に乗せられ運ばれていく。

 わたしは救急隊員の質問に答えながら付き添うように玄関に向かった。

 家の前に救急車が停まっているのを見て、改めて大変なことが起きたのだと思い知った。

 掃除した時の恰好のままだったが、当然のように病院まで付き添うつもりだった。

 だが、わたしは救急車への同乗を断られた。


 わたしから事情を聞いていた人が「もしお母さんがPCR検査で陽性だった場合ご家族は濃厚接触者である可能性が非常に高いのです。検査結果が判明するまでは可能な限り自宅で待機していただくようお願いします」と子どものわたし相手に丁寧に説明した。

 搬送先の病院が決まり次第連絡すると言われ、お母さんを乗せた救急車は走り去っていった。

 玄関先にひとり取り残されたわたしはフラフラと家に入った。


 玄関でしばらくボーッとしていると、鍵を開ける音が聞こえた。

 振り向くとドアを開けたお父さんが驚いた顔でわたしを見ている。

 わたしがこんなところで立ち尽くしていると思っていなかったようだ。


 お父さんは少し躊躇ってからわたしを抱き締めた。

 お父さんからこんな風にしてもらったのは小学校の低学年の頃が最後だったんじゃないか。


「わたしがずっと側にいれば、もっと早く気づいたのに……」


 救急隊員の質問に答えているうちにそんな思いが頭に浮かんだ。

 ひとりで病院に運ばれたお母さんへの罪悪感がわたしの心を粉々に打ち砕こうとしていた。


「それは僕だって思っているよ。昨夜から調子が悪そうだった。もっと強く病院に行くように言えばよかったってね」


 お父さんの口調は優しいが、そこには悔恨の響きがあった。

 わたしの頭を大きな手で撫でると、「いまはお母さんの無事を祈ろう。大丈夫。きっと大丈夫だよ」と自分に言い聞かせるようにお父さんは言った。


 わたしはお母さんが倒れる前の様子や倒れてからの出来事を順を追って説明した。

 話していないと最悪の想像が押し寄せてきたり、自分を責めたりしてしまう。

 話し終えると「入院の準備が必要だね」と言ってお母さんの部屋に向かおうとした。


 そんなわたしをお父さんは呼び止めた。

 お父さんの表情から聞きたくない話をされると分かったが、逃げることはできない。


「感染の恐れがないとハッキリ分かるまで可恋ちゃんに会えないけど陽稲は理解してくれるね?」


 もちろん、わたしは黙って頷いた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学3年生。高校は推薦での入学が決まっている。今年春から実質独り暮らし状態となった可恋と暮らしている。


日野可恋・・・中学3年生。免疫系の障害を持つため新型コロナウイルスを非常に警戒している。中学校への登校を避け、人と会う機会が多い母親とも離れて暮らすほど。


日々木実花子・・・陽稲の母。横浜の百貨店勤務。現在はフロアに立つ機会は少ない。


日々木華菜・・・高校2年生。陽稲の姉。しっかり者だが母が倒れたと聞くとさすがに慌てふためいた。

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