第521話 令和2年10月8日(木)「冷たい雨の朝」日々木陽稲
「可恋、顔」と注意すると、半眼になった目がこちらを向いた。
思わず身震いしてしまいそうな朝だ。
台風が接近中なのだそうだ。
その影響なのか昨夜から雨が降り続いている。
そして、雨とともにとても冷たい空気が押し寄せてきた。
真冬並は言い過ぎだとしても、急に寒くなったので体感ではそんな感じがしてしまう。
10月上旬というこの時期にしては寒すぎる。
そう思わずにいられない天候だ。
それは寒さが大の苦手である可恋にとっては尚更辛いものだった。
マンションでぬくぬくと過ごすことができれば良かったが、タイミングが悪いことに今日から中間テストである。
制服は冬服になったものの、マンションから一歩外に出るとひんやりする。
薄手のカーディガンを羽織っているが、もう少し厚手のものの方が良かったかもしれない。
わたしの隣りにはまったく寒さを感じていないんじゃないかという純ちゃんがいて、反対側にはコートに身を包み防寒対策に余念がない可恋がいた。
「怖い顔になっているよ」とわたしは再度注意をする。
下級生が見たら泣き出しかねない顔だ。
あたりは薄暗く、いま彼女にバッタリ出くわしたら友人知人でも震え上がってしまうだろう。
まるで般若のよう……というと失礼だが、角が生えていたとしても驚かない。
「……」
わたしたち3人はいまマンションのエントランスから出たところに立っていた。
起きて以降何度も「休む?」とわたしは尋ねた。
可恋は淡々と出席する準備を整えていたが、ここまで来て引き返すことを考え始めたようだ。
気持ちは分からなくもない。
だが、世の学生たちは寒かったり雨が降っていたりするくらいでは休めない。
みんな嫌だなと思いながらも登校しているのだ。
感染症対策で普段登校していない可恋がごくわずか存在する登校日に寒いから休むというのはどうなのか。
そうは思ったものの、可恋の体調管理は最重要事項である。
可恋が行かないと言えば全面的に賛同するつもりだ。
即断即決の可恋が逡巡することは珍しい。
わたしは息を潜めて彼女の決断を待った。
「珍しいヤツがいるな」
そう言って雨に濡れるのも構わずに駆け寄ってきたのは都古ちゃんだ。
このマンションは中学校の正門前に建っている。
だから、わたしたちは色とりどりの傘をさした生徒たちが足早に歩いている姿を見ることができる。
ただこちらに目を向ける生徒はほとんどいない。
壁や植え込みがあるし、みんな傘をさしているので普通に歩いているとわたしたちに気づかないだろう。
都古ちゃんなら”野性の勘”でわたしたちに気づいたって言われても納得しちゃいそうだけど。
わたしか「おはよう、都古ちゃん」と声を掛けると、「おお、おはよう。今日は寒いな」と彼女はニッコリ微笑んだ。
寒いはずだ。
彼女はまだ夏服のままだ。
衣替えの移行期間中とはいえ、さすがに今日のこの冷え込みの中で夏服は無謀だと思う。
「都古ちゃん、寒くないの?」
「いま、寒いと言ったじゃないか」
「だって、夏服のままじゃない。純ちゃんでさえ冬服だよ」
「……風邪は危険」と純ちゃんがポツリと呟いた。
彼女は可恋から教わった感染症対策をバッチリ守っている。
新型コロナウイルスは肺にダメージを与える可能性もあるとかなり可恋に脅されたらしい。
わたしが昨夜冬服を着てくるようにと電話で厳命しておいたことも良かったのだろう。
「ほんと、風邪引いちゃうよ? 何か一枚持って来ようか?」
いまからでも急げば何か取ってこれるだろう。
しかし、都古ちゃんは「平気平気」と笑っている。
「鍛えているからな。寒さには強いぞ」と都古ちゃんは半袖をまくり力こぶしを見せてくれる。
純ちゃんや可恋の筋肉を見慣れているのでそれに比べると見劣りするが、普通の女の子よりは遥かにしっかり筋肉がついている。
足の筋肉ならもっとよく分かるかもしれないが、さすがに外でスカートをまくる訳にはいかないか。
「なんでこんなところで突っ立ってるんだ?」ともっともな質問を都古ちゃんがする。
わたしが可恋の顔を見ると、都古ちゃんもわたしの視線を目で追った。
ひと言も口をきかない可恋は相変わらず視線だけで人を殺せる目をしている。
サングラスがあればいいのだが、学校に行くのにサングラスはね……。
「寒いから行くかどうか決めかねているの」
わたしがそう説明すると当然のように都古ちゃんは呆れた顔をする。
都古ちゃんは「可恋って意外とお子様なんだな」と笑い、可恋にギロリと睨まれるが全然怯えた様子は見せない。
「そろそろ決めないと遅刻するよ」と焦れたわたしが急かす。
ここにじっと立っているのがいちばん寒い。
可恋は着込んでいるから平気かもしれないが、わたしとしては雨風の当たらない校舎内に早く行きたかった。
そんなわたしの様子に気づいた可恋が何かを差し出した。
使い捨ての携帯カイロだ。
まだ封を切っていない新品だ。
寒いとはいえ使うにはまだ早過ぎるような気もするが、ありがたく受け取っておく。
わたしに渡すということは自分はすでに使っているのだろう。
「行こうか」とわたしは純ちゃんと都古ちゃんを促す。
可恋につき合わせてふたりを遅刻させる訳にはいかない。
本当はテストが始まるまで少しでも勉強しておくべきところだ。
わたしが傘をさして歩き出すと、すっと純ちゃんがついて来た。
都古ちゃんも離れずについて来る。
可恋は……。
渋々といった顔で傘をさした。
そして、足早に追いつくとわたしと都古ちゃんの間に割り込んだ。
彼女にお子様だと笑われたことを根に持っているのだろう。
「1時間目は国語だね。純ちゃん、まとめたノートを時間ギリギリまで見て頭に入れておいてね」
純ちゃんはすんなり頷くが、わたしの心配は簡単には拭えない。
都古ちゃんは陸上で推薦が決まりそうという話だが、純ちゃんはまだ進路を決めかねている。
推薦での進学は可能なようだが、奨学金がつくかどうかが問題だった。
高校無償化の流れで私学への進学でも授業料などの負担はなくなるが、スポーツを第一線で続けることは高額の費用を伴う。
ただでさえ食費やトレーニング費用で経済的に大変なのに、高校ともなると合宿や遠征などが増えて負担はより大きくなっていく。
記録の計測会のような形で大会が行われているが、例年のような競技活動はできていない。
そのため推薦は取れても特待生は微妙なのだそうだ。
この辺りの知識は可恋の受け売りになる。
様々な可能性があるだけに今回のテストではできるだけ結果を残した方がいいと可恋に言われ、わたしは精力的に純ちゃんに勉強を教えていた。
「まるでお母さんだな」と都古ちゃんがわたしに言った。
本当にそんな心境に近い。
クラスが別々になって余計にそんな風になったかもしれない。
「だって、心配だもの」
「平気平気、なあ? 純ちゃん」と都古ちゃんは笑顔で安請け合いをする。
でも、いまは都古ちゃんの精神的な強さや明るさが大事だろう。
試験直前に心配したところでもう結果には繋がらない。
「信じているから。頑張ってね!」と言ってわたしは2組の教室の前で純ちゃんと別れた。
「大丈夫大丈夫。いざという時は可恋がパパッとやってくれるさ」
都古ちゃんは簡単に言うが、可恋といえど何でもできる訳じゃない。
わたしが不安げに可恋の顔を見上げると、彼女はわずかに頷いた。
やはり可恋は頼もしい。
わたしの顔がほころんだ。
可恋にあまり負担を掛けたくないが、どうしようもなくなったら頼るしかない。
わたしは感謝や期待の思いを込めて可恋に微笑みかけた。
困ったことに、その可恋は目から冷凍光線でも出しそうな顔をしていたのだけれど。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・3年1組。可恋と一緒に暮らしている美少女。成績は優秀。テストの点について可恋と賭けをしているが、それよりも幼なじみの純ちゃんのことが気になっている。
日野可恋・・・3年1組。生まれつき免疫系に障害を持っているため現在登校を見合わせている。感染症対策をしっかり取った上で前回の定期テストには出席した。そんな状況でも成績は学年トップレベル。
安藤純・・・3年2組。陽稲の幼なじみで中学2年生まではずっと陽稲と同じクラスだった。競泳のトップアスリート。彼女の両親は懸命に働いているが貧困と呼んでも差し支えがない環境にある。
宇野都古・・・3年1組。陸上部のエース。陽稲や純とは1年の時も同じクラスで仲が良かった。
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