第489話 令和2年9月6日(日)「異世界訪問」原田朱雀

 頭の中でまつりちゃんの口癖である「え、え、えー!」という叫びがリフレインする。

 ここは都内にある高級呉服店。

 言い知れぬ雰囲気があって、庶民のわたしが居ていい場所ではないという思いが湧いてくる。

 異世界に転生したらこんな心細さを感じるんじゃないか。

 それほどまでに日常とは異なる空間だったのだ。


 始まりは昨日の午後に掛かってきた日々木先輩からの電話だった。

 運動会の代休の日にインターナショナルスクールで行われるイベントのお手伝いを頼まれただけでなく、今日の買い物にも誘ってもらった。

 敬愛する女神様からのお言葉にわたしは有頂天になって一も二もなく承諾した。

 断るなんて選択肢は頭の中に1ミリも浮かばなかった。


 しかし、いつもなら一緒に行ってくれるちーちゃんが家族とお出掛けするということで不参加になってしまった。

 先輩からのお誘いが急だったから仕方がない。

 まつりちゃんにも声を掛けてみたが、「恐れ多いです!」と悲鳴を上げて電話を切ってしまった。

 学校でなら首に縄をつけてでも引っ張っていけるが、さすがに家まで押しかけることはできない。

 結果的にわたしひとりが参加することとなった。


 そして、今日の午後。

 雨が降りしきる中、わたしの家の前に一台の高級車が停まった。

 黒塗りのその車はハイヤーだそうで、これに乗ってお店まで向かうそうだ。

 後部座席に日野先輩、日々木先輩、わたしの順で座る。

 3人並んでもシートには余裕がある。

 わたしの目はフリルのいっぱい付いた白いドレスを着た日々木先輩に釘付けになった。

 都心に向かう間、日野先輩はスマホをいじっていたが、日々木先輩はとろけるような笑顔でずっとわたしに話し掛けてくれた。

 これから行く呉服店のことや和服について1日中でも話すことができるんじゃないかと思うくらい饒舌だった。


 そんな車中が一変したのは途中でひとりの黒人女性が乗り込んでからだった。

 彼女はキャシー・フランクリンという名前で、年齢は先輩たちと同じだけれど学年はわたしと一緒だと紹介された。

 インターナショナルスクールの仕組みはよく分からないので、そういうものかと納得した。

 彼女が助手席に座って以降、会話がすべて英語に切り替わった。

 日野先輩も日々木先輩も驚くほど流暢に英語を話す。

 運転手さんも英語ができるようで、わたしひとりが取り残された気分だった。

 日々木先輩はそんなわたしを気遣って時々日本語で説明してくれた、

 だが、当たり前だと思っていた世界が実はまったく別のものだったと気づいたくらい大きな衝撃を受けた。

 そう、異世界に迷い込んだくらいに……。


 たどり着いたお店もわたしの想像を超えていた。

 何のお店か分からない門構えを恐る恐る入ると、和服姿の店員さんが出迎えてくれた。

 すぐに店の奥に案内され、テーブルに座ってお茶と和菓子でもてなされる。


 横浜のデパートで働く日々木先輩のお母さんがこのお店で和服のことを学んだそうだ。

 以来つき合いがあり、先輩の着物の多くがこのお店で仕立てられたらしい。

 先輩たちはこの異様な空気にすっかり溶け込んでいるが、わたしは場違いなところにいるように感じて心臓のドキドキが収まらなかった。

 せっかくの和菓子の味も分からないまま食べ終わると、今度は2階に案内された。


 その部屋には1枚の着物が展示されていた。

 遠目には黒。

 ぼんやりと輝くその着物は強烈な存在感を放っていた。

 その場にいた全員が声も出せずに近づいて行ってしまう。

 魔力でも籠もったような見る者を魅了する着物だった。


「……凄いね」と日々木先輩の口から感嘆の言葉が漏れた。


 その中に様々な色合いが溶け込んでいるような不思議な黒だ。

 角度や光の具合によって紺や紫、時に赤や深い緑にも見える。

 ほんのわずかに入った金色が鮮やかで、全体を引き立てている。

 透かしのような紋様が目を飽きさせない。

 いつまでも眺めていたいと思う逸品だった。


 キャシーさんが興奮気味に英語で何かを言った。

 おそらく着てみたいとかそんなことだろう。

 わたしでは絶対に釣り合わないが、モデルのようなほかの3人ならきっと見映えがするだろう。

 彼女の声によって、この着物の持つ神々しさの呪縛から解放された。

 そうなると気になるのがお値段だ。

 なんとも下世話な話だが気になってしまう気持ちは抑えきれない。

 値札なんてどこにもないので、小声で日々木先輩に尋ねてみた。


「うーん、どうなんだろう。さすがのわたしでも欲しいって言えない値段じゃないかな」


「海外の富豪向けで、1ミリオンドルとかなんじゃない」と日野先輩が口を挟む。


 ミリオンって100万だったよね。

 1ドルって100円くらいだっけ?

 それを掛け合わせると……。


「そ、そんなに!」とわたしは思わず叫んでしまった。


 自分の大声にびっくりして慌てて口を手で押さえる。

 日野先輩によると、このレベルになると値段はあってないようなものらしい。

 わたしは改めてこの着物を見つめた。

 一生働いても届くかどうか分からないような金額の着物だなんて……。


 わたしが呆然としているうちに、キャシーさんが着物の着付けをしてもらうことになった。

 別の部屋に案内され、わたしたちはそれを見学する。


「キャシーは着物と浴衣の区別もつかないから、体験させようと思ってね」と日野先輩が説明する。


「わたしも着物欲しいなあ」と日々木先輩が切なそうな声を出した。


「高校入学のお祝いに買ってもらおうかな。可恋も一緒にどう?」


 わたしは先ほど聞いた着物の価格のショックがいまだに尾を引いていた。

 一方、日々木先輩の話し方には普通の着物ならポンと買えるという響きがあった。

 住む世界が違うとまざまざと思い知らされた。


「入学式は制服じゃない。いつ着るの?」と日野先輩は乗り気ではないようだ。


「臨玲の制服ってちょっと古めのセーラー服でしょ。記念写真に残すのなら、やっぱり記念に残るような装いが必要だと思うの」


 日野先輩が「ひぃなは新調しなくても……」と言い掛けると日々木先輩がギロリと睨んだ。

 いまだに小学生に見える御姿は、神様が日々木先輩の完璧な容姿を変えたくないと望んだ結果だとわたしは信じている。

 わたしもこのロリロリしい可愛らしさを永遠に保って欲しいと思っているなんて口が裂けても言えない。


「今日は浴衣を買いに来たんだから」と日野先輩が宥めて、日々木先輩は不承不承頷いた。


 着物まで買うとなると選ぶ時間がもの凄く掛かる。

 キャシーさんやわたしがいるので、日々木先輩も今日のところは思いとどまったようだ。


 そんな話をしているうちにキャシーさんの着付けが完成した。

 店員さんはずっと英語でキャシーさんの相手をしていた。

 畳張りの完全な和の空間なのに英語がデフォルトになっていて、ここも異世界だ。


 キャシーさんは少年のような雰囲気をまとっていたが、着物を着るとそれが消えて別人になった。

 花をあしらった明るい赤を基調とした着物で、とてもよく似合っている。

 しかし、淑女のような佇まいは言葉を発した瞬間に打ち砕かれてしまった。

 意味が分からないのに、声を聞くだけで残念さがにじみ出てくる。


「重くて動きにくいんだって。でも、満更でもないみたいね」と日々木先輩が通訳してくれる。


 今日先輩は小柄な身体に不釣り合いなほど大きなカメラを持って来ていた。

 重くないですかと尋ねると、腕を曲げて力こぶを見せてくれる。


「鍛えているんだから大丈夫よ!」と先輩は微笑むが、子どもが背伸びした感じで微笑ましい。


 だが、先輩は意外なほど軽々とカメラを扱っていた。

 着物姿のキャシーさんは喜んでポーズを取っている。


 それが一段落すると、今度は浴衣の着付けとなる。

 わたしも一応着付けはできるが、改めて店員さんにコツを教えてもらう。

 プロの手際は素晴らしい。

 浴衣の着付けだけでなく和服の扱い方などここで得た知識は生涯の財産になるんじゃないかとわたしは思った。


 さらに、浴衣の試着もさせてもらった。

 わたしはとても買えないからと遠慮したが、日野先輩が私の代わりだからと言ってくれた。

 ありがたい申し出にわたしは何度も頭を下げた。

 これまで”魔王”と呼んでいたことを心の中で詫びた。

 爽やかな水色の浴衣は素敵で、日々木先輩に撮ってもらった写真を見ると普段の100倍くらい可愛く見えた。

 貯金を崩してでも買うべきかと悩む。

 でも、浴衣なんて年に何度も着る機会はない。

 まして今年の夏はもう終わりかけている。

 1回しか着ないかもしれないものをポンポンと買える人たちが羨ましくもあり、それができない自分が恨めしくもあった。


 3人が浴衣やそれに合った小物を選び終え、この異世界体験も終わりを迎えようとしていた。

 わたしは名残惜しいような、ホッとするような複雑な気持ちだった。

 こんな体験は生涯に二度とないかもしれない。

 わたしにとってそれほど特別な出来事だった。

 そんなわたしに日々木先輩がふたつの包みを差し出した。


「これ、今度のイベントを手伝ってくれるお礼。鳥居さんと二人分ね」


 先輩はにこやかな顔でこのお店の巾着袋だと教えてくれた。

 安いものではないだろう。

 学校外でのお手伝いとはいえ、中学生のお礼にしては高価すぎるのではとわたしは受け取るのを躊躇った。


「アルバイト代だと思って。その分はきっちり働いてもらうつもりよ」と日野先輩がわたしの心の負担を軽くしてくれる。


「それなら……」とわたしは受け取った。


 この異世界を訪れ、女神様と魔王様から贈られたチートアイテムかもしれない。

 これを持っていればいままで以上の勇気や希望を抱けるんじゃないかとわたしは思った。


 わたしが感動に打ち震えていると、キャシーさんが駄々をこねたように大声を出している。

 日々木先輩によると、浴衣を着て帰りたいらしい。

 今日は生地を選んだだけで、これから仕立ててもらうんですよね……?


「キャシー!」と日野先輩が自分よりも大柄なキャシーさんを一喝した。


 それだけでキャシーさんはおとなしくなる。

 わたしは日野先輩の顔を見てしまった。

 それは誰がどう見ても”魔王”そのもので……。




††††† 登場人物紹介 †††††


原田朱雀・・・中学2年生。1年の時に陽稲たちの協力を得て手芸部を創部した。陽稲を女神と崇める一方、可恋を魔王と呼び、それがほかの2年生の一部にも広まった。


日々木陽稲・・・中学3年生。ロシア系の血を引く日本人離れした美少女。祖父は事業で成功を収め非常に裕福。その祖父から多額の被服費をもらい、ファッションデザイナーへの道を歩もうとしている。


日野可恋・・・中学3年生。父親からの養育費を元手に投資をしてかなり稼いでいた。最近は多忙なため堅実な運用のみを行っている。


キャシー・フランクリン・・・G8に留年した15歳。将来の夢は世界最強のニンジャ。キモノを着て修行すれば可恋より強くなれると信じている。


鳥居千種・・・中学2年生。朱雀の幼なじみで親友。手芸部でも副部長として部長の朱雀を支えている。Web小説の愛好家で、日々朱雀にその知識を吹き込んでいる。


矢口まつり・・・中学2年生。朱雀から強引に手芸部に誘われた引っ込み思案な少女。朱雀に振り回されることが多い。

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