第159話 令和元年10月12日(土)「雨音の中で」辻あかり
居間のテレビの声が雨音でかき消されている。
うちは壁が薄いので隣りにある自分の部屋にいてもいつもはテレビがうるさくて気が散る。
今日は、そのボリュームを上回る雨が叩きつける音の大きさにひとり世界から取り残されたような感覚になった。
蛍光灯の人工的な明るさがかえって心細さを募った。
居間にはお母さんがいる。
お父さんはこんな大きな台風が直撃する最中でも仕事に行っている。
お母さんの仕事が休みなのは本当に救いだった。
こんな時に家でひとりになるなんて耐えられない。
なのに、そのお母さんとケンカした。
両親ともに仕事が忙しく台風への備えが十分にできなかった。
昨夜電話で外に出してある植木鉢などを家に入れておくように言われていたのに、あたしは面倒くさがってやらかなった。
そのことをお母さんに叱られ、愚痴愚痴と責められて、あたしはキレて自分の部屋に引き籠もった。
あたしが悪かったのは事実だけど、謝ったんだし、そんなに何度も言わなくてもいいじゃない。
テレビの音が聞こえてこないと、お母さんがいるかどうか分からなくて心配になってくる。
こんな雨の中、出掛けることはないと思う。
ただ昨日ろくに買い物もできなかったと嘆いていたから、あたしを置いてコンビニにでも行くんじゃないかと不安になる。
居間に戻ればいいだけの話なのに、それができない。
あたしはお母さんに「甘やかし過ぎた」と言われるたびに心臓がギュッと鷲づかみにされたような気分になる。
あたしは一人っ子で、両親が共働きで、甘やかされて育ったそうだ。
自分に我が儘なところがあるのは自覚している。
でも、我が儘な子なんていくらでもいるじゃない。
あたしは人前では我が儘なところを見せないように「いい子」を演じてきた。
その反動か、家ではどうしても我が儘なところが出てしまう。
いい子を演じているせいか、友だちとの関係は悪くはない。
ただ親友と呼べるような仲の良い友だちは作れない。
そこそこの距離を保つだけの間柄。
いまみたいに沈んだ気分の時に助けを求める相手はいない。
こんなあたしを救ってくれるのは笠井先輩しかいない。
……だなんて、妄想だって分かっている。
先輩にとってあたしは後輩の中のひとりでしかない。
あたしは昔から好きなものに出会うと一直線に突き進むタイプだった。
ある時はお花屋さんになりたくて、花の名前をいっぱい覚えた。
ある時はアイドルに憧れ、家で歌やダンスの練習をしてお母さんに怒られた。
短ければ数日、長くても半年もすれば他へ興味が移ってしまう。
そんなあたしがテニスの全米オープンで大坂なおみ選手の優勝をたまたま見て、ファンになり、その後も試合をテレビで見るようになった。
意外と長く続くことに両親は驚いたが、テレビで試合を見たり、ちょっとしたグッズを買ったりする程度の趣味だということで温かく見守ってくれた。
あたしが中学でソフトテニス部に入った時はさすがに大丈夫かって目で見ていた。
あたしは運動は得意ではなかったし、テニスの試合を熱心に見ていたといっても軟式と硬式の違いすらよく分からない素人だった。
入部の時に、大坂なおみ選手に憧れたと話すと、上級生には笑われ、同級生にはバカにされた。
ソフトテニス部は真面目に練習している人は少なく、そういう人でも地区大会ではすぐに負けてしまう弱小クラブだった。
そんなところでもあたしは下から数えて何番目というくらいの下手っぴで、ラリーを続けることさえほとんどできなかった。
辞めた方がいいんじゃって面と向かって言われたこともあった。
あたしが落ち込んだ時に背中を押して支えてくれたのが笠井先輩だった。
第一印象はチャラチャラした感じの人だった。
いかにもギャルって見掛けで、近寄りがたい印象。
オシャレしてますって雰囲気があって、実際オシャレで、コスメにしても流行の先端追っかけているみたいだし。
人を小馬鹿に見下すような顔をすることがあって、目を付けられたらヤバいかもと思った。
そんな人が、あたしがめげていると必ず声を掛けてくれた。
内容は「しっかりやれ」とか「もう少し頑張ってみろ」とかその程度のことだけど、それが何度も続くと、ちゃんと見てくれているんだなと分かった。
それからはあたしも笠井先輩のことをよく見るようになった。
態度はともかく、練習はサボらないし、最後までやり抜いていた。
後輩には厳しく、1年からはウザいと陰で言われることもあった。
だから、笠井先輩がソフトテニス部を辞めると聞いた時には喜ぶ1年も多かった。
笠井先輩に「だいぶ様になってきたな」と言われて、もっと頑張ろうと思っていた矢先にあたしは先輩が辞めるという話を聞いた。
ショックだった。
足下が崩れて立っていられなくなるくらいの衝撃だった。
その日はどうやって家まで帰ったか覚えていないほどだった。
その後、笠井先輩がダンス部を作ると聞いた。
あたしは勇気を振り絞り、先輩に「ついて行きたいです」と話した。
「最後は自分で決めることだけど、よく考えてね。自分が本当にやりたいことが何なのかを」
先輩は困った顔であたしに言った。
テニスへの熱はいつの間にか冷めていた。
あたしはソフトテニス部を辞めてダンス部に入ることを決めた。
我が儘だとは分かっている。
しかし、ソフトテニス部に未練はなかった。
雨音は強弱こそあるものの、止むことなく続いている。
あたしは隣りの居間に向かう。
お母さんは心配そうな顔でテレビの台風情報を見ていた。
あたしの方をチラッと見ただけで何も言わない。
「ごめん」
あたしの声は届いただろうか。
居間にも雨の音は響いている。
それに負けないような大音量でテレビからニュースを読み上げるアナウンサーの声が聞こえる。
「……ソフトテニス部、辞めることにした」
ラケットだとか色々と買ってもらったのに半年も続かなかったことになる。
怒られるかと思ったが、お母さんは「あなたにしては長く続いたわね」とだけ言った。
「今度はダンス部に入る」とあたしが言うと、「家の中で練習しちゃダメよ」と注意された。
「分かってる」と答えると、「まあ、しっかりやんなさい」とお母さんは言った。
その声はどんな雑音にも負けずにあたしの心に届いた。
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