第40話 令和元年6月15日(土)「危険」日々木陽稲

 目の前に立つ可恋がスッと右手を突き出した。

 わたしの眼前に向けて。


「絶対に当てない」という可恋の言葉を心から信じていた。

 それでも、思わずギュッと目をつぶる。

 顔に風が当たる。

 迫ってきた可恋の拳が脳に焼き付いていた。


「大丈夫?」


 言葉が出ない。

 身体が動かない。

 膝がガクガクと震え、立っていられないと思うのに、しゃがみ込むこともできない。


「ひぃな?」


 可恋の心配そうな声に、なんとか目を開く。

 たぶん涙目になっているだろう。

 可恋はゆっくりと近付いて、わたしの肩を抱いてくれた。

 その温もりでようやく少しだけ落ち着いた。

 膝が崩れ落ちるように座り込んだわたしの横に可恋が腰を下ろし、わたしの頭を抱き抱えてくれた。




 週末なのでいつものように可恋の家に泊まりに来た。

 夕食の後は身体を軽く動かす。

 筋トレを続けてきた成果を可恋に褒められ、わたしは調子に乗った。


「いつも可恋や純ちゃんに守ってもらってばかりだけど、これでひとりでも平気になったかな」


 ウキウキした気分で発した言葉を可恋はあっさりと否定する。


「ひぃなは分かってない」


 家族や可恋から外でひとりにならないように口が酸っぱくなるくらい言われている。

 いつまでも子ども扱いされているようで、不満に思うこともあった。

 可恋の言葉に顔をしかめると、ため息交じりに「一度経験してみないと分からないかな」と言った。

 そして、わたしを立たせて、その顔面に突きを放った。




「今のって全力じゃないよね?」


 喋れるようになるまでに10分以上かかった。

 まるで自分の身体じゃないくらいに身がすくみ、本当に自由に動けなかったのだ。


「そうだね」


 可恋が答えた。

 道場で見た可恋はもっと恐ろしげだったと思う。

 それに比べるとさっきのは本当に軽く手を出したという感じだった。


「身体をビクッとさせる程度に抑えたつもりだったんだけど、怖がらせすぎたね。ごめんね、ひぃな」


 わたしは首を振る。


「可恋の言う通り、わたし、分かってなかった」


 ここまでショックを受けるとは想像していなかった。


「人間は恐怖を感じると身体が動かなくなる。そうなると、逃げ出すことも、助けを呼ぶこともできない。普段の生活ではそこまでの恐怖を感じる機会は滅多にないから、知らない人が多いの」


 可恋の言葉にわたしは頷く。

 痴漢の体験談などで怖くて何もできなかったってよく聞くけど、それがどういうことかようやく肌で分かった感じだ。


「恐怖の感じ方は人それぞれだし、訓練や経験で乗り越えることもできる。男性だと恐怖を怒りが上回って行動できるようになったりするんだけど、女性だとそういうことは『はしたない』って言われて育てられたりするしね」


 わたしも怒るという発想がなかった。

 理不尽な目に遭ったのなら、怒るのが正常な反応かもしれない。


「性別に関わらず、危険を避けたり、自衛の意識や手段を持ったりすることは大切なんだよ。日本は安全だと言われてるけど、身を守る意識がなくていいって訳じゃないから」


「それでも危険な目に遭ってしまったらどうすればいいの?」


「それが街中なら、悲鳴を上げたり、防犯ブザーを鳴らしたり、助けを求めたりして騒ぐことが最優先だね」


「そうなの? 騒いだら犯人を刺激したりしない?」


「もちろんケースバイケースではあるんだけど、騒いで殺される状況だと騒がないでも殺されると思った方が良い。普通の犯罪者だと見つかったり、捕まったりすることを恐れるから」


「逃げるのは?」


「ひぃなは逃げ切れると思う?」


「絶対無理」


 わたしは足の遅さには自信がある。

 体力もないし。


「だよね。他に人のいないような場所だと逃げるしかないけど、余程の幸運がない限り逃げ切るのは難しいね」


「じゃあ、どうするの?」


「普段から気を付けるしかないね。小柄だったり、おとなしそうと思われたりするとより狙われやすいから、ひぃなは特にね。絶対に外でひとりにならないこと」


 筋肉もりもりで175cmを越える身長の純ちゃんと小学生並の身長のわたしがいたらどちらが狙われるか明らかだ。

 これまで怖い目に遭わずに済んだのは、いつも純ちゃんが側にいてくれたからだと思うと感謝の気持ちしか浮かばない。


「可恋なら平気?」


 わたしの問いに可恋は首を振る。


「相手が凶器を持っていたら勝てるかどうか分からないし、複数相手でも勝ち目は薄くなる。恐怖で動けなくなることはないから、助けを呼んだり、時間稼ぎしたりはできるけどね。でも、誰かを守りながらとなるとそれすら難しくなるから、とにかく危険には近寄らないことがいちばん」


 可恋のことを心配性だと思っていたけど、用心深いと言うべきだね。


「ひぃなを危険な目に遭わせないようにと心がけているけど、本人の自覚が足りないとどうしようもないこともあるから、周りに心配を掛けないでね」


「うん」


 いままで家族や純ちゃんに大切に守られてきたから安全だったのに、安全が当たり前だと思っていた。


「ありがとう、心配してくれて。可恋の言うことはちゃんと守るよ」


 家族や純ちゃんにも感謝の言葉を伝えようとわたしは心に誓う。

 可恋は微笑んでわたしの頭をポンポンと叩いた。


「お風呂ひとりで入れる? 怖くない?」


 可恋がからかう。

 せっかくいい雰囲気だったのに、また子ども扱いして!


「じゃあ、一緒に入ろう!」


 わたしがそう言うと、可恋の顔がみるみる赤くなった。

 珍しい。

 わたしは満面の笑みを浮かべる。


「ほら、行こう!」


 わたしは可恋の手を引いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る