第582話 令和2年12月8日(火)「おっぱい」水島朋子
「おっぱい」
暖かな陽差しが降り注ぎ、窓が全開でも寒さを感じない春のような陽気のお昼休み。
のどかな気分を吹き飛ばしたのはいつものように上野のひと言だった。
あたしが聞き取れなかったと思ったのか、彼女は再度より大きな声でハッキリと「おっぱい」と口にした。
慌てて「バカ、何言ってんだよ!」とあたしは声を荒らげる。
「だから、おっぱい」
ほかの奴だったらあたしが焦る様子を見てからかっていると判断するところだが、こいつのことだ。
単にその言葉を伝えようとしているだけなのだろう。
「わ、分かったから!」と上野を上回る大声でそれ以上の物騒な発言を食い止める。
辺りを見回すと近くの何人かが不審そうな顔でこちらを見ていた。
あたしはこっぱずかしくなって顔を赤らめ、「ガキじゃないんだから、そんな言葉を人前で使っちゃダメだろ」と上野に注意をする。
あたしたちのやり取りを笑って見ていたくっきーが「それで、それがどうかしたの?」と上野に尋ねた。
無表情娘はあたしに向かってとんでもないことを言った。
「見せて」
「バ、バカヤロウ! んなこと、できる訳ねぇじゃねえか!」
あたしは思わず自分の胸を両手で隠すように押さえて喚くように答えた。
一方、上野は表情を変えずに黙ったままだ。
「な、なんで他人の胸を見たいなんて言い出すんだよ」と問い詰めると、「絵の参考にしたい」とやっとまともなことを上野は語った。
「インターネットで人体の造型についていろいろ見た。その中でもっとも美しく感じたのがおっぱいだった。あれはすごい」
その言葉自体は理解できなくもない。
女のあたしでも女性の美しいボディラインが写った写真を見入ってしまうことはある。
上野は絵の上達を目指してひたすら描きまくっている。
ファッションショーで使うため目標は人物画を描くことだ。
「だったら自分のを見ればいいだろ」
あたしの言葉に上野は自分の胸を手で押さえながら「ぺったんこ」と答えた。
くっきーはゲラゲラ声を上げて笑っているが、彼女の胸も似たり寄ったりだ。
だから上野はあたしにだけ声を掛けたのだろう。
「……。あー、そういうのはつき合っている先輩に頼むのが筋なんじゃないか?」
「お願いしたけど、見せたら死んじゃうからダメだって」
突然後輩からそんなことを頼まれた先輩に同情する気持ちが湧いてくるが、あたしも同じような立場だ。
他人のことより、いまこの場をどう乗り切るかが肝心だった。
「とにかく、あたしもダメだ」
「なら、ほかの人に頼む」と上野は立ち上がろうとする。
こいつは普段はおとなしいのに、突如として行動力を発揮する。
来年のファッションショーを自分の手でやりたいと思ったら即行動に移した。
一度火がついたら周りが押しとどめようとしても止まらない、そんな性格の持ち主だ。
「バカ、やめとけ!」とあたしが言っても上野は納得しない。
「だいたい見るだけなら、そのネットのヤツで十分だろ」
「もっとこう……あらゆる角度から眺めて、感触を確かめたり、匂いを嗅いだりしたい」
「変態かよ!」
上野はいたって真面目な顔だが、誰が聞いても変態だと思うだろう。
このままならコイツは平気な顔であちこちに頼みに行く。
あたしも他人からどう思われようが気にしない
「くっきー、どうする? うちらも変態だと思われるぞ」
どうにかできないものかと思い悩むあたしとは裏腹に、くっきーはニヤニヤ笑っているだけだ。
あたしが睨んでも態度は変わらない。
「減るもんじゃあるまいし、見せてあげればいいじゃん」
「減る! 主に精神面で」
「乙女の恥じらいってヤツ?」と言うとくっきーは爆笑した。
あたしは外見は不良っぽいし、よく間違われる。
だが、中身はいたってまともだ……と自分では思っている。
クラスメイトに裸を見せるような痴女では断じてない。
「そんなに言うなら、くっきーが見せてやれよ」と声を出して笑っているくっきーに言うと、「いいよ」と何でもないことのように彼女は言った。
あたしは頭を抱える。
変態がもうひとりいた!
その会話を黙って聞いていた上野は「いらない」とキッパリ否定した。
あたしの視線にはビクともしなかったくっきーがそのひと言で傷ついた顔になった。
「納得できる理由を聞かせて。それがないのならお願いを聞いてくれる人を探してくる」
上野はあたしの目を見てそう言った。
表情は変わらないが、本気だということは伝わってくる。
「ダメなもんはダメだ」の一点張りのあたしにくっきーまで「それって理由になってないよね」とツッコんできた。
「恥ずかしいだろ?」と訴えても変態には理解してもらえない。
「児童ポルノ禁止法がー」と法律を持ち出しても「芸術のため。それにあくまでインスピレーションを求めているだけなので法律には違反しない」とこういう時だけ上野は至極真っ当な反論をする。
だんだんと自分の常識の方が間違っているんじゃないかと思うようになった頃のことだ。
根負け寸前で、もう見せてしまってもいいかという気持ちが頭をよぎる。
それでも思いついたことを片っ端から口に出し続けた。
そして……。
「あー、もうそんなに見たいんなら自分のママにお願いしたらいいじゃんか」
当然それを否定する言葉が返ってくるだろうと思ったのに、上野は一瞬間を置いてから頷き「そうする」と答えた。
上野のその返答にあたしやくっきーは目を丸くした。
いままでの議論は何だったのか。
そんなことでいいのか……というか、そういうお願いができるのか。
いろいろ頭に渦巻くがうまく言葉にならない。
同じように黙り込んでいたくっきーが驚いた顔のままポツリと言った。
「水島って、ママって呼んでるんだ」
……そこかよっ!
††††† 登場人物紹介 †††††
水島朋子・・・中学1年生。不良とみなされ周囲からは避けられがち。
上野ほたる・・・中学1年生。美術部部長。来年のファッションショーを開催するために活動中。美術部の先輩(女子)とつき合っている。
朽木
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