第279話 令和2年2月9日(日)「仕事」赤川美穂

「赤川さん、城田先生のアポは?」


「18日の午後4時から先生の研究室でお会いしてくださるそうです」


「そうですか」


 ここは東京都内にあるNPO団体F-SASの事務所だ。

 それなりに大きなオフィスビルにある小部屋。

 初めて来た時はこの殺風景な部屋は事務所の一部かと思ったが、常設の事務所は東京ではこの4、5人入っただけで満員となるような部屋だけらしい。


 スチール製のデスクが3つ、それぞれにデスクトップパソコンが置かれ、あとは棚があるくらい。

 女性しかいない職場なのに飾り気がひとつもない。

 おそらく、いまわたしの斜め横にいるこの部屋のボスの性格によるものなのだろう。


 彼女の名前は額田ぬかたほまれ

 私と同世代で、センターで綺麗に分けたひっつめ髪が特徴だ。

 スポーツの経験はなく、一流企業で働いていたのにここに転職してきたそうだ。


「手が止まっていますよ。疲れたなら休憩を取ってください」


 私がボーッとしていたせいで、額田さんに指摘されてしまった。

 慌てて「大丈夫です」と答え、モニターに注視する。

 F-SASは女子学生アスリートの支援を打ち出したNPOだ。

 女性特有の健康問題やハラスメントの相談も扱っている。

 サイトにはスマホなどから多くの声が寄せられている。


 多くは想定回答集に掲載された質問であり、その回答集に沿った返答を行っていく。

 深刻な質問には専門家の意見を伺ったり、場合によっては行政機関への通報などを行ったりすることになっている。

 F-SASでは他にもトレーニングに関する動画を配信したり、会員を集めての勉強会や交流会を毎週のように開催したりしている。

 動画に関しては自分の学生時代にこんなのがあれば参考になったのにと思わなくもない。

 実際はそういう情報を集めるという発想すらなかったが……。


 寄せられる質問で圧倒的に多いのは記録が伸びない、上手くならないといった相談だ。

 アスリートなら誰しもが抱える課題だろう。

 ただし、その背景は個々人で異なる。

 恋愛など他に気を取られたり、怪我の影響だったり、部内の雰囲気が悪くて練習に身が入らないだったりと様々だ。

 そういう相談は背景を探るためにコミュニケーションを取る必要がある。

 学生でなくなってから10年以上経つ私では世代間ギャップを感じることも少なくないが、これがいまの私の仕事なのだからと必死で頑張っている。


 その作業中に一通のメールが目にとまった。

 これまで何度かやり取りした相手からだった。


「以前も報告した千葉の中学生なんですが、やはりパワハラではないかと……」と私は送られたメールを額田さんに転送した上で声を掛けた。


 額田さんは「本人と直接コンタクトを取った方がいいかもしれませんね」と私に言った。

 私が「電話しますか?」と確認すると、「会ってもらえるか聞いてください」と答えた。

 勉強会や交流会では会員の学生たちと触れ合う機会があるものの、こうして個別に連絡を取るのは初めてだ。


 電話で話が聞きたいと、まずはメッセージを送る。

 しばらくしてから、躊躇いがちな文面で了解らしい返事が来た。

 会員登録してある電話番号に掛けるとすぐに繋がった。


「こんにちは、こちらF-SASの赤川美穂です。よろしくお願いします」


 緊張はするが、持ち前の度胸で押し切る。

 相手が名乗ってくれた。

 私よりも緊張しているのが分かる。

 私は口調を柔らかくして、なるべくフレンドリーに話す。

 これまでに送ってもらったメール内容の確認と、もしよかったら会ってもらえないかという提案を行った。


 面会を承諾してもらい、「よろしくね。一緒に頑張ろう」と言って会話を終えた。

 ふーっと大きく息を吐くと、横から「良い仕事振りですね」という言葉が飛んで来た。

 こんな風に面と向かって自分の仕事を褒められたことがなかったので、反応に困る。


「え……、ありがとうございます」


「学校に改善を要望しすぐに成果が出れば良いのですが、我々はまだ無名の存在ですし相手にされない可能性があります。代表によると教育委員会や地方議員への陳情が有効だそうですから、現地へ赴いた際にはそちらへ働きかけができないか考慮してください」


「あ、はい」と答えたものの、「すいません、もう一度言ってもらえますか?」と私は頼み込んだ。


 額田さんは呆れた顔を見せずに、「文章で送ります」と言って先程の文言を送ってくれた。

 そこにはどういったアピールの方法が望ましいかというアドバイスも記載されている。

 私は「ありがとうございます!」と言ってニッコリと笑った。


 私は2年ほど前まで陸上長距離のトップアスリートだった。

 二十歳前後の頃にはオリンピックを有望視されていた。

 しかし、代表の座にはあと一歩届かず、その後は伸び悩んだ。

 それでも諦め切れずに現役を長く続けた。

 なんとか東京オリンピックを目指したかったが、所属する実業団のチームで監督とコーチが代わり、私は居場所を失った。


 ひっそりと引退した私は務めていた会社も辞めた。

 生活のすべてだった陸上を失い、ぽっかり穴が開いたようで何かをする気力がなくなってしまった。

 とはいえ、ゴロゴロしていても生きてはいけない。

 貯金なんてろくになかったし、手に職があるわけでもない。

 会社を辞めなきゃ良かったと思っても後の祭りだ。


 バイトで食いつなぎながら職を探したが、陸上のように人生を賭けるものに再び出会うという希望はすぐに潰えた。

 陸上を辞めたあとのことなどまったく考えていなかったツケが回ってきたと理解したのはその頃だ。

 昔なら女性アスリートは引退後に結婚すればなんとかなったんだろうけど、いまはそういう時代でもない。

 色々とヤバいと思うようになった時に紹介してもらったのがここだった。


 F-SASの理念のひとつに競技引退後のキャリア形成まであった。

 自分の現役時代に……と思ったりもするが、もしあっても目を向けていなかっただろうと思う。

 当時は速く走ること以外を考えると弱くなるとまで思っていたから。

 しかし、それが正解だったのかはいまとなっても分からない。


「失礼します」と言って私は立ち上がった。


 部屋は暖房が効いているので上着は脱いでいるが、スーツ着用が義務なので白いブラウスに紺のスラックス姿だ。

 その格好のまま軽く身体を動かす。

 靴はヒールのないものでOKなので助かる。


 額田さんも一服していたので、「一緒にどうですか?」と声を掛けてみた。

 彼女は顔をしかめ悩んでいるようだった。


「ラジオ体操だけでも身体がほぐれますよ」と私が笑って勧めると、「あー、服が乱れそう……」と額田さんは私の服を見て言った。


 服装をビシッと決めている額田さんには服装の乱れは許せないものなのだろう。

 私は肩をすくめ、それ以上強くは勧めなかった。

 ただ以前から疑問に思っていたことを聞いてみた。


「額田さんはどうしてこのNPOに来たんですか?」


 スポーツ用品メーカーから出向で来ている人は何人かいるが、彼女は転職してここに来た。

 私のように他にいくところがなくという訳でもあるまい。


「キャリアアップになると思ったから」と彼女は答えてくれた。


「キャリアアップですか?」と私が驚くと、「スポーツビジネスはまだ成長の可能性がある分野だと思うの。日本でダメでも欧米に転身することもできるしね」と説明した。


 私にはまったくちんぷんかんぷんな話だ。

 速く走ることしか考えていなかった私はスポーツのことすらよく知らない。


「昨年ラグビーのワールドカップが盛り上がり、今年は東京オリンピックがある。プロ野球やサッカーの観客動員も好調よ。人気が一部のスポーツに偏っているという課題はあるものの、スポーツの魅力は多くの日本人に伝わっているわ」


 マラソンでも多くの観客が沿道で声援を送ってくれる。

 それは選手の大きな励みになる。

 観客の方もそういう体験が魅力的なんだそうだ。


「世界的に見てもスポーツはビッグビジネスよ。ただそういうところにどう関わっていくかは考えないといけない。特に男性社会の傾向が強い分野だからね」


 アスリートの数や人気は男女の差が小さくても、コーチや監督、連盟の上層部と上に行けば行くほど男性ばかりになる。

 これはスポーツメディアやサポートする企業などでも同様の傾向があるそうだ。


「私は将来スポーツビジネスの会社を起業しようと思っているの。そのためには様々なノウハウと人脈が必要だわ。ここはそれを得る絶好の場所なのよ」


 まだスタートして3ヶ月ほどの小さなNPOだけど、額田さん曰く高い可能性を秘めているそうだ。

 実際に名だたる企業が関わりを持っているし、関心を示すトップアスリートの数も少しずつ増えている。


「それに代表が優秀だしね」と最後に額田さんは付け加えた。


 F-SASの代表は現役の高校生と中学生だ。

 片やオリンピック代表候補の選手だが、もう一方はまったく無名の存在だ。

 しかし、額田さんはその無名の中学生を高く評価した。


「私がここに来た決め手になったのは代表の日野さんだったわ。普通優秀な人はなんでも自分でやってしまおうとするけど、中学生という制約があるからか彼女は理念を逸脱しない範囲でなら自由な権限を与えてくれた」


 目を輝かせて語る彼女は私を見て言葉を続けた。


「だから、私も彼女の真似をしようと思うの。サポートはするし、責任も取るから、赤川さん、あなたも自分の頭で考えて行動して。それがここのやり方よ」


 私は高校を卒業後に実業団のチームに所属し、そこで練習しながら働いていた。

 練習が最優先で、仕事は二の次だったし、社会人としてのマナーや常識は身に付いていないと思う。

 引退後は生きるために仕方なく働いていたから、仕事にやり甲斐なんて感じなかった。

 それが悪いとは思わない。

 悪いとは思わないが、充実感もなく、本当に何のために生きているのかすら分からなくなっていた。


「私……、私、もっとみんなの相談にちゃんと答えたいんです。どうすればいいでしょうか?」


 送られてくる相談の量が多いので、マニュアル頼みになるのは仕方がない。

 でも、マニュアルだけでは伝わらないこともあるような気がしていた。

 いままではそれを口にできなかったけど、もし許されるのなら……。


「そうね……。そのためには勉強が必要よ。できる?」と額田さんに問われる。


「頑張ります」と即答した。


 勉強なんてやって来なかったから、できるかどうかは分からない。

 だけど、やらなくちゃならない。

 人の10倍の時間が掛かっても、根性だけはあるつもりだ。

 本当の意味で、今日が私の社会人としての第一歩かもしれない。




††††† 登場人物紹介 †††††


赤川美穂・・・元陸上長距離のトップアスリート。現在、F-SASに土日を含む週4日勤務。給料は驚くほど良い。


額田ぬかたほまれ・・・著名な商社に総合職として入社。女性の幹部候補生として期待されていたが、幹部の女性比率を増やすためだけの存在などという陰口が絶えず、仕事面でも女性だからという壁を感じていた。たまたま知り合った桜庭を通してF-SASに転職を果たした。

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