第519話 令和2年10月6日(火)「勉強」秋田ほのか
「こんな勉強をしたって何の役に立つっていうの」
これまでに日本中の少年少女たちが口にしたであろう嘆きの言葉を目の前に座っている少女が苦々しく吐き出した。
数学の教科書を見つめる顔はげっそりとして、普段の元気の良さは微塵も感じられない。
「仕方がないでしょ。部長が補習だなんてなったら下級生たちに示しがつかないのだから」
ダンス部の伝統というほどのものではないが、これまで試験前にはしっかり勉強するように上級生から下級生へと言い渡されてきた。
成績が悪いと練習に参加させないという脅しが使われたこともあった。
今回は部の世代交代があって最初の定期テストだ。
部長のあかりは渋ったが、ふたりの副部長――わたしと琥珀――がこの方針を引き継ぐことを決めた。
「自分たちができるからって……」とあかりはぼやくが、「自分のためでしょ」とそれを黙らせる。
「勉強ができたってダンスはうまくならないよ!」
「中学生の本分は勉強だって先輩たちが言っていたじゃない。この前だって笠井前部長がコツコツやっておかないとあとで痛い目を見るって忠告してくれたし」
前部長は放課後に早也佳先輩たちと教室で勉強をしているそうだ。
時々気分転換に窓からダンス部の練習を眺めているらしい。
たまに練習後の部室に顔を出してくれる。
よくやっているとわたしたちを励ます一方、受験勉強が大変だと愚痴を零すことも多い。
「勉強したっていっしょだよ」と頭を掻きむしるあかりの成績は赤点すれすれだ。
これまでも試験前に私が教えていたが、目立った成果は出ていない。
付け焼き刃のような勉強ではあまり効果がないのだろう。
「文句を言ったところで時間の無駄だから。1問でも多く問題を解く!」
私の顔を恨めしげに見たあかりは呻き声を上げながら再び教科書に載っている基本問題に手をつける。
かなり易しい問題なので彼女の手が止まることが私には理解できない。
だから「授業中、何を聞いていたのよ」と責める言葉が口から出てしまう。
「ちゃんと聞いていたよ」とあかりは口にするが、同じクラスじゃないのでどういう態度で授業を受けているのか知りようがなかった。
やっとのことで解き終えたあかりに、「どうしてこの答えになったの?」と質問する。
基本問題なのでパパッと解けるのなら途中の式なんて必要ない。
だが、あかりの場合は解くことに苦労している。
それなのにどう考えているのか途中経過が分からない。
そのため、どこで躓いているのかがまったく見えてこないのだ。
「うーん、えーっと……」とあかりは必死に説明しようとするが、うまく言葉にできない。
毎回こんな調子なので、私が一から説明する羽目になる。
私は溜息をひとつ吐くと「もういちど説明するね」と話し始めた。
それを遮るように「それやとできるようにならんのやない?」という言葉が割って入った。
それまでわたしたちのやり取りを黙って見ていた琥珀が口を挟んだのだ。
琥珀は普段から塾や習い事に通い、部活動もあっていつも時間に追われている。
今日はたまたま習い事が休みになったからと私たちの勉強につき合ってくれた。
あかりの成績は副部長として放っておく訳にはいかないというのが彼女の弁だ。
私としてもあかりとふたりきりの方がいいと言っていられなかった。
勉強を教えてもあまりの手応えのなさに困り果て、琥珀にそれとなく伝えていた。
それに呼応してこうして手伝ってくれている。
「うちが通うてるんは進学塾やから、あかりみたいな子に教えるような状況はあんまりないんやけど……」と切り出した琥珀は「勉強できる子でも入塾してすぐは先生の言葉がよく分からないって言うことがあるんよ」と言葉を続けた。
「言葉が分からない?」と私は聞き返す。
「塾独自の用語があるみたいやね。ずっと使うてるとそれが普通やと思ってしまうんよ。方言みたいなもんや」と琥珀は笑う。
まだ腑に落ちない顔をしている私に、琥珀は自分の頬に手を当て「そうやねえ……」と呟いた。
彼女が例として挙げたのは試験問題の分類についてだった。
計算問題・図形問題・文章題などの区別は当然学校でも行うが、塾では問題をもっと細かく分類してそれぞれを命名しているそうだ。
「そもそも勉強の言葉って普段使う言葉と違っていたりするやん。数学なんて特に用語の理解が曖昧やと困るんやない?」
「どうなの?」とあかりに尋ねてみたが、彼女は話の内容についていけないようで首を傾げるばかりだ。
「ほのかの説明は学校の先生が使う言葉をそのまま使うてるやん。だから、あかりもなんとなく分かった気になるだけなんやないかな」
「でも、そういう言葉を使わずに説明するのってメチャクチャ大変じゃない?」
ひとつふたつの言葉だけなら言い換えることも可能だろうが、数学用語なんてよほど意識しないと普通に使ってしまいそうだ。
ダンスの指導をカタカナ語なしでやれと言われるようなものだ。
「今後のことを考えたら、あかりにしっかり理解してもらわなあかんと思う」
琥珀の言葉を聞いたあかりは絶望するような表情を見せた。
授業でもテストでもそういう言葉が使われる以上、いちいち言い換えをするよりあかりが理解した方が効率的だ。
用語の意味が分かっているかどうか確認しながら教えていこうと私は頭の中にメモをする。
「あとな」と言い掛けた琥珀は躊躇いがちに私を見た。
「何?」と続きを促すと、「本職の教師やないんやから仕方がないことやけど、もうちょっと教わる人への接し方を変えた方がええんやないかな」と琥珀が言った。
これは言うまでもなく勉強のことに限った話ではないのだろう。
だから、琥珀は言い渋ったのだ。
運動会前にクラスで行った創作ダンスの練習で口論が起きた。
その大きな原因が私の厳しい物言いだったのは間違いない。
「ほのかの言葉がキツいんは徐々に改善されていると思うんよ。ただな、言葉遣いだけやないやんか。口調とか態度とかも相手に伝わる訳やしな」
耳が痛い指摘だ。
勉強でもダンスでも教えたのにできないとすぐにイラッとしてしまう。
私はその気持ちを隠すことができないでいた。
言葉は口に出す前に気をつけるように心がけているが、こういった態度や感情はなかなか改まらなかった。
「ほのかはもの凄く頑張っているよ」とあかりが庇ってくれるが、「いや、琥珀の言う通りだから」と私は口に出した。
その声も尖っている。
こういうところだと反省しているのに行動に繋がらない。
うなだれる私とそれを見つめるあかりの前で、「そこでや」と琥珀がニッコリ微笑んだ。
「ほのかはあかりに勉強を教える。あかりはほのかの教える態度を注意する。これでウィンウィンやね」
ふたりが納得の表情を見せる。
しかし、琥珀の提案はまだ終わらなかった。
「中間テストは明後日からや。その短時間だけで身につくとは思えんやん。そやから、お互いができるようになるまで続けよう。あかりは勉強ができるようになり、ほのかは教えるのが上手になり、ふたりで一緒に過ごす時間もできて一石三鳥やね」
私は琥珀の言葉にすぐ頷いたが、あかりは目を見開いている。
しばらく間があってから「ちょっと待って!」とあかりは大声を上げた。
「それって、あたし、テストが終わってもずっと勉強をしなきゃいけないってこと?」
「当たり前だよね」「当たり前やん」とわたしと琥珀は口を揃えた。
「無理無理無理」と叫ぶあかりに、「あかりは協力してくれないの?」と私は真顔で問い掛ける。
「いや、そういう訳じゃ……。あっ、勉強じゃなくて、ダンスを教えてくれれば良いんじゃない?」
あかりは名案を思いついたといった顔でニッコリ微笑む。
だが、「ダンスはもうそんなに教えることないよね?」「そうやねえ部長やしね」と私と琥珀はすげなく首を横に振った。
あかりは言うに及んで「部長の仕事が忙しいから、勉強する時間なんてないよ!」と口走った。
「琥珀の前でよく忙しいなんて言えるよね」「ほんまやね。1週間塾や習い事を体験させてあげたいわ」
「部長の仕事は私たち副部長がしっかりサポートするから」と言うと、追い詰められたあかりは私たちふたりの顔を見比べた。
「部長になったことをいちばん後悔した瞬間かも……」と呟くあかりに「往生際が悪い。私も鬼じゃないのだからそんなに厳しくはしないわよ」と私はできるだけ優しく語り掛けた。
ホッと気を緩めたあかりに「ただし、テスト前は鬼にだってなるわよ。ほら、続きをやるわよ」と強い口調で告げる。
ただでさえもう時間はないのだ。
いまはひとつでも多くのことを頭に刻み込むしかない。
あかりは琥珀に目で助けを求めるが、当然琥珀は取り合わない。
むしろ「死ぬ気で頑張りや。部長でも赤点取ったら練習禁止やで」とあかりの退路を断ちに行く。
あかりはがっくりと項垂れた。
こんな状況に陥らないで済むために勉強はしておいた方がいいんだよ。
††††† 登場人物紹介 †††††
秋田ほのか・・・2年1組。ダンス部副部長。成績はクラスで上位。独学で極めるタイプ。
辻あかり・・・2年5組。ダンス部部長。成績は下から数えた方が早い。勉強に対する苦手意識が強く、目的意識が低く、家でも勉強しろと口うるさく言われるものの実際に両親から教えてもらうことはない。
島田琥珀・・・2年1組。ダンス部副部長。成績はクラストップクラス。塾や習い事を多数こなし、習うことに慣れている。
笠井優奈・・・3年4組。ダンス部前部長。学力は平均レベル。受験勉強はしているもののイマイチ集中力に欠けることを悩んでいる。
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