第215話 令和元年12月7日(土)「初イベント」倉持碧
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
人懐こい笑顔で篠原さんが挨拶してきた。
これまで何度か会ったが、体育会系らしく挨拶はしっかりしている。
「おはようございます」と私も笑顔で挨拶を交わす。
ただ彼女と違い私の笑顔には緊張感がみなぎっていたと思う。
今日はNPO「F-SAS」関西初のセミナーが開催される。
こうしたイベントを責任者の立場で主催することはもちろん初めてなので、いろいろと苦労をしたし神経も使った。
数時間後に始まるイベントが成功するかどうか不安が拭えない。
「きっとうまくいきますって」と私の緊張を解すように篠原さんが笑った。
彼女にとっても初めてのイベントのはずだが、やはり選手として大舞台を経験し慣れているのか緊張は感じられない。
私は「そうですね」と答えながら、彼女の図太さを分けて欲しいと心から願った。
私は関西の大手スポーツ用品メーカーに入社して3年目だ。
営業の仕事にようやく慣れてきた矢先にこのNPOへの出向を打診された。
正直かなり迷ったが、直属の上司に強く勧められて引き受けた。
来年4月に法人化されてから2年間スタッフとして働くことになる。
F-SASは立ち上げにあたり数多くのスポーツ関連企業に協力を呼び掛けた。
スポーツ用品メーカーだけでなく、スポーツチームを所有する企業や、チームや大会をサポートする企業など多種多様な業種に声を掛けたらしい。
大企業であれば何かしらスポーツと関わりがある。
そして、若い女性アスリート支援という分かりやすいアピールポイントもあり、多数の企業が名乗りを上げた。
来年には東京オリンピックがあり、タイミングも良かった。
うちのようなスポーツ用品メーカーはお金だけでなく人も出すことになった。
国内のメーカーや海外の日本支社などからスタッフが集められ、すでに活動が始まっている。
スポーツ用品メーカーとしてはブランドイメージ向上以外にも営業に繋がるという皮算用がある。
少子化が進む中で女性アスリートはまだ開拓可能な市場という認識がある。
特にF-SASが掲げる若い女性アスリートをサポートすることで大人になってもスポーツを続けやすい環境を作るという理念は魅力的だ。
もちろん一朝一夕に実現することはないだろうが、これだけの企業が目の色を変えて取り組めば市場の拡大は可能だろう。
そんな風に上司から説得された訳だが、実のところ私は乗り気ではなかった。
やっといまの仕事に慣れてきたところだし、自分のキャリアにどうプラスになるのか分からない。
人と会うのは苦にならないが、自分の裁量でやらなければならないことが多く、社会人としてはまだ半人前の私に務まるのか気がかりだった。
……やると決めたからには頑張るしかないけど。
そんな思いの中で迎えた初めてのイベントだった。
アルバイトの子たちに設営の指示を出したり、講師を務める先生と打ち合わせをしたりしているとあっという間にイベント開始の時間となる。
東京でのイベントの模様はインターネットにアップされているので確認した。
想像以上に充実した内容で、あれに負けないものにしたいという気負いがある。
さあ私のここでの仕事のスタートだと気合をいれたところで、アルバイトのひとりが顔色を変えて控室に飛び込んできた。
「すいません、席が足りないみたいで……」
私は急いで会場に足を運んだ。
借りた会議室はすでに人で埋まり、開始を今か今かと待っている状態だった。
一方、入口には席がなくて入れない女の子たちが10人ほど立っていた。
アルバイトスタッフが対応しているが、女の子たちはみな不満顔だ。
私はそこへ駆けつける。
「済みません、少々お待ちください」と女の子たちに頭を下げると、スタッフに状況を確認する。
参加者は事前にホームページで登録してもらっている。
しかし、その登録の有無を確認せずに入場させていたようだった。
私の指導不足だ。
私は唇を噛み締め、どうするか考える。
ここの責任者は私だ。
席は余分に用意してあったのにそれもすでに埋まっていた。
もう頭を下げて立ち見してもらうしかない。
そう思ったところへ篠原さんがやって来た。
「どうしたんですか?」
ひときわ目立つ長身に、女の子たちが歓声を上げた。
篠原さん目当てで参加する人が多いのではと予想していたが、もしかすると予想以上だったかもしれない。
私が事情を説明すると、「控室から椅子を運びましょう。君たちも協力してくれる?」と篠原さんは女の子たちにも協力を仰いだ。
ただ控室にある分だけでは足りそうにない。
会場のスペースは詰めればまだ入れそうなので、私はビルの運営会社に連絡し他の部屋の椅子を借りられないか尋ねた。
何とか10分遅れ程度でセミナーを始めることができた。
私は溜息をつく。
明らかな失態に肩を落とす。
やっぱり私には向いていない。
というか、そもそも私では実力不足だろう。
私は高校までバドミントンをやっていた。
インターハイまで行ったこともある。
頑張って、頑張って、頑張って、高校卒業と同時にすっぱりと辞めた。
自分の実力に見切りを付けたのだ。
完全燃焼したと思ったから、そのことに後悔はない。
ただ……。
そんなことをボーッと考えていたら、アルバイトスタッフが近付いてきた。
私に紙を手渡す。
何かと思い開いてみると、『話を聞いた方がいいですよ。篠原』と書かれていた。
私は後方の隅に立ち、篠原さんは前方の端に座って真面目に話に聞き入っている。
考えてみれば、講師の先生からは上の空の私の姿は丸見えだ。
また、失態をさらした。
しかも、歳下の高校生に指摘されるなんて。
穴があったら入りたい気持ちだが、逃げ出すこともできず、それからの時間は参加者たちの様子をうかがいながら講師の話を聞いた。
講演のあと、短い質疑応答が終わると交流会だ。
人気の女子バレー選手である篠原さんに参加者が集中すると思い、私はアルバイトスタッフとともに仕切ろうと思って近付いた。
しかし、篠原さんは慣れているから大丈夫と言い、自分よりも講師の先生のフォローをして欲しいと頼んできた。
「控室から椅子を全部持って来ちゃったじゃないですか。講演中ずっと立ってはったのに座って休まれへんとしんどいと思いますから」
どちらが大人か分からない。
私は篠原さんの言葉に従い、スタッフとともに椅子を運んだ。
交流会のあとは、スタッフで反省会だ。
私は落ち込んでいた。
いまからでも出向を取りやめることはできるだろうか。
説得してくれた上司の悲しむ顔が浮かぶが、私がここで続けていけるとは思えなかった。
「お疲れ様でした。無事成功してホッとしました」と篠原さんが笑顔で口火を切る。
私は立ち上がり、床に頭を付けようと思うほど頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。私が至らないばかりに……」
「そんなに謝らんといてください」と篠原さんが私の言葉を遮った。
「初めてのことやから、うまくいけへんこともあります。失敗したことは次に生かしたらええんやないですか」
篠原さんは見上げるような身長の持ち主だがまだ高校生だ。
そんな子に慰められるって……。
「今回のイベントでいちばん頑張らはったんは倉持さんやないですか。うちは今日ちょこっと参加しただけで、準備したんは全部倉持さんなんですからもっと胸を張ったらええと思います」
そんなことを言われると、どんな顔をしていいか分からなくなる。
「ミスはあっても成功したんです。前向きに行きましょう!」
そのポジティブさが篠原さんを成功に導く力なのだろう。
まだオリンピックメンバーに選ばれるかどうかは分からないが、彼女のそんな力は日本に必要な気がした。
いや、日本代表よりもいまの私の方がより切実に彼女の力を必要としている。
「ごめんなさいね、責任者がフラフラして。本当に篠原さんの言う通りだわ。次に繋げるために反省点を洗い出しましょう」
どうせもう無理だと投げてしまうもこともできる。
自分の力では及ばないと諦めることもできる。
それが私の身の丈に合うのかもしれない。
でも、もう少しだけ続けるという選択肢を選ぼうと思った。
彼女とならチャレンジができる気がしたから。
やれるところまでやってみよう。
後悔しないために。
††††† 登場人物紹介 †††††
倉持
篠原アイリス・・・高校3年生。女子バレーの日本代表候補。父がアメリカ人で母が日本人。関西育ちなので関西弁しか話せない。
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