第330話 令和2年3月31日(火)「最後の日」小野田真由美

 令和2年3月31日。

 今日付で私の教員生活が終わる。


 さすがに30年を越えるので感慨がないと言えば嘘になる。

 振り返れば、後悔したことは山ほどあった。

 ああすれば良かった、こうすれば良かった。

 いまならもっとできたのに。

 そんな思いが積み重なっての30有余年だった。


 昨日の修了式で私が勤める中学校は年度末休業となった。

 今日は学校に来る必要はなかったが、何かやり残したことはないかと思い来てしまった。


 職員室には、部活動がないので普段の長期休業よりゆったりと構えている先生もいれば、新学期に備えて慌ただしく駆け回っている先生もいる。

 私は机の前に座り、平成31年度に受け持った生徒たちの所感をノートに記す。

 彼ら彼女らはこの大変な時期に受験生となる。

 多くの生徒にとっては生まれて初めての受験だ。

 ただでさえストレスがのし掛かる。

 更にこの新型コロナウイルスの大流行という危機があっては勉強に手がつかなくても仕方がない。

 そもそも学校が無事に再開できるかどうかも定かではないし、再開できても再び休校となる可能性もある。

 これでは生徒たちは落ち着いて勉強できないだろう。


 突然の一斉休校によって私が教えていた理科の授業は最後までできなかった。

 仕事を全うできなかったことはいちばんの心残りだ。

 また、不安に揺れる生徒たちをもう助けてあげられないと思うと歯がゆくなる。

 今年度限りでこの学校を去ることは昨年6月にほぼ決まっていたことだった。

 しかし、こんな事態が待ち受けているとは想像していなかった。


 昨日の修了式のあとで田村先生から声を掛けられた。

 彼女もまたこの学校を去る。

 同年代で、対照的な私と彼女はライバルのような存在だった。


「長い間、お疲れさん」と彼女は湿っぽさを微塵も見せずに私に笑い掛けた。


「ありがとうございます。田村先生もお体にお気をつけて頑張ってください」


 彼女は別の学校で教師を続ける。

 準備期間は短いが、彼女のことだからブルドーザーのように働くだろう。


「学校現場がブラックだと世間に伝わってようやく教員の働き方改革の機運が高まってきたのに、また振り出しに戻りそうね」


「それでもやり続けるんでしょ?」と私が問えば、「もちろんよ」と力強く答えた。


「あなたも大変な道を選んだようね。陰ながら応援しているわ」と言って、田村先生は私の肩をパシンと叩いて去って行った。


 私は境界知能と呼ばれる子どもたちの支援を行うNPOに行く。

 昔は知的障害の枠内とされていたこともあった。

 いまはほかの子どもたちと一緒に特別な支援がない中で学んでいる。

 しかし、学習面では落ちこぼれになりやすく、コミュニケーション面でもうまく他人と関わりを持てないケースが多い。

 どのクラスにも数人在籍するのに支援の手が届いていない。

 結果、犯罪に至ることもある。

 しかも根本的な改善が行われないために反省することができず、同じ過ちを繰り返してしまう。


 教育は将来への投資だと言われる。

 もちろん、できる生徒を伸ばし、社会に貢献できる人物に育てることは大切だ。

 同時に、社会に適応しにくい人たちにしっかりとした教育を施すことは労働力を増やすだけでなく犯罪率の低下にも寄与する行為だ。

 残念ながら、それは非常に疎かにされているのが現状だ。


「ちょっといいですか?」と藤原先生に呼び掛けられた。


「どうしました?」と問うと、「麓さんのことなんですが……」と彼女は声を潜めた。


 来年度の3年生のクラス割りは休校中に決められ、あとは新たに着任する校長の承認を待つだけだ。

 藤原先生は担任として彼女を指導することになる。


「日野さんが学校に来ないと、また暴れるようになりませんかね?」


 藤原先生の危惧は的外れではない。

 麓たか良は1年生の時に仲間たちと暴れ回り、クラスは学級崩壊と呼べる状態に陥った。

 教師の対応が遅れたのは否めない。

 結果として彼女の所属するクラスの生徒たちに多大な負担を掛けてしまった。


 2年では私が担任となって対処する予定だったが、何もしないうちにおとなしくなった。

 その要因は日野可恋だ。

 彼女は空手の有段者で、暴力で麓を押さえ込んでしまった。

 それが良いかどうかは分からないが、麓はボクシングジムに通うなど日野の影響を強く受けている。

 2年1組は日野の下でクラスがまとまり、学習面でもクラス活動の面でも大きな成果を上げた。


 未成年者は友人の影響を受けやすい。

 それは悪い影響もあれば良い影響もある。

 大人が上から指導するのではなく、友人同士の良い関係によって互いに成長することができれば理想だ。


 教師側の手抜きと受け取られても仕方ないが、麓のことを日野に任せるという判断が間違いだとは思わない。

 ただ日野が新型コロナウイルスの影響で学校に通えない可能性が高まっている。

 若者は重症化しにくいと言われるCOVID-19だが、日野は免疫力が極度に低いという体質のため持病がある人並かそれ以上のリスクを抱えている。

 彼女が当分の間学校に登校しない選択をしても受け入れざるを得ない。


「藤原先生はちゃんと麓の目を見て話せますか?」と私は藤原先生の目を見つめる。


「え? あ、で、できますよ」と藤原先生は私から目を逸らした。


 私は溜息をつくのを我慢して、「毅然とした態度を心がけてください」と注意する。

 その上で「学年主任となられる桑名先生と緊密な連携を取るようにしてください。ひとりで抱え込んだり、見て見ぬ振りをしたりは絶対にしないでください」と言葉を続けた。


「は、はい」としょんぼりと頷く若者に、「おそらく日野さんは様々な情報源からクラスの様子を知ろうとするでしょう。あなたも逐一報告して彼女に見捨てられないように頑張ってください」と私は微笑んだ。


 社会に出ればダメな大人なんていくらでもいると知る。

 年齢だけで能力や人格は計れないことも。

 日野と藤原先生は10歳ほどの年齢差がある。

 藤原先生を日野の担任に推したのは、この1年間私とともに藤原先生は日野を見てきたからだ。

 内心はともかく、日野の優秀さを痛いほど知り、日野に任せた方が上手く行くと彼女は理解している。


 私の教師歴の中でも総合的な評価で日野は突出している。

 学習面だけなら、或いはリーダーシップの面だけなら、凄いと思った生徒もいたが、日野は別次元だ。

 大学教授の母親の影響は大きいし、体質的な問題で学校教育を十分に受けていないことがプラスに働いているように感じる。

 それは教師としては敗北感を覚えるものだ。


 だが、この経験が私に一歩を踏み出すきっかけを与えた。

 定年まで教師として働いたあとでNPOに行く人生設計をしていたが、日野を見て早めることにした。

 彼女はいつまで生きられるか分からないという焦りのようなものを感じながら生活している。

 彼女は14歳だがそこらの大人よりも遥かに壮絶な人生を歩んできたのだろう。

 漫然と教師を続けるのではなく、自分がやりたいことをしようと決断する勇気を私は彼女からもらったのだ。


 先程までしゅんとしていた藤原先生が「オンライン授業の勉強をしているんですよ」と笑いながら教えてくれた。

 未熟なところが多々ある若者だが、気持ちの切り替えが早く仕事熱心だから経験を積めば私より良い教師になるだろう。

 私も若い頃は頼りないと思われていたに違いない。


 昨日、生徒たちに最後に贈った言葉を思い出す。


「どんなに困難な時でも、いま目の前のことを精一杯の思いで過ごしてください」




††††† 登場人物紹介 †††††


小野田真由美・・・2年1組担任。理科担当。50代のベテラン教師。


田村恵子・・・2年の学年主任。国語担当。50代のベテラン教師。教師の職場環境改善に若い頃から取り組んできた。


藤原みどり・・・2年1組副担任。国語担当。大卒3年目だが、学生気分が抜けていないとよく注意される。


麓たか良・・・2年1組。彼女の兄もこの中学の卒業生で名うての不良だった。


日野可恋・・・2年1組。文化祭まで学級委員を務めた。小学生の頃は病気で欠席することが多く、学校を休むことに抵抗がない。

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