第407話 令和2年6月16日(火)「いろいろな私」久藤亜砂美

 唇を奪われた。


 私が驚いて目を見張ると、近藤さんは表情を変えることなくすっと離れた。

 不意打ち。

 最近はそういったことがなかったので油断していた。


「行ってくる」と彼女は私の部屋から出て行く。


 高校は時差登校になっている。

 通勤ラッシュの時間帯を避けるため、始業時間が遅い。

 それでも同じように分散登校中の中学よりは早めに家を出る必要があった。


 夏服の白いブラウスを私は追って部屋を出る。

 県下トップの進学校だからかはともかく、野暮ったい長いスカートが音を立てずに廊下を進んでいく。

 私は大柄だし躾も碌にされなかったのでドタドタと歩いてしまいよくお祖母様に注意をされる。

 それに比べ近藤さんは綺麗な姿勢のまま楚々と歩く。


 なるべく静かに脚を動かし、玄関で追いついた。

 追ってきたことに気づいていた近藤さんは私を見上げた。

 こんなことをする時はもっと嘲弄するような光を瞳に宿しているものだが、いまは違った。

 真っ直ぐな視線にたじろぎ、私は言葉を失ってしまった。


 見つめ合っていたのはどれくらいの時間だっただろう。

 私がこの家に来てから、慌ただしさの中でこのような瞬間ときはほとんど訪れなかった。

 ようやく口を開こうとした時に人の気配がした。

 振り向くと和服姿のお祖母様が近づいてきていた。

 そして、再び近藤さんの方に目を向けると、普段通りの彼女の顔がそこにあった。


「行って参ります」と挨拶し、マスクを着けてから扉を開ける。


 私は「行ってらっしゃいませ」と頭を下げた。

 お祖母様は「気をつけてお行きなさい」と見送り、私に視線を移す。

 何か言えばボロが出そうな気がして、「私も準備してきます」と急いで自分の部屋に戻った。


 過去に近藤さんから受けたのはキスどころか人に言えないような様々な仕打ちだった。

 だから、いまさらキスだけでこんなに心が揺らぐとは思ってもみなかった。


 自分の部屋で机の前の椅子に座る。

 木製の机と椅子が置かれているだけの殺風景な部屋だが、以前住んでいたボロアパートと同じくらいの広さがあった。

 この部屋も近藤さんの部屋も鍵は付いていない。


 あのボロアパートの利点は他人の目を気にせずに済んだことだ。

 近藤さんが頻繁に訪れたのもそれが目的だったのだろう。

 彼女にとってこの家は息の詰まる場所であり、私はそのはけ口となった。

 私にとってあのアパートは危険と隣り合わせの場所で戻りたいとは思わないが、近藤さんにとっては特別な隠れ家だった。


 両親が離婚し、母と一緒にあの部屋に引っ越した。

 学校に行くのが嫌になりかけていた時期に近藤さんが私の面倒を見てくれることになった。

 親に捨てられた子どもという共通点があったので、すぐに私は懐いた。

 彼女は勉強を教える傍ら、私の嫌がることも数多くした。

 それでも彼女の側を離れることはできなかった。


 私は服を着替えて学校へ行く準備を整える。

 母と暮らしていた頃は朝飯抜きは当たり前で、寝坊して何度も遅刻した。

 いまは早朝に起き、お祖母様の手伝いをしなければならない。

 それを辛いと思うこともあるが、前の生活に比べれば我慢できるというものだ。


 近藤さんはいまの私の部屋を見て「女の子の部屋らしく飾りなさい」とよく言う。

 彼女自身の部屋は私の部屋より物の数こそ多いがお世辞にも女の子らしいとは言えなかった。

 私の部屋の飾りは花瓶に挿した花一輪だ。

 それだけで十分。

 私は白い百合に向かって「行ってくる」と声を掛けて気持ちを高めた。


 学校は戦場だと思っている。

 何かを得たいのなら、戦って勝ち取らなければならない。

 私は近藤さんからそのためのノウハウを叩き込まれた。

 それを実践し、1年生の時はクラスのボスとして君臨した。


 みんな、誰かが環境を整えてくれると思って口を開けて待っている。

 そんな子たちに餌を与えてあげれば、簡単に私に付き従った。

 1年生の時はハルカという相棒を得たので、労せず好き放題できるようになった。

 小学生時代は他人の顔色をうかがいビクビクして過ごしていたのに、この環境の変化に私自身がいちばん驚いた。


「ハルカ、おはよう」


 通学路でハルカと落ち合う。

 2年生になってクラスは離れてしまったが、いまもこうして関係が続いている。

 マスクをしていないハルカが大きな欠伸を挨拶代わりにした。


「暑すぎ」という彼女の愚痴に「だな」と頷く。


 お祖母様の手前、家では良い子を演じている。

 しかし、一歩外に出ると昔の私に戻る。


「クラスはどう?」と私が聞くと、「担任がうぜー」とハルカは答えた。


 同学年で彼女にちょっかいを出せるのは男女問わずほぼ皆無だ。

 彼女の話について来られる奴もほとんどいないので教室では退屈らしいが。


「岡部か。クソ真面目そうだもんな」


「この暑いのにマスク着けろとか」と吐き捨てるように言うハルカに「だよなー」と同意する。


「でも、恵さん、いっつもマスクじゃん」と言うと、「めぐ姉は歯がボロボロだからな」と大声で笑った。


 私も一緒になって笑う。

 近藤さんの前での私、お祖母様の前での私、ハルカの前での私、まったく違う私だけどどれもが私自身だ。


 ハルカと別れ、教室に入る。

 その途端、空気が変わるのが分かる。


「おはよう、アサミ」というご機嫌伺いといった感じの挨拶が交わされ、数人が私の周囲に寄って来た。


 自分のことを普通よりちょっと上だと思っていそうな子たちだ。

 私は自分の居場所作りに必死なクラスメイトたちを眺め、すり寄ってくる女の子らを安心させるように目元を綻ばせた。

 ……ちゃんと守ってあげるわよ。

 ……私に従順であればね。




††††† 登場人物紹介 †††††


久藤亜砂美・・・中学2年生。2月末に近藤家に引き取られそこで暮らすようになった。


近藤未来・・・高校1年生。他人を支配する方法を空想するのは好きだが自分で実践しようとは思わない。


小西遥・・・中学2年生。情け容赦がない性格でキレた時はやり過ぎるタイプ。1学年上に姉の恵がいる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る