第541話 令和2年10月28日(水)「手のひらの上で」野上月

「ゆえ」


 昨日、休み時間いつものように友人たちとバカ話に興じていると、かなり大きな声で自分の名前が呼ばれた。

 振り向かなくても声の主は分かる。

 声の質や呼び方の違い、教室内の席の位置などでも判別できるが、それ以上に盛り上がっているところに水を差された友人たちの顔つきで……。


 わたしが振り向くと、カナが怒ったような顔をして立っていた。

 それでもわたしは笑った顔のまま「どうしたの?」と軽い気持ちで尋ねる。

 彼女は普段空気を読まずに話し掛けるタイプではない。

 わたしのグループのメンバーから疎まれていることを自覚しているので、よほどのことがない限り教室内でこんな風に呼び掛けたりはしない。

 それを知っていたのに気づかない振りをしていたのだと思う。


 ……あ。


 カナの目元がみるみる潤んでいった。

 わたしはそこから目を離せない。

 堰を切ったように涙が零れ出すのを息を潜めて見つめていた。


「ごめん」


 わたしは咄嗟に謝った。

 それは本当に何も考えずに口を衝いて出た言葉だった。


 カナは首を横に振る。

 涙を拭おうともせず、彼女はわたしを真っ直ぐ見つめていた。


 言いたいことがたくさんあるのに言葉が出て来ない、カナはそんな顔をしていた。

 わたしも何と言っていいか分からなかった。


「ごめん。カナ」


 今度の謝罪は考えた末に出て来た言葉だ。

 彼女をここまで追い込んだのはわたしだ。

 わたしが向き合うことから逃げたせいだ。


「保健室に行ってくる」とわたしはカナの手を引いて教室を出る。


 いつの間にかクラス中の生徒がわたしたちを見ていた。

 いきなりカナが泣き出したのだから何かあったと思うだろう。

 わたしが所属するグループのメンバーからは不穏な空気が漂っていた。

 一方、カナが所属するグループのメンバーからもわたしに険しい視線が投げかけられていた。

 授業もすぐに始まる。

 教室内でこのままという訳にはいかなかった。


 カナは抵抗せずについて来た。

 教室を出たタイミングでチャイムが鳴り、廊下にいるうちに次の授業を担当する先生が来たので「保健室に連れて行きます」と断りを入れた。

 カナが泣いているのを見て、ギョッとした顔でその教師は許可してくれた。


 保健室近くの渡り廊下で足を止める。

 ここならこの時間誰かが通ることもないだろう。

 人が来てもすぐに分かる。

 ただ腰掛ける場所はないので立ったままだ。


「……わたし」と言った切り再びカナは口を閉ざす。


「言いたいこと言ったらスッキリするよ」


 わたしも言わなければならないことがたくさんあった。

 だが、勇気を振り絞って声を掛けてくれたのはカナだ。

 彼女の言葉を先に聞くべきだろう。


「わたしは……わたしはゆえともっとお喋りしたい。ハツミともっと話がしたい。アケミとも前のように話せるようになりたい」


 わたしはカナの切実な訴えを聞いて頷いた。

 至極真っ当な思いだ。

 なぜそれが叶わないのか……本当にそう思う。


「わたしはゆえのように大人じゃないから時間が傷を癒やすのを待つことができない。ヒナや可恋ちゃんが相談に乗ってくれるというのにプライドが邪魔をしてそれも素直に受け入れられない。友だちの前で良い子を演じるだけの学校生活なんて嫌! どうしてこうなったの!」


 声は大きくなかったが心の底から振り絞るような叫び声だった。

 彼女の言葉のひとつひとつがわたしの心に突き刺さった。


「いまのクラスっていびつだよな」


 1年の時のクラスは比較的みんな仲が良かった。

 それに対して、この2年のクラスには大きな分断がある。

 簡単に言えば、真面目派と不真面目派の分断だ。

 ひとつには新型コロナウイルスへの考え方の違いがあった。

 真面目派は深刻に捉えて対策に真面目に取り組む。

 不真面目派はただの風邪だと言って、対策もおざなりだ。

 こうした対立に人間関係の好悪なども絡んでお互い口も聞かない状況になっている。


 わたしは不真面目派のリーダー格に祭り上げられ、カナは真面目派から人望が集まっていた。

 わたしはこの状態を放置していた。

 真面目派の子に話がある時はカナを通せばいいくらいに考えていた。

 しかし、いまのように学校外でカナと話す機会が減ると、ふたりの距離を縮めるきっかけがなくなってしまう。


「放置したツケだな」と話すわたしに、「ゆえだけの責任じゃないよ」とカナは思い詰めた顔で言った。


「クラスのことはわたしひとりで解決できたかどうか分かんないけど、カナを放置したのはわたしが全面的に悪い」


 オヤジに話したらぶん殴られるかもしれない。

 カナはわたしの主張を否定しようと言葉を探す表情をしている。

 その言葉が出る前にわたしは思いを伝えた。


「カナはわたしを大人だと言うけど、全然違う。アケミに時間が必要だとは思う。でも、それよりもわたしがアケミとどう向き合っていいか分からなかった。本当に時間が必要だったのはわたし。そして、カナやハツミと話すと責められているように感じるから距離を置いた。子どもなのよ」


「……ゆえ」


「プライドが邪魔をすると言ったら、わたしの方が酷いよ。だって、同じ歳のカナやハツミに相談できなかったのだから……」


 カナの場合は相手が中学生なのだからプライドが邪魔をしても当然だ。

 だが、わたしは……。


 カナやハツミには確固たるものがある。

 カナは料理に真剣に取り組み自分の腕に自信を持っている。

 ハツミは帰国子女のせいかほかの高校生に比べて遥かに自分というものを確立している。

 わたしの場合人脈作りがそれに当たるが、他人とのコミュニケーション能力がそこまで突出していないことはアケミとの件で思い知らされた。

 自分の武器の頼りなさを突きつけられて、わたしはそれを磨くのではなく目を逸らすことを選んでしまった。

 いつかほとぼりが冷めるだろうと、それまでカナやハツミを遠ざけようとした。


「カナなら大丈夫だと思って逃げていたんだ。……ごめんなさい」


 カナはゆっくりと首を横に振った。

 泣き腫らした赤い目をしているが、その目元は緩んでいる。


「わたしもゆえは大人だから悩んでいないって思い込んでいたの。気づいてあげられなくて、ごめんなさい」


 このあとわたしたちは保健室に行った。

 先生には体調不良じゃないと見抜かれたようだ。

 それでも「青春よね」のひと言で許してもらった。


 わたしたちは授業中の教室に戻る。

 ドアを開くとクラスメイトの視線が集まる。

 そこでわたしは宣言した。


「カナは友だちよ。文句ある?」と。




††††† 登場人物紹介 †††††


野上ゆえ・・・高校2年生。人脈作りが趣味という女子高生。他校の高校生や大学生との交流が多い。


日々木華菜・・・高校2年生。趣味が高じて将来の職業として調理師や栄養士を考えている。ゆえとは同じ中学の出身で、当時から友人だったが、ここまで親密になったのは高校生になってから。


久保初美・・・高校2年生。帰国子女。2年でゆえたちとは別のクラスになった。


矢野朱美・・・高校2年生。真面目な優等生だったが大学進学という夢が潰えてしばらく荒んでいた。ハツミと同じクラス。


 * * *


「それで、昨日はどうだった?」


 今朝教室でカナの顔を見るなりわたしは昨日の首尾を尋ねた。

 昨夜は学外の友人たちとのつき合いがあり、カナから話を聞いていない。


「ヒナは驚いていたよ」


 まだクラスメイトの視線を気にしながらカナは話す。

 そのうち慣れるだろう。


「可恋ちゃんは?」


 昨日カナがあんな行動に出たのは追い詰められていたからだ。

 昨日の朝、学校に行く前に可恋ちゃんから電話があり夕方に来るように頼まれたそうだ。

 その前に妹のヒナちゃんに取った態度から歳下の中学生相手に相談しなければならない状況に陥る、そう考えてカナは教室でわたしの名前を呼んだ。


「あー……」


 カナは言い渋るが、それで結果が分かるというものだ。

 わたしが「してやったりという顔をしていた?」と聞くと、カナは頷く。

 カナが逃げられないように可恋ちゃんはいろいろ手を打っていたようだ。


「貴重なものが手に入ったから見て欲しいって言われて、ナマモノだからこの日でないと無理って言われて、わたしが行けないのなら風邪気味の可恋ちゃんが自分で持って行くとまで言われて……。両親からもアレ持って行ってあげてとか頼まれたし……。断りようがないじゃない」


 昨日そう話していたカナだったが、いまはとても上機嫌だ。

 わたしが「そのナマモノって何だったの?」と尋ねると、身体をくねらせながら「言ってもゆえが羨ましがるだけだからなあ」ともったいぶって教えてくれない。

 普段教室では見せないそんなカナの態度に周りのクラスメイトたちは目を丸くしていた。

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