第170話 令和元年10月23日(水)「裏切り」鈴木優海香
……学校なんて無くなればいいのに。
学生なら誰もが思うそんな気持ちを胸に家を出る。
いまのあたしはかなり本気で思っているけどね。
サボれるものならサボりたい。
でも、その勇気はない。
朝は寒くて布団からなかなか抜け出せなかった。
出掛ける頃にはかなり気温が上がってきていて、遅刻しないように早足で歩くと汗ばむ一歩手前くらいになった。
LINEで遅れそうと送ったので、待ち合わせ場所には誰もいなかった。
あたしはそのことを気にも留めずに学校に急いだ。
滑り込みセーフという感じで朝のホームルームに間に合った。
最後は駆け足になり、自分の席に着いた時には息が上がっていた。
教室の空気はいつもと変わらない重くどんよりとしたもので、その時は何人かがあたしに視線を向けていることに気付かなかった。
「聞いたよ、面白いことを言ったって」
一時間目の授業が終わってすぐに、アサミが座っているあたしの肩に手を回してきた。
アサミの表情は見たことがないほど楽しそうだ。
「な、何のこと?」とあたしは身を固くしてアサミに尋ねた。
アサミの背後に同じグループの女子たちが無表情で立っているのに気付く。
「私やハルカが調子に乗ってるんだって? ボス猿だとか、キチガイだとか、言い放題だったんだってね?」
あたしは驚いてアキとマツリの顔を見た。
アキはすっと目を逸らす。
一方のマツリはニヤニヤと薄ら笑いを浮かべていた。
「あたしが言ったことじゃ……」としらを切ろうとしたら、「マツリが録音したのを聞かせてくれたのよ」とアサミがあたしの耳元で囁いた。
あたしは息を呑んだ。
頭の中が真っ白になる。
その時、ガリッと頭に音が響いた。
悲鳴を上げる。
それはアサミがあたしの耳たぶを噛んだ音だった。
昨日、雨の中、学校へ行った。
寒いし、死ぬほど嫌だったが、ソフトテニス部の集合なので休む訳にはいかなかった。
ソフトテニス部はやる気のない生徒が大半で、あたしも練習はサボりがちだった。
笠井先輩が退部してからは更にまとまりを欠いた様子だった。
しかし、文化祭が迫り、顧問の先生たちから強制的に準備をさせられることになった。
アキとマツリも同じソフトテニス部に所属している。
同じサボり仲間なので、先生や先輩の陰に隠れて互いに愚痴を言い合った。
その流れで、アサミたちの悪口も言ってしまった。
まさか告げ口されるなんて微塵も思わずに。
9月下旬のイジメ事件の後からグループ内の人間関係に変化が起きた。
マホが主犯としてひとりだけ悪者扱いされるのを喜んで見ていたのに、それ以来アサミがマホを特別扱いするようになった。
アサミとハルカ以外の6人は横並びだったのに、アサミは明らかにマホを贔屓しだした。
マホが調子に乗るということはなかったが、それでも他のメンバーにとっては面白いことではない。
しかも、上級生から口出しされて、アサミはグループ外の子へのイジメを禁じた。
新しい序列に不満を感じているのに、そのはけ口がなくなってしまったのだ。
それがアサミたちへの陰口に繋がった。
あたしはマツリを信用していなかった。
だが、彼女もあたしと同じくらいアサミたちの悪口を言っていたので、告げ口することはないと思っていた。
だって、アキが本当のことを話せば、あたしだけを悪者に仕立て上げることはできないと思っていたから。
アキのことは信用していた。
だから、この裏切り行為に本当に驚いた。
彼女は自分から悪口を言うタイプではなかった。
相づちを打ったり、曖昧に微笑んだりするくらいだ。
あたしは同じグループの中でただひとり彼女だけを友だちだと思っていた。
他はクズみたいな奴ばかりだけど、彼女だけはあたしと同じでまともだと。
呆然とするあたしに、アサミが上機嫌でいろいろと話し掛けた。
その半分も聞いていなかった。
休み時間が終わり、みんな自分の席に戻る。
ひとりになって、ようやく恐怖が忍び寄ってきた。
噛まれた耳たぶが痛みで疼く。
あたしはこれからどうなるのだろう。
次の休み時間、アサミに呼ばれた。
急いで彼女のところに向かう。
「どうされたい?」とほくそ笑むアサミにあたしは何も言えない。
あたしに近付いてきたマホが耳元で「とりあえず謝ったら」と言った。
これまでならマホの言葉に反発しか感じないところだが、いまはそれどころではなかった。
「すみませんでした」と頭を下げると、「それで謝っているつもり?」とアサミが笑う。
あたしはどうしていいか分からず立ち尽くす。
これまでも何度かアサミにイジられたことはあるが、いつもパニックになってしまう。
アサミはあたしが反応しないことに苛立ちの表情を見せた。
すると、突然お尻に痛みが走った。
背後からハルカに膝を入れられたようだった。
容赦のない膝蹴りに、あたしは呻き声を上げ、お尻を手で押さえる。
「謝り方も知らないの、このバカ」とマツリが甲高い声で笑った。
カッとしてマツリを睨みつけると、彼女はアキの背後に隠れた。
あたしがアサミに視線を戻すと、「土下座しろよ」とマツリが耳障りな奇声を発した。
アサミはマツリを止めることなく、意味ありげに微笑んでいる。
あたしの背後にいるハルカの苛立ちも感じる。
また蹴られる前に動かないとと思うのに、身体がうまく動かない。
あたしは奥歯を噛み締めながら、よろめくように教室の薄汚れた床に膝をついた。
マホがアサミに耳打ちして、教室の一角に視線を送った。
アサミもそれを目で追い、チッと舌打ちした。
アサミが顎を動かすと、うしろのハルカがあたしを強引に立たせた。
つかまれた腕が痛かったが、あたしはふたりの視線の先を追った。
そこには原田と鳥居がいた。
彼女たちは心配そうにこちらを見ている。
最近原田がクラスのことに口出しするようになった。
前は鳥居とふたりで教室の隅にいて、コソコソしているだけだった。
それが、いまは文化祭の準備でクラスの活動の中心にいる。
男子の一部は面白く思っていないようで、反発の声を上げているが、そういう連中を無視して準備を進めている。
お化け屋敷の企画は中止となり、合唱に変更された。
この前の土日や昨日の休日も練習に充てられた。
あたしはソフトテニス部があるからと言い訳して不参加だったが、指導の先生はかなり厳しいらしい。
どういう関係かは知らないが、彼女たちはヤバい上級生と繋がりがあるらしい。
イジメの問題が起きた時にやって来た二年生のひとりはハルカの知り合いで、あたしたちからすれば相当ヤバいハルカが「あの人はヤバい」と恐れた相手だった。
以前、陸上部の子にちょっかいを出して、その先輩が怒鳴ってやって来たことがあった。
たった一歳しか違わないのに、上級生は怖い存在だと思い知らされた。
とりあえず原田たちに助けられた形だが感謝する気にはならなかった。
教室の中のような目立つ場所では大丈夫でも、人目につかないところで何かされるだけだから。
アサミやハルカがエスカレートする可能性もある。
授業中あたしはこれからどうすればいいかということだけ考えていた。
昼休み、小林先生から呼び出しを食らった。
あたしとアキ、マツリの三人だ。
合唱の練習に参加しなかったことに対してだった。
音楽室に向かおうとしたら、教室にマツリの姿はなかった。
あたしと一緒にいることが怖くて逃げたようだ。
あたしは女子の中では大柄な方なので、普通の女子相手なら1対1で負ける気がしない。
あたしは廊下でアキが出て来るのを待った。
「アキ!」
呼び掛けてもアキは無視して通り過ぎる。
あたしは追い掛けて、彼女の肩をつかんだ。
「放して!」
意外なほど大きな声でアキは怒鳴った。
「なんで裏切ったんだよ!」
あたしはアキの言葉を無視して、がっちりと彼女の肩をつかみあたしの方を向かせる。
「裏切った? 最初から友だちでも何でもなかったじゃない」
彼女が何を言っているのか分からない。
彼女がなぜ怒っているのかも分からない。
「だって、友だち……」とあたしも大声で反論しようとするが、彼女の目が真っ赤なのを見て言葉に詰まった。
「ユミカはいつだってわたしを見下してたじゃない。何でも言うことを聞く存在だと思っていただけでしょ!」
「違う、そんな……」
「友だちだと言うなら、わたしの何を知っているのよ! いつもわたしをバカにして……」とアキはあたしの言葉を遮り、自分の言いたいことだけを言ってあたしの手を振り切り駆け出して行った。
「何だよ、知らねーよ、クソが!」
あたしはその場に立ち止まり、罵り声を上げた。
どいつもこいつもクソばかりだ。
アキのこと、友だちだと思ってあげていたのに。
あたしはアサミたちから何をされるか怯える気持ちを忘れるために、アキへの復讐という暗い計画に思いを馳せた。
††††† 登場人物紹介 †††††
鈴木優海香・・・1年3組。クラスの中心であるアサミのグループのひとり。ソフトテニス部所属。
久藤亜砂美・・・1年3組。クラスの女子のボス格。
小西遥・・・1年3組。アサミの相棒。キレると暴力的になる。
内水
宮川亜季・・・1年3組。アサミのグループのひとり。ソフトテニス部。自分からは手を出さず、他の子にくっついているタイプ。
平林茉莉・・・1年3組。アサミのグループのひとり。ソフトテニス部。計算高い性格の持ち主。
原田朱雀・・・1年3組。手芸部部長。文化祭は手芸部としての活動がメインのはずだったのに、なぜか日野可恋の手駒となっている。
鳥居千種・・・1年3組。手芸部副部長。朱雀の幼なじみ。
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