第689話 令和3年3月25日(木)「日常」日野可恋
1年以上にわたって登校していないからといって、いまが春休みという感覚が希薄になっているということはない。
私が代表を務めるNPO法人”F-SAS”ではWeb上で春休みの特集企画を組んでいるし、スポーツイベントも多く開催されるため忙しい時期だからだ。
ただ学生気分はすっかり抜けてしまった。
4月から高校生となり、しばらくは学校に通い続けなければならなくなる。
そこでのやり取りを思えば、仕事に専念していた方がよっぽど楽だろう。
この快適な引き籠もり生活もあとわずかだ。
私は心の中で溜息を吐きながら引き継ぎ作業に追われることとなった。
「ただいま~」「こんにちは~」
ひぃながお姉さんの華菜さんと一緒に帰って来た。
今日は朝から自宅に戻っていた。
リビングダイニングに入って来たふたりに私は「おかえり」と声を掛ける。
「雨は大丈夫でしたか?」「もう雨雲って感じじゃなくなってきているね」
私が華菜さんと会話を交わしていると、ひぃなは着替えるために客室目指してまっしぐらだ。
ちなみに、手洗いやアルコール消毒はリビングダイニングに入る前に済ますのがこの家の決まりになっている。
食材を買ってきてくれた華菜さんはエコバッグを持ってキッチンに向かう。
私もついて行き、冷蔵庫などにしまうのを手伝いながら買い物内容を確認していく。
彼女は週に何回か夕食を作りに来てくれるので、献立の情報は常に共有していた。
「今日は魚屋さんに寄ったから」「良いですね。塩焼きにしますか?」「オリーブオイルで……」などとこのあとの夕食の相談をしているとひぃなが戻って来た。
「リフォーム、凄かったよ! 玄関も広くなっていて感動しそうになったの」
「お母さんの退院に間に合って良かったね」と応じると、ひぃなは幼い子どものような笑顔を浮かべ「お母さんも絶対に驚くと思う」と答えた。
この姉妹の母親である実花子さんは昨年の暮れに心不全で倒れて入院し、明日退院することとなった。
当分は自宅療養が続く。
まだ体調が万全とは言えない実花子さんのためにリフォームを行ったそうだ。
今日は退院前に家をピカピカにすると意気込んでひぃなは出掛けて行った。
「かなり大規模だったんですね」と華菜さんに聞くと、「お父さんが張り切っちゃって」と苦笑した。
「普通なら絶対に間に合わないけど、これまでのコネを総動員したって自慢していたよ」とひぃなも笑っている。
ひぃなの父親は設計士なのでこの業界に顔が利くようだ。
私は「大人の本気ですね」と微笑んだ。
調理を華菜さんに任せて、ひぃなの話し相手を務めることになった。
ダイニングに向かい合って座り、彼女が語るリフォームの様子を丁寧に相づちを打ちながら聞く。
「家の中を車椅子のまま動けるように設計したんだって。トイレや脱衣所もひと回り広くなっているし、電気のスイッチなんかもできる限り低い位置に付け替えてあったの」
「バリアフリーになって誰もが使いやすくなるのは良いことだね」
「でも、なんでも低い場所にあると背が高い人には使いにくくならない?」
「スイッチなんかは気にする必要はないんじゃないかな。さすがにキッチンのシンクが低いと作業がしにくくなるけど」
「そういうのは踏み台の方が良いよね……」
「躓いたり足を踏み外したりすることもあるから、それがベストって訳じゃないけどね」
実際うちのキッチンにもひぃな用の踏み台が置いてある。
これまで重大な事故は起きていないがハッとすることはあった。
可能性がある以上対策を採るべきだがいまのところ良い対案を見つけられないでいる。
「そういえば南の公園の桜はもう満開に近かったよ。ほら」
ひぃながスマートフォンの画像を見せてくれる。
五分咲きから七分咲きといったところだろうか。
マンションから見下ろすことができる中学校の桜はこれより少し遅れている感じだ。
「いつもジョギングする公園も満開間近だし、やっぱりウキウキするね」
「明日は天気が良さそうだし、お花見がてらに散歩に行こうか」
ひぃなの期待に応えようと提案すると、彼女は手放しで喜んでくれる。
私は上機嫌なひぃなに話を切り出した。
「母に言われたんだ。ひぃなへの誕生日プレゼントは自制したらって」
「え?」
突然話題を変えたのでひぃなは戸惑った表情を見せた。
私は「お祖父様が臨玲に新館を建ててそれを入学祝い兼誕生日プレゼントにすると仰ったから、それに張り合おうと思ったんだけどね……」と言葉を続ける。
目を丸くするひぃなを見てニヤリと笑い、「それはさすがに冗談だけど、『お返しを考える陽稲ちゃんの負担にならないようにしなさい』って母から釘を刺された」と肩をすくめた。
ひぃなもお小遣いは潤沢な方だが、あくまで一般の中高生レベルでだ。
衣類にかける金額は常識外れとはいえ、ファッションに関する費用のみお祖父様に出してもらっているという事情がある。
基本的に私のお金の使い方に干渉をしない母だ。
ふたりの誕生日が近づいてきたこのタイミングで忠告をしたのは余程見かねたからだろう。
『人間関係は難しくて、たとえ善意であっても人を傷つけることはよくあることよ。プレゼントや何かをしてあげるという行為は受け取った側に心理的負担を感じさせることがある。明確に意識していなくても積もり積もれば大きな影響を与えることもある』
もちろん私もそれは考慮していた。
だが、母は考えが甘いと容赦なく指摘した。
『可恋自身は陽稲ちゃんから様々なものを受け取っていると感じているのでしょう。問題はそれが言語化しづらくて相手や第三者には伝わりにくいということなのよ。外部から見れば一方的に与えられているように見えるし、そういう視線は気になるものだから』
私は言葉では言い表せないくらいひぃなから多くのものを授かっている。
彼女がいなければ、私は他人と関わろうとはしなかっただろう。
無難な学校生活を送り、ひとりで空手に打ち込むだけだったはずだ。
ひぃなと出会って、世界が彩りに満ちていることに気がついた。
人と関わることは面倒だが得られることも多い。
そこに新たな発見があり、いろいろな気づきを得た。
長くは生きられないという思いが常に私の頭の片隅にあり、生きた証として何かをやり遂げたいと願っていた。
しかし、それを自分ひとりでやったところで何が残るというのだろう。
ひぃなのお蔭で他人と交流する意味を知り、私はようやく生きることを始めたのだ。
そんなひぃなにどれだけ返しても返し足りないと感じていた。
だから、節度は保とうと思っていたのに保つことができていなかったのだろう。
「そんな訳で、宝石のカタログを取り寄せて検討していたんだけど、ひぃなが大人になるまで封印するね」
宝石という言葉に目を輝かせたひぃなだが、封印すると言ったらその小さな顔を両手で覆った。
ゆっくり息を吐くと手を離す。
顔を上げた時には残念そうな雰囲気は完全に消えていた。
「それで良いと思う。大切なことはお金じゃないもの」
「ひぃなが納得してくれてよかったよ。新館のトレーニング施設にお金を使い過ぎたから」と笑うと、ひぃなは大きく目を見開いていた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・春から花の女子高生、という感慨はまったくない。英語の勉強がてらキャシーの姉のリサから経営学の知識を得ていたが、最近はそれを元に学校経営について勉強している。
日々木陽稲・・・間もなく15歳の誕生日を迎える。でも、自分のことよりも4月早々に16歳になる可恋の誕生日をどう演出するかに頭を悩ませている。
日々木華菜・・・陽稲の姉。4月には高校3年生になる。調理師と栄養士で迷っていたが病に倒れた母のことを考え栄養士に気持ちが傾いている。
日野陽子・・・可恋の母。著名な大学教授。研究や教育のみならず支援活動にも従事しているため感染リスクが高く、娘の体質を考慮して現在は離れて暮らしている。可恋は一定額以上の購入時には母に報告や相談を行っているが、母から求めたものではない。
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