第13話 令和元年5月19日(日)「回し蹴り」日々木陽稲

 白い空手着を身にまとった可恋は、まるで別人のようだった。すっと立っているだけなのに、大きく見える。表情は引き締まり、口元はグッと閉ざされ、目つきは鋭く前だけを見据えている。


 道場の板の間の上には多くの空手着姿の人が等間隔に並んで立っている。ほとんどは大人で、わたしのお父さんよりも年上に見える人も少なくない。女性が三分の一くらいいて、こちらは20代と思しき人が多い。


 先ほど可恋に紹介してもらった師範代の女性が皆の前に立ち、一声かける。そして、「始め」の合図に一斉に礼をして、道場内の熱気が一気に増した。激しい気合いの声、床を踏みならす大きな振動、道着を擦るような音が混じって、それまでの静けさから一転して地響きのように感じる。わたしは迫力に押され、隣りに座る純ちゃんの腕をつかんだ。もしひとりだったら、逃げ出していたに違いない。


 大人たちの力強い動きの中で、可恋のそれは美しかった。空手を見たのはこれが初めてで、何が凄いのかもまったく分からないけど、身びいきなしに他の人とは違う動きに見えた。可恋はこちらを一度も見ない。頭の中にはわたしのことなど微塵もないだろうと思う真剣な顔つきに見入ってしまう。


「それまで」という声と共に1時間の朝稽古が終わった。あっという間のようにも感じたし、もの凄く長いようにも感じた。ただ座って見ているだけだったのに、わたしは疲れ果てていた。わたしは力なく純ちゃんにもたれかかる。


「大丈夫ですか?」


 師範代の三谷先生が心配そうに声を掛けてくれた。わたしのお母さんより少し若いだろうか。わたしが身体を起こそうとすると、「そのままでいいですよ」と言ってくれた。


「すいません。圧倒されてしまって、へとへとになっちゃいました」


「頑張ってもう少し見てあげて。彼女の得意な形の演武があるから」


 そう言って道場の方へ目を向ける。わたしもそちらを向くと、稽古をしていた人たちは壁際に移動し、ひとりだけ自然体で立っている。わたしの方を見ている。


 わたしはひとつ深呼吸をして気合いを入れる。わたしが頷くと、可恋も頷いた。綺麗な礼をして、何かを叫ぶ。流れるような動き、息を呑むような溜め、爆発するような激しさ、本当にそこに戦っている相手がいるかのような緊迫感。


 美しい回し蹴りが一閃する。


 ショートの黒髪が揺れ、可恋が最後の礼をした。顔を上げると、充実した表情が見えた。見ていた人たちから声が掛けられ、可恋は少し照れる仕草をする。それから、ゆっくりとこちらに近付き、三谷先生に一礼した後、しゃがみ込んでわたしの顔を覗き込んだ。


「大丈夫?」


 わたしの額に手を当てる。可恋の汗の臭いがした。わたしはそれに気付かない振りをして、「少し疲れただけ」と答える。可恋は「そっか」と言って思案顔になる。


「うちで朝ご飯食べてから帰りなさい」と三谷先生が言ってくれた。可恋が立ち上がり、「ありがとうございます。そうさせていただきます」と頭を下げる。わたしが「ご迷惑を……」と謝ろうとすると、「いいの、いいの」と大声で言って去って行った。


 わたしは純ちゃんにお姫様抱っこで運ばれた。ジャージ姿だったからいいけど、それでも気恥ずかしかった。道場に隣接するお宅に入り、大きなテーブルのある和室に案内された。「着替えと食事の準備をしてくるから、ここで休んでいてね」と可恋に言われ、わたしは座布団の上に寝かされた。


 純ちゃんとふたり残される。「凄かったね」とわたしが言うと、純ちゃんは頷いた。彼女なりに何か感じることがあったのか、真剣な顔つきだった。


 純ちゃんのお腹が鳴った頃に可恋と三谷先生が一緒に入って来た。可恋はジャージ姿に着替えていて、わたしを起こしてくれる時には制汗剤の匂いがした。コンビニ袋からお弁当やサラダ、スポーツドリンクなどを取り出し、「ひぃなは無理してでもおにぎり一個は食べておいてね」とおにぎりを手渡された。


「お茶を淹れてくるから、先に食べてて」と言って可恋が部屋を出て行く。その言葉の前に三谷先生も純ちゃんも食べ始めていた。


 三谷先生は純ちゃんに興味津々なようで、あれこれと質問してくる。純ちゃんは食べるのに夢中なので、わたしが答えていると、「競泳でパリオリンピック目指している子なんですから、手を出しちゃダメですよ」と言いながら可恋が戻って来た。お茶を配りながら、「空手はパリではオリンピック種目から外されましたし」と言葉を続けると、「ロスでは復活させるわよ!」と大きな声で三谷先生が反論した。


「安藤さんも真似しないでね。変なクセや不要な筋肉をつけて、競泳にマイナスにならないようにね」と可恋が純ちゃんに注意する。純ちゃんはじっくり考えてから頷いていた。


 わたしはもらったおにぎりをなんとか食べ切ってから、既に食べ終わってお茶を飲んでいる三谷先生に質問した。


「可恋ってどれくらい強いんですか?」


「そうね……、全中、全国中学生空手道選手権に出場したら優勝を狙えるレベルでしょうね」


「え、それって、凄いですよね?」


「凄いわよ。少なくとも中学生レベルじゃないしね」


 その言葉にわたしは可恋を見る。可恋も既に食べ終えてお茶を飲んでいる。


「出ないから、仮定の話をしてもね」と可恋がわたしの視線に答えてくれる。


「どうして出ないの?」


「大会に出たり、勝ち負けを競ったりすることに興味がないというのがひとつ」と指を折ってみせる。「大会に向けて、コンディションを維持するのが私の場合難しいというのがひとつ」


 そして、三谷先生の方を向いて「師範代の前で言ってはいけないんですが、これ以上空手に時間を割く意思がないというのがひとつ」と三本目の指を折る。「主な理由はこんなところね」と再びわたしを見て言った。


 それでも、もったいないと思ってしまった。すると三谷先生が「陽稲ちゃんだっけ。この子にもっと空手やるように言ってあげてよ」と笑いながらお願いしてくる。可恋は馬耳東風といった感じで聞き流している。


「可恋って空手のこと大好きだよね?」


 わたしの質問に、可恋はお茶を飲み干すと静かにテーブルの上に置き、すっと姿勢を正してわたしに向き合う。


「好きだよ。そう、ひぃなにとってのファッションのように、自分の中で特別なもの」


 いつもの可恋らしい淡々とした声と口調だけど、想いの強さは伝わってきた。


「私は空手を大好きだけど、私の好きな空手は人と競うものじゃないってだけ。空手のお蔭でここまで生きてこられたって思ってる。空手にも、空手を通じて私を支えてくれた人たちにも本当に感謝しているし、恩返しはしたい。大会に出ること以外にもその方法はあると思うから」


 そう言った可恋の後ろで三谷先生は暖かく見つめていた。わたしは両手を胸に当て、精一杯の笑顔を見せて頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る