第450話 令和2年7月29日(水)「絶望」野上月

「もう、いいから……」


 彼女はそう言うとそっと目を逸らした。

 わたしは彼女に会ったら伝えたいことがいっぱいあったはずなのに、実際に会うとほとんど何も言えなかった。

 ただ絞り出すように「アケミ……」と彼女の名前を呼んだ。


 彼女を取り囲む男たちに手荒く店を追い出され、アケミとの久しぶりの邂逅はほんのわずかの時間で終わった。

 わたしは逃げ出すように家に帰り着いた。


 それから一夜が過ぎた。

 今日は学校に行く気が起きずに自主休校を決めた。

 お母さんは「そう」とだけ言って仕事に出掛けて行った。

 こんな時に深く事情を聞かないでくれて助かった。


 学校に行けば昨夜アケミに会ったことをカナやハツミに言わずにはいられないだろう。

 いまのわたしではどう言い訳すればいいのか分からない。

 あれほどアケミを助け出すんだと息巻いていたのに結果はこれだ。


 アケミが学校をサボっているとハツミから知らされたのは10日ほど前のことだ。

 横浜の繁華街に毎夜男と繰り出しているらしい。

 それから必死に情報を集めた。

 人脈作りが趣味であるわたしの情報収集能力を舐めるなよという気持ちで、ようやく彼女の居所を突き止めた。

 そして、昨夜ボディガード役の大学生ふたりとともに中心部から少し外れたところにある大学生たちの溜まり場に向かった。


 アケミは化粧をして安っぽい薄手の服を身につけていた。

 彼女には似合わない男受けする装いだった。

 わたしを見て驚いた顔をしたが、すぐに目を伏せた。

 わたしはその手を取り連れ出そうとしたが、思わぬ強い力で振り払われた。

 わたしの「帰ろう」という言葉に耳を貸さず、アケミはその場にとどまった。


 昨年の夏休み、大量の宿題に悩まされたわたしはカナと勉強会を開くことにして、その際にふたりのクラスメイトに声を掛けた。

 ひとりはクラスでは浮いた存在だった帰国子女のハツミ。

 かなりの美女で、わたしは接近するチャンスをうかがっていた。

 もうひとりが地味な優等生のアケミだった。

 アケミだったのは、勉強ができることと、ほかに仲が良い友だちがいそうになかったからだ。

 きっかけはそんな打算だった。


 この4人の関係は思いのほか上手く行き、文化祭で盛り上がったり、感謝祭のパーティに行ったり、わたしの企画したファッションショーの開催に協力してもらったりと賑やかに一緒の時間を過ごした。

 友だちや知り合いが多いわたしにとってもこの3人は特別だと思っていた。


 ただ金銭的に恵まれているわたしやカナ、ハツミとつき合うことはアケミにとってはどうだったんだろう、とも思う。

 集まりに参加できないことも多かったし、わたしたちが気を使っていることに繊細なアケミは気づいていただろう。

 自分のこと、自分の未来や夢を語ることが当たり前の3人に対して、彼女はまず家族や家のことを口にする。

 それは仕方がないことだ。

 でも、時に不快に感じることもあった。

 距離を感じることも。


 それでもアケミは勉強を頑張って大学に進学しようと前向きに頑張っていた。

 うちの高校は大学進学を目指す生徒の方が多いが、もちろん就職希望の子もいる。

 そこにも見えない壁のようなものがある。

 そして、アケミは家庭環境を理由に大学進学という夢を諦めようとしている。


 彼女を強引に連れ帰ったとして、そのあとわたしに何ができるのか。

 わたしたちは奨学金などの支援はいろいろと調べたが、アケミは妹のことを考えるともう働くしかないと考えているようだった。

 わたしは多少ほかの高校生より人生経験豊富だと思っていたが、アケミを励ます言葉すら持っていなかった。


 ……オヤジがいれば。


 家に帰ったあともアケミの顔が浮かんで自分の無力さに身体が引き裂かれそうだった。

 せめてこのグダグダした思いを吐き出してほんの少しでもスッキリしたかった。

 自由人のオヤジは仕事で家を離れている。

 家族に仕事の内容を話すことはないが、ヤバい仕事に関わっているとは薄々感じている。

 今回もそういう仕事らしく、1ヶ月以上帰ってきていない。

 定期的にオヤジから連絡は来るが、こちらから伝える手段がない。


 話を聞いてくれそうな友だちは何人もいるが、いまは授業中だろう。

 大学生や社会人の中でも時間に自由がありそうな人の顔を思い浮かべ、心当たりに連絡しようとしてわたしは手を止めた。

 どうせ当たり障りのない答えしか返ってこない。

 わたしが知り合いからこんな相談をされても、きっと同じだろう。

 よほど仲が良い相手でなければ、ひとつひとつの相談に真剣に取り組んでいては身が持たない。


 例外的な人物はいるにはいるが、躊躇う気持ちが強い。

 歳下にこんな相談を持ちかけるなんてプライドが許さない。

 そう思いながらベッドの上でゴロゴロしていると時間だけが経過する。

 今日はここ数日の暑さはなく、冷房を入れなくても過ごしやすい気温だ。

 しかし、湿度は高く、蒸れて湿気が身体にまとわりつくようだ。

 不快感が身を焼くように気持ちを苛立たせる。


 ……アサミもいまこんな気持ちなのだろうか。


 食欲が全然湧かなかったが、気が付けばお昼時だ。

 わたしはついに可恋ちゃんに電話を掛けた。

 午前中は勉強しているので連絡を受けても応答しないと言われているが、昼食後まで待てなかった。


『こんにちは。何かありましたか?』といつもの落ち着いた声で話す可恋ちゃんに、『ごめんね、食事中じゃなかった?』とまずは詫びる。


『いえ、今日はこれから大学病院で検査なので昼食を摂りませんから』


 そういえば毎月検査に行っていると言っていた。

 それが今日だったのか……。

 わたしはどうしようかと口籠もったが、彼女は『アサミさんの件ですか?』と問い掛けた。


『うん』


『華菜さんから経緯を伺っています。……ゆえさん、今日の午後は時間ありますか?』


『大丈夫』


『私の母にゆえさんの番号を伝えてもいいですか? おそらく私より力になれると思います』


 私は予想外の提案に即座に判断できなかった。

 可恋ちゃんの母親と言えば……。


『私の母は女性問題の専門家で、この分野では著名だと思います。研究だけでなく、当事者への聞き取りや支援活動にも積極的に関わっています』


『もちろん知っているよ』


 凄く有名な大学の先生だ。

 夜のニュースでコメントの映像が流れるのを何度か見たことがある。

 意識高い系の大学生女子では知らない人はいないんじゃないかというくらいだ。

 人脈作りの一環としてそういう人に勧められ一般向けに書かれた新書を読んだこともある。


『いかがですか?』と再び聞かれ、『わたしのために時間を取ってもらっていいの?』と質問で返す。


『娘のお願いはたいてい聞いてくれるんですよ』と彼女は悪戯っぽく笑い、わたしは少しだけ気分が軽くなった。


 可恋ちゃんの母親である日野教授から電話が掛かってきたのは3時を回った頃だった。

 わたしは可恋ちゃんとの電話のあと落ち着かず、いつ掛かってくるともしれない電話を待っていた。

 頭の中で挨拶をシミュレーションしたり、言いたいことを整理したりしていたが、昨夜ほとんど眠れなかったのでウトウトしかけていた時にスマホが振動した。

 考えていた挨拶は頭から吹っ飛び、わたしはしどろもどろになってしまった。


『あなたのこと。お友だちのこと。うまく話そうとしなくていいです。最後まで聞きますから』と寄り添うように言ってくれて、わたしは気負わずに話し始めた。


 アケミのことが中心ではあったものの、かなりあちこちに話は飛び、本音の部分まで気持ちをさらけ出した。

 人たらしであるオヤジは相手をうまく乗せて話を引き出すが、日野教授は適切な相づちを打つだけで一方的に話を聞く。

 そんなことを感じながらこの1年間の友人関係を語り、そして昨夜の出来事に話が及んだ。


『どうしたら良かったんでしょう?』と質問したわたしに、『まだ何も終わってはいないわよ』と教授は優しく語り掛けた。


『あなた、アケミさん、華菜さん、ハツミさん。4人の関係は全員が諦めない限り簡単に終わるものじゃない』


 その言葉に少しだけ勇気をもらえた。

 わたしは『アケミはわたしのことをウザいと思っているんじゃ』と不安を口にする。

 すると、『彼女の気持ちは想像することしかできない。ウザいと思っているかもしれないし、助けを求めているのかもしれない。あなたに迷惑を掛けたくないのかもしれない』と真摯に答えてくれた。


『だから、彼女の気持ちを聞く機会を作る必要があるわね。あなたたちの気持ちを伝える機会も。それには落ち着いてじっくりと話をする場所が大切でしょう』


 確かに昨夜の店内はとても話せる雰囲気ではなかった。

 周りに男たちもいたし、店内は賑やかでうるさかった。

 わたしも彼女の話を聞く態勢ではなかったと思う。


『若いと結論を急ぎたくなるものだけど、焦らないこと。それが大人としての助言ね。大学の勉強だって社会人を経験してからでもできるのだから』


 わたしは昨夜アケミを救出しようと意気揚々と乗り込み、それが果たせず絶望した。

 その極端さはアサミも同様かもしれない。

 大学進学を諦め自暴自棄になって夜遊びする。

 わたしひとりでは無理でもカナやハツミと一緒に話せば、アケミの心に思いが届くかもしれない。


 それからしばらく雑談をした。

 日野教授の体験談をいろいろと教えてもらった。

 いろいろな人から話を聞いて、幸せというものは他人では計れないと思ったこと。

 極貧の中に幸せを感じる人もいれば、誰もが羨む生活をしながら幸せとは縁遠い人もいる。

 また、敵や味方といった関係も一面に過ぎないと思ったこと。

 学問や支援活動において、同士と思っていたのに袂を分かったり、敵対していた人と手を取り合ったりしたという。


『時に人を数字で見てしまいます。それが必要な場合も確かにあります。しかし、ひとりひとりを人間として見る視点をなくしてはいけないと私は肝に銘じているの』


 教授のその言葉は人脈作りが趣味だと話した私への忠告でもあるだろう。

 オヤジからも似たような助言を受けたことがある。

 偏らず、両方の視点を持てといった内容だったか……。


『可恋ちゃんにもこういう話をするんですか?』


『あの子は人間には感情があるから与しやすいだとか、人間は骨と筋肉と感情だけで成り立っているだとかそんな話ばかりね、最近は』




††††† 登場人物紹介 †††††


野上ゆえ・・・高校2年生。趣味は人脈作りで、横浜界隈では顔が知られた存在。父親の影響が強い。


矢野朱美・・・高校2年生。両親は健在だがコロナ禍によって収入が減り大学進学が厳しくなった。中学1年生の妹がいてその学費のこともあり、就職するしかないと思い詰めていた。

酔い潰されて大学生たちに襲われたが、金回りの良い彼らにその後も付き従っている。


日々木華菜・・・高校2年生。ゆえの親友。ゆえの暴走を心配して可恋に相談していた。


久保初美・・・高校2年生。帰国子女。アケミと2年でも同じクラスになった。


日野陽子・・・某超有名私立大学教授。同じ大学教授の夫と離婚直後に可恋を出産した。


日野可恋・・・中学3年生。「何か間違ってる?」

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