第267話 令和2年1月28日(火)「雨の日の来訪者」日野可恋

 夜半から朝にかけて雪が降ったようだ。

 今日の予報は一日雨で、気温は上がらないというものだった。

 起床してすぐにそれを確認し、ひぃなに今日は欠席するとメールする。

 寒いから風邪を引かないように気を付けてねという注意を添えて。

 体調は回復したが、今月は朝の稽古にまったく行けていない。

 調子を崩していた時期はトレーニングもままならず、身体のキレはさび付いたままだ。


 春休みに毎年空手の中学選抜大会が開催されている。

 神瀬こうのせ結さんから一緒に出ませんかと誘われていたが、コンディションが戻っていないだろうと予測して断った。

 現状を見ればその判断は間違っていなかった。


 道場には行けないが、暖かい室内でしっかり身体を動かす。

 シャワーを浴び、朝食を作り始めた頃に母が自室から出て来る。

 稽古に行くと朝はすれ違いになってしまうが、稽古を休むことが多い冬場は短いながらも会話を交わす時間を持つことができる。


「たまには仕事を忘れてのんびりしたいわ」


 そうぼやく母だが、仕事が趣味のような人だから空いた時間があれば仕事に使ってしまうだろう。

 とはいえ、今日のような天気だと母といえども仕事に行くのは気が滅入るのだろう。


「まだみぞれが降っているようだし路面に気を付けてね。寒いから身体を冷やさないようにしてね。それから、最近ちょっとカロリーを摂り過ぎだから少し控えて。タンパク質が足りてないみたいだから……」


「はいはい、今日は早めに帰るから夕食は可恋に任せるわ」と母は私の言葉を遮った。


 私の悪いクセではあるが、健康管理と称して他人の食事や運動を気にしてしまう。

 実際に口出しするのは母やひぃなくらいだが、つい口やかましくなり、母にはウンザリされてしまうことがあった。


「分かった。夕食の準備をしておくね」と答えるが、おそらく夕食前に帰れるかどうかは五分五分といったところだろう。


 以前なら空約束に終わると寂しい気持ちを抱いていたが、いまはひぃなが来てくれるので助かっている。

 私は基本的に心配性なので、朝食の場でも様々なリスクを並べてしまい、母は私の言葉に追い立てられるように仕事に行った。

 母は大ざっぱで適当な性格なので、気になってどうしても色々と言ってしまうのだ。

 あとから言い過ぎたと反省するが、この性格は変わりそうにない。


 ひぃなから電話が掛かり、短い会話を交わす。

 ここでも注意事項を並べ立て、ひぃなから「お母さんみたい」と笑われた。

 その後、メール等の確認を終え、午前中を勉強の時間に充てる。


 独学で取り組んでいるのは英語と数学だ。

 英語はキャシーの姉であるリサのお蔭でアメリカの高校生程度の実力は身に付いた。

 しかし、ここから先は簡単ではない。

 各種専門分野の語彙を身に付けようと思っているが、当然ながらその分野の基本的な知識がなければ言葉の意味を把握できない。

 スポーツやトレーニングが私の専門分野だと言えるが、それだって他の様々な分野とクロスオーバーしていて学問的な教養の必要性を強く感じた。

 もうひとつ課題があった。

 言葉は文化や宗教的な背景を背負っている。

 そうした背景は、そこに住む人たちには当たり前すぎて意識にのぼらないことがある。

 だから、わざわざ言語化されていなかったりする。

 このような見えない常識は独学では大きな壁のように感じられた。


 それに比べると高校レベルの数学は学びやすかった。

 これももっと高度な数学なら独学では厳しいのだろうが、このレベルなら参考書は豊富だし、ネット上にも大量の情報が転がっている。

 英語と比べ、学ぶ道筋が整備されているように感じ、こちらはスラスラと予定の量をこなすことができた。


 他の科目については、新書や専門書といった類いの本を興味が赴くままに読み込むことにしている。

 小説、特にミステリ好きではあるが、こういった本も嫌いじゃない。

 趣味の延長なので私としては勉強だと思っていなかった。


 午後はそうした読書に充てようとウキウキした気持ちで昼食の準備をする。

 最近はスーパーマーケットの宅配サービスを主に利用し、生鮮食料品については華菜さんに買い出しをしてもらうことが多かった。

 昼食を作りながら夜のメニューについて考えていると、メールの着信に気付いた。


「待ち人来たる……か」と呟く。


 重要なメールは2件あった。

 そのどちらも会合の約束についてだった。


 年末に予定をキャンセルしたことを詫びる言葉とともに2月中旬に東京でどうかというものが1件。

 NPOのことで、こちらからお願いしている立場なので丁寧な返信をする。

 もう1件はあと30分程度でこちらに着くだろうという非常識なメールだった。

 こちらから会いたいと希望していたとはいえ、平日の昼間に中学生の家に押しかけるというのは考えなしなのか私の情報を把握しているのか……。

 そもそも私の家の場所を教えた覚えはない。

 おそらく醍醐さんから聞いたのだろうが、あとで確認が必要な事案だ。


 手早く昼食を済ませ、着替える。

 NPO関連だと仕事という意識があるのでスーツを着るが、今日はラフなジャケットにする。

 まるでタイミングを計ったかのように着替えが終わったところでインターホンが鳴った。


『こんにちはー、可恋ちゃん、いるー?』


 まるで小学生が友だちの家に行き、遊びの誘いをするような呼び掛けだった。

 これまでメールでしかやり取りしたことがない相手だというのに……。


『初めまして、式部さんですね。迎えに行きましょうか?』


 私は相手のペースに乗せられないように堅苦しく挨拶したが、彼女は『大丈夫だよー』と硬さを微塵も感じさせない返事をした。

 私はいくつか注意事項を口にしてから、オートロックを開錠する。


 我が家にやって来た式部さんは一見中学生のようだった。

 幼い顔立ちに長い髪、ぶかぶかで、もこもこした安っぽいダウンジャケットを着込んでいる。

 とても二十歳過ぎの大人の女性には見えない。


「天気が良い日だと道を歩いているだけでよく補導されるのよー。雨で良かったわー」とニコニコ笑う式部さんは、「雪ならもっと良かったんだけどねー」と天真爛漫な感じで言葉を続けた。


 どこまでが素で、どこまでが演技かつかめない。

 直感的に苦手なタイプだと思った。

 マイペースな人間は対応に困る。

 イベントの準備で彼女と何度か一緒に行動したゆえさんは「面白い人ですね」と評していたが、「著しく」という言葉が抜けているんじゃないか。


「外は寒かったでしょう。何か温かい飲み物を準備しますね」と言いながらリビングに案内する。


 彼女はソファーに駆け寄り、「ふかふかだねー」と言って寝そべって頬ずりした。

 猫のような気まぐれさに、いちいち反応しないように気を付けようと思いながら私はキッチンで紅茶を淹れた。

 昨日華菜さんが持って来てくれたお菓子が残っていたのでそれも一緒に持って行く。

 リビングに戻ると、式部さんはうとうとしていた。


 時間があるのであれば、彼女にはこのまま寝てもらって、ひぃなが来るのを待ちたいところだった。

 きっと私よりひぃなの方がうまく相手をしてくれるだろう。

 しかし、式部さんは忙しい人だと聞いている。

 醍醐さんからはファッションデザイナーとして紹介されたが、それは彼女の多種多様な活動の中のひとつに過ぎない。

 大道芸のようなことから、演劇、音楽、デザイン、イラストなど多彩な才能を発揮し、いまやかなり著名なユーチューバーだ。


「式部さん、今日はお時間はあるのですか?」と確認すると、「うにゅ? あー、寝ちゃってた!」とゆっくりと身体を起こした。


 彼女の動画をいくつか見た。

 キャラ付けだと思っていたが、少なくとも他人の前では常にこういう振る舞いをするのだろう。

 彼女は私が持って来た紅茶をふーふーとかなり冷ましてから口にした。

 そして、華菜さんお手製のマフィンを食べ、「おいしいねー」と嬉しそうに語った。


 食べることに夢中になったかと思いきや、顔を上げ、「ゆえちゃん、面白い子だねー」と私に話し掛ける。


「あなたほどではないと思います」とはさすがに言えず、「素敵な人ですよね」と当たり障りのない返答をした。


 唐突に「動画見たよー。格好良かったねー。あたしもあんなショー、やってみたいなあ」と式部さんは話題を変えた。

 私たちが文化祭で開催したファッションショーの動画のことだろう。

 今度は「暑くなってきたー」とダウンジャケットを脱ぐ。

 中からはビビッドな色合いの着物のような柄をしたワンピースが現れた。


「式部さんのデザインですか?」と尋ねると、「いいでしょー」と微笑む。


 彼女は愛嬌があり、笑顔が魅力的だ。

 ひぃなのような美形ではないが、ファニーフェイスが印象的で、笑顔だけはどこかひぃなのそれと通じるものがあるように感じた。


「素敵ですね」と褒めると、ふふんと自慢げにしたあと、「ダンスの子って?」と式部さんは話題を変えた。


 きっと頭の回転が速い人なのだろう。

 私は自分のスマホを出して、渡瀬さんの最近のダンスの動画を見せた。


「楽しそうだねー」と式部さんが笑顔で見入っていた。


 渡瀬さんのダンスの特徴はそこにあると私も思っている。

 確かに技術も優れ、洗練されている。

 しかし、それだけなら世の中にはたくさん同レベルの人がいるだろう。

 彼女は心から楽しそうに踊り、周囲の心を惹きつけることができる。

 楽しんでいるから練習を苦にせず、上手く見せようという邪な思いも抱いていない。

 だからこそ、私も応援しようと思ってしまうのだ。


「協力していただけますか?」


 渡瀬さんの事情はある程度話してある。

 事件については渡瀬さんのプライバシーに関わるので、本人の同意があってからだが。

 プロのダンサーなど他に当たることも考えてはいるが、折角の縁なので最初に式部さんに頼んでみた。


「一度会ってみたいなー」と式部さんは答えた。


 時計を見る。

 今日はダンス部の練習はないが、授業が終わるまでもうしばらく時間が掛かる。

 私のそんな様子に気付いたのか、「今日はもう帰らなくちゃ!」と式部さんは立ち上がった。

 急ではあったが、1時間にも満たない対面のために彼女はわざわざ来てくれたことになる。

 本当に時間がないのか、式部さんは急ぎ足で玄関に向かった。


「ダウンジャケットを忘れてますよ! 外は寒いですよ」と私はその背中を追った。




††††† 登場人物紹介 †††††


陽稲「この部屋に、女の人来たでしょ」


可恋「あー、式部さんね。デザイナーの」


陽稲「……。わたしがゆえさんのファッションショーでもデザイナーやりたかったのに……」


可恋「そこはほら、いろんな人が集まりそうだから、あまり目立たない方が良いかなってね」


陽稲「……。どんな人?」


可恋「えー、変わった人だったよ。私は苦手だなー」


陽稲「じー(疑いの眼差しで可恋を見ている)」


可恋「ホントだって!」

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