第237話 令和元年12月29日(日)「F-SAS」倉持碧

 私が日野可恋さんと初対面の挨拶を交わしていたら、篠原アイリスさんが大きな音を立てて部屋に飛び込んできた。


「おはようございます!」といつもの明るい大きな声がそう広くない部屋の中に響き渡る。


 時間は午後2時少し前。

 日野さんの「お久しぶりです」の言葉をかき消すように、「可恋ちゃん、もう来てたんだ!」と篠原さんは大股で近付くと日野さんをギュッとハグした。

 日野さんも大柄だが、バレーボール選手である篠原さんはそれより頭一つくらい背が高い。


「不用意に近付くと蹴り飛ばしますよ」と日野さんは苦笑しているが、「うちと可恋ちゃんとの仲やんか」と篠原さんは意に介した様子がなかった。


 ふたりが再会を喜び合っていると、ドアがノックされた。

 私が急いでドアを開けると、車椅子に乗った女性がにこやかな笑顔で私を見上げた。

 年の頃はわたしの母と同じくらい。

 肌つやはまだ若々しい印象を受けるが、刻まれた多くの皺には重ねてきた経験の大きさが感じられた。

 鵜飼雅美さん。

 パラスポーツの草分けで、知る人ぞ知る存在だった。


「わざわざ、いらしていただきありがとうございます。F-SAS代表の日野可恋です」


 鵜飼さんは私の介助を「結構」と断り、自力で部屋に入ってきた。

 すぐさま日野さんが綺麗な姿勢で挨拶の言葉を述べた。

 彼女の所作の美しさは実際に会って初めて気付かされた。

 常日頃から身体の隅々にまで神経を通わせているのだろう。


「同じく代表の篠原アイリスです。よろしくお願いします」


 篠原さんはわずかに緊張した表情だが、それでも持ち前の茶目っ気ある笑顔で歓迎の意を伝えた。

 私は「スタッフの倉持碧です。よろしくお願いします」と一礼し、名刺を手渡した。


 鵜飼さんは日野さんと篠原さんの介助で上座のソファに座り、その対面に代表ふたりが腰掛けた。

 私は全員に飲み物を提供したあと部屋の隅に立っていたが、日野さんから「倉持さんも一緒に席に着いてください」と言われ、テーブルの輪に加わった。


 今日のこの席は鵜飼さんのF-SAS理事就任に伴う代表ふたりとの顔合わせである。

 鵜飼さんは京都在住なので関西担当スタッフの私は今後もお会いする機会があるだろう。

 彼女はアスリートとしての実績よりも競技者視点から様々な問題を指摘し改善することに力を注いだことで知られていた。

 私はスポーツ用品メーカー勤務なので、彼女が大会運営や用具の進化にいかに貢献してきたかを知ることができたが、一般には無名に近い存在だ。

 その鵜飼さんをF-SASの理事に招き入れるというのはなかなかの目の付け所だと感じた。


「F-SASは女子学生アスリートの支援を目的に作られましたが、その射程のひとつに生涯スポーツとの接続があります。部活動でスポーツをする女子は少なくありませんが、多くが大学進学や就職結婚を機にスポーツから離れてしまいます。その改善や環境整備も女子学生アスリートの利益に繋がると考えています」


 日野さんが堂々とした態度で鵜飼さんにこのNPOの理念を述べる。

 世間一般では、彼女の母親で著名な大学教授の日野陽子先生がこのNPOの仕掛け人だと思われているが、中にいると日野先生の影響を感じることはほとんどなかった。

 もちろん目の前のこの美麗な少女が先生の薫陶を受けていることは確かなのだろうが、彼女の考えは徹底したアスリート視点だった。


「バレーはママさんバレーがあるけど、他の競技はあんまり聞かないよね」


「そうですね。現在、市民スポーツとしてはマラソンと筋トレがブームと言えるレベルですが、選択肢がそれだけに限られているとも言えます。男性なら草野球、女性ならママさんバレーがありますが、もっと身近に多様なスポーツに気軽に触れ合えるようになればと思います」


 篠原さんの言葉に淀みなく日野さんが答える。

 そして、突然日野さんが私の方を向いた。


「倉持さんは高校までバドミントンをプレーし、優秀な選手だったと伺いました。大学では競技を離れられたようですが、その理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」


「あー、そうですね。インターハイまでは行きましたが、大学でそれ以上を目指すレベルには到達していないと思い、辞めました。年齢が上がるにつれてトップを目指せる選手の枠は絞られていき、どこかで諦める必要があると思ったのです」


 まさか自分に話が振られると思っていなかったので、つい本音をさらけ出してしまった。


「趣味として続けようとは思わなかったのですか?」と冷静に日野さんが私に尋ねる。


「高校時代までは勝つために必死に取り組んで来ましたから、気持ちを切り替えることができなかったのだと思います」


「倉持さんのようなケースは多いと思います」と日野さんが言うと、思い詰めたような顔で「うちの高校でもこれでバレーを辞めるって選手が多いねん。しゃーないとは思うけど、やっぱ寂しいよなあ……」と篠原さんが呟いた。


「努力して勝利などの結果を得る体験に教育的効果があることは間違いありませんが、スポーツの観点から言えば中高生レベルで燃え尽きるようなシステムが健全とは言い難いですね」


 日野さんの言葉に「練習し過ぎってこと?」と篠原さんが尋ねる。


「それもありますが、中高生レベルで全国大会は必要ないでしょう」


 篠原さんは驚きの表情を見せたが、私の方がより驚きを顔に出していただろう。


「F-SASの立ち上げに際し、スポーツ庁にもお伺いを立てたのですが権限等があまりなく、文科省だけで十分だと判断しました。部活のあり方は近年少しずつ改善しているようですが、なかなか遠い道のりですね……」


 話題を変えた日野さんに、「全国大会の話は?」と篠原さんが蒸し返す。


「ああ、地域リーグで十分じゃないですか。試合数を増やして多くの選手が活躍できる機会ができれば理想ですが」


 腕を組んで考え込んだ篠原さんに代わって私が「それだとトップの選手が成長しなくてオリンピックで勝てなくなるんじゃ?」と聞いた。


「オリンピックで勝つことが重要かどうかは分かりませんが……」と日野さんは苦笑してから、「日本のお家芸と言われる体操や柔道は有力な選手は一部の学校に集中していますし、競泳やウィンタースポーツは学校よりもクラブの影響が大きいんじゃないですか。部活動にスポーツエリートの育成まで任せるのは荷が重いですよ」と言葉を続けた。


 高校時代インターハイを目標にしてきた私からすれば、青春時代を全否定された気分になってしまう。


「甲子園の高校野球大会がなくならないのと同様に、インターハイがなくなる未来も想定はしにくいですけどね」と日野さんは肩をすくめる。


「うちは可恋ちゃんが言った全国大会廃止には賛成できへん。でも、なんで賛成できへんかはうまく言われへん。そやから、次、会う時までの宿題にさせて」


 篠原さんが悩ましげにそう話すと、日野さんはニッコリと微笑んでその提案を受け入れた。

 その様子を微笑ましく眺めていた鵜飼さんが口を開いた。


「焦らず地道に取り組んでいけば少しずつ良くなっていきます。最近も目に見える変化が次々と起きています。ただ、時代の変化とともに新しい問題も起きてしまいますが」


 それから日野さんが鵜飼さんに改善の取り組み方についてかなり突っ込んだ質問を繰り返した。

 彼女の何としてでも学ぼうという姿勢に、鵜飼さんも全力で応えている。

 私はその為になる会話に慌ててメモを取り始めたが、日野さんや篠原さんは凄い集中力で聞き入っていた。


 その後、部活動でのセクハラ・性被害を受けた時に声を上げられる環境作りについて話し合われた。

 日野さん曰く喫緊の課題であり、1秒でも早くどうにかしたいと眉間に皺を寄せていた。

 ホームページ上には匿名で相談できる窓口が設けられ、各都道府県の弁護士会とのサポート作りも進められている。

 それでも助けを求めて声を上げることは難しく、地道な啓発活動以外の即効性のある手法を探っていた。


 私は幸いにも部活動でそうした経験をしなかったが、電車内で痴漢に遭ったことは何度かある。

 手で払ったりはしたけど、捕まえたり、被害を訴えたりしたことはない。

 他にもパワハラやセクハラっぽいことをされても、このくらいで目くじらを立てるのは……なんて思ってしまって問題にしてこなかった。

 さすがにレイプされたら相手を訴えると思うが、その相手が信頼していた人だったら……。


「いじめもそうですが、その場を離れることが有効な対策になります。しかし、それをするには協力者が必要です。ひとりで動くことは非常に難しいと思います。戦うことは無理でも、逃げるための手助けを素早く相手の目線で行う。その実績を共有し、広めていくことで心理的ハードルを下げる。そんな感じでしょうか」


 日野さんのそんな言葉で会合が終わった。

 来年4月の法人化に合わせ、F-SASの登録人数も少しずつ増えている。

 とはいえ、女子学生アスリートの総数に比べたらごくごくわずかで、広報活動を始め取り組むべき課題は多い。


「君たちのような子が自由に活躍できる環境を作るのが大人の責務やね」と鵜飼さんが微笑んだ。


 あくまで主役は代表のふたりだと、一歩引いたところから助言をしていた。

 時に青くさい意見も出たが、ニコニコと微笑みを絶やさなかったのが印象的だった。


「うちももっと勉強せんと」と頭をかく篠原さんは、「メシに行く? あ、まだちょっと早いか。なら、ラーメンはどう? 別腹やろ?」と陽気に日野さんを誘い始めた。


「篠原さんって食事管理してないんですか? それでよくオリンピック日本代表候補になれましたね」


「ちゃんとやってるって。今日はチートデイやからええねんて」


 疑わしそうな視線を向ける日野さんに、「ほんまやて」と必死に取り繕う篠原さん。

 ふたりの漫才のような掛け合いに私は吹き出しそうになった。


「ほら、倉持さんも。鵜飼さんはどうですか?」と篠原さんが愛嬌を振りまくと、「そうね、私はラーメンよりケーキが食べたいわね。美味しいお店を紹介してよ」と鵜飼さんが言った。


「ケーキでしたら私のお勧めのお店があります!」と私ははしゃいだような声を上げてしまった。


「よーし、そこにしよう!」と篠原さんが笑顔で私の提案を受け入れてくれた。


 日野さんはすでに鵜飼さんを車椅子に乗せるために動き始めていて、もうケーキ屋に行くことが決まった雰囲気だった。

 年齢はバラバラな4人だけど、私は仲間に受け入れられたような気分になり、笑顔で退室の準備を始めたのだった。




††††† 登場人物紹介 †††††


倉持みどり・・・大手スポーツ用品メーカー入社3年目。営業を担当していたが、来年4月からF-SASへの出向が決まっている。現在、既にF-SASの関西スタッフとして従事している。ちなみに、退室に手間取り他の人たちを待たせたのはお約束。


日野可恋・・・中学2年生。F-SAS代表。女子アスリートのためのトレーニングのあり方や、生理や第二次性徴といった女性特有の問題とのつき合い方をサポートするNPOを立ち上げた。母親は女性問題の専門家として有名。


篠原アイリス・・・高校3年生。女子バレーボールの日本代表候補。父親がアメリカ人で母親が日本人。来年4月からはプロとしてVリーグのチームに所属する傍ら大学生として勉学に励む予定。


鵜飼雅美・・・50代で、パラスポーツの競技者。現在は第一線からは退いている。競技歴は長く、様々な競技に携わっていた。

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