第6話 令和元年5月12日(日)「母の日」日々木陽稲

 なんとなく甘い香りがする。


 目覚めると、わたしを覗き込む可恋の顔。吸い込まれるような彼女の黒い瞳に、一瞬まだ夢の中にいるような感覚になった。それを彼女の「おはよう」という言葉が現実に引き戻す。


「うーん、おはよう、可恋」


 朝が苦手という訳ではないけど、今日は普段以上に寝覚めがすっきりしている。この高級ベッドがなせる技なのか、夢も見ないほどぐっすり眠れたと思う。可恋は既にジャージ姿に着替えていた。ベッドサイドの目覚ましを見ると既に朝5時を回っていた。


「ごめん、寝過ごしたね」


 わたしは急いでベッドから出る。「慌てなくていいよ」と声を掛けられたが、支度にかかる時間を考えるとのんびりしてはいられない。顔を洗い、ジャージに着替え、日焼け止めを塗ってなんとか準備完了。髪は本当に軽くブラッシングしただけだが仕方ない。ゴムでまとめてごまかした。


 出がけに合鍵を預かる。昨日のうちに朝の段取りを決めておいた。可恋は「ひぃなと一緒に走りたいけど、他人とペースを合わせるのが苦手なの」と言っていたし、わたしも自分の走るペースの遅さは自覚している。たまに一緒に走るお姉ちゃんも走りにくそうにしているし、わたしも罪悪感を持ってしまう。そこで、純ちゃんの家まで可恋と一緒に行き、わたしは純ちゃんを起こしていつものようにふたりでジョギング。可恋は朝の稽古に向かう。道場での可恋の姿を見てみたいと言ったけど、「今度ね」と苦笑された。見学の許可を取っておいてくれるというし、稽古の邪魔になってはいけないので今は我慢。


 近くの公園でのジョギングが終わると純ちゃんと一緒に可恋のマンションに戻る。可恋のお母さんが出迎えてくれた。昨夜は会えなかったのでここでちゃんとご挨拶をする。「娘が増えたようで嬉しいわ」と気さくに笑ってくれた。シャワーを借りて、身支度を調えたら、可恋に教わった通りに朝食の準備をする。調理と呼べるものではなくパンを焼いたりするくらいだけど。可恋のお母さんも手伝ってくれて、3人で食卓を囲む。わたしは可恋を待つつもりだったけど、「お腹空いたでしょ。先に食べちゃおう」と言われて食欲に負けてしまった。


「私がこんなだから、あの子はひとりでなんでもしようとするし、それができちゃう。親としては無理してないか心配だけど、私には言わないしね。貴女のような良い子がそばにいてくれたら心強いわ」


 わたしは恐縮しながらも「頑張ります」と答えた。可恋と話すうちに支えてあげたいと思うようになった。特に連休明けからはその気持ちが強くなった。凛としてひとり佇む可恋がとても寂しそうに見えたから。無理していることを見せまいと可恋がすればするほど、わたしはちゃんと気付いているよと言ってあげたくなった。


 可恋のお母さんは朝食を食べながら可恋の子どもの頃のエピソードを話してくれた。そして、日曜なのに慌ただしく仕事に出掛けていった。それと入れ違うように可恋が帰ってきた。


 可恋はシャワーを浴び、それから朝食をとる。「先に食べちゃってごめんね」と謝ると、「いいよ。一緒にいてくれるだけで十分」と微笑み、「それで、母から余計なこと聞かなかった?」と聞いてくる。その顔が子どもっぽくてわたしは吹き出した。親が小さな頃の話を友だちにべらべら喋るのが嫌って気持ちは分かるけどね。


 純ちゃんはスイミングスクールに行き、可恋は掃除と洗濯をするというのでわたしも手伝う。「掃除は任せて!」と胸を張る。わたしが広いリビングを掃除していると、「洗濯だけだと楽でいいわ」と洗濯物を洗濯機に放り込んだ可恋がソファに寝転がって本を読み始めた。確かに、任せてって言ったけど。


 お風呂とトイレの掃除は、可恋はやらなくていいよと言ったけど、わたしも使ったのだからと気合いを込めてピカピカにした。その間、可恋は玄関や廊下、自分の部屋の掃除をしていた。合間に洗濯物を干したり、昼食の下ごしらえもしていたので、家事の手際はさすがに慣れているなあと思った。


 昼食のメインはお手製のハンバーグ。「母が好きだから、インターネットでいろいろ調べてこれに行き着いたの」という絶品もの。ソースの香りも食欲そそるし、切ると肉汁じゅわっと溢れるし、焼き加減も最適だし、お店で出せるレベルでしょと思ってしまった。


「うちもお父さんが頑張って作ってくれるけど、これはお世辞抜きに凄いね」


「ありがとう。ひぃなのご家族って料理が好きって伝わってくるから、満足してもらえるかちょっと心配だったけど、気に入ってもらえて良かった」とちょっぴり勝ち誇ったように笑う。でも、このハンバーグは病みつきになりそうな味だった。


 午後は他愛ないお喋りをしてずっと過ごした。この時間がずっと続けばいいのに。名残惜しい気持ちで胸がいっぱいになる。そんなわたしに可恋は「いつでも来ていいよ」と言って、頭をぽんぽんと叩いてくれた。。


「家まで送るけど、ちょっと寄り道していい?」と可恋が聞く。わたしが頷くと、「今日は母の日だから、プレゼントを買おうと思ってるんだけど、良いお店教えて欲しくて」と言った。


「何を贈るつもりなの?」


「アクセサリーがいいかなと思ってるの。予算はこれくらい」と財布からお札を出して教えてくれる。


「駅のちょっと先あたりに、個性的なアクセ売ってる店があるから、そこに行こうか」


 可恋のマンションを後にする。大きな鞄は可恋が持ってくれた。


「ひぃなは母の日のプレゼント、何にしたの?」


「わたしはスカーフ。この前可恋にブローチ贈ったけど、あれを買った時にお姉ちゃんと選んだの」


 わたしはひとつ疑問に思ったことを聞いてみた。


「可恋って何事も準備万端って感じなのに、当日までプレゼント買ってないってちょっと意外」


 可恋が頬を指でかいて、「そうなんだけど、なかなか決められなくて」と苦笑した。


「買いに行くタイミングがなかったってのもあるけど、プレゼントって唯一の正解がある訳じゃないから迷っちゃうのよ」


 感覚派のわたしとはこういうところも違うんだなと思う。ただ、買いに行くタイミングがなくなったのはわたしの責任だろう。可恋を夕食に呼んだり、わたしがお泊まりしたりで時間が取れなかったせいだ。


「プレゼント選び手伝うよ」と真剣な顔で言えば「頼りにしてる」と可恋はわたしにウインクした。

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