第27話 令和元年6月2日(日)「ひぃな」日野可恋

 目覚ましが鳴る直前に止める。

 朝5時。

 静かに上体を起こし、隣りに眠るひぃなを見る。

 あどけない寝顔。

 それを見ているだけで、自分の表情がほころぶのが分かる。


 ペットだなんて言うとひぃなは怒るだろうけど、子犬や子猫のような愛らしさがある。

 私にはペットは飼えないので、今だけそう思うことを許して欲しい。


 もちろん、ひぃなの魅力は外見だけではない。

 人の気持ちを察する能力、おそらくそれが彼女の卓越したコミュニケーションを支えている。

 ひぃなは他人の気持ちに寄り添い、気遣ってくれる。

 気負ったり、躊躇ったりすることなく、相手のためにすっと一歩を踏み出す勇気を持っている。

 そして、見返りを求めない。

 ひぃなにだって、欲や損得勘定がまったくない訳ではないだろう。

 それでも、私と比べるとそれは本当に些細なものだ。

 私には真似ができない。

 私は自分にメリットがないと動かないし、狷介で自己中心的。

 勉強や運動ができたところで、人間的な魅力ではひぃなの足下にも及ばない。

 ひぃなを見てると、眩しくて仕方がない。

 その太陽のような輝きを守ることが私の役割なんじゃないかと思うようになった。


 ひぃなを起こし、一日のルーティーンを始める。

 ひぃなと一緒の朝も4度目だ。

 もう母といるよりもストレスを感じなくなっている。

 母はいつも私を振り回すし、何かにつけて私を陥れようとする。

 ひぃなは言ったことはちゃんと分かってくれるし、分からないことはちゃんと聞いてくれる。

 名前で呼び合うようになってまだ1ヶ月も経たないというのに、ずっと前から一緒だったように感じてしまう。


 ひぃなを安藤さんの家まで送り、朝の稽古に向かう。

 稽古から帰れば、ひぃなと安藤さんが朝食の準備をして迎えてくれる。

 私はサッとシャワーを浴び、母がいないので3人で朝食を摂る。

 スイミングスクールへ行く安藤さんを送り出し、ひぃなと掃除洗濯といった家事をこなす。

 一段落したら、ダイニングでひぃなに数学を教えながら昼食の準備を始める。

 ひぃなの数学に対する苦手意識もかなり払拭されてきた。

 真面目に取り組んでいるので、期末テストが楽しみだ。


 お昼はアスパラガスの豚肉巻きをメインにして、いつもより彩りよく飾り立てる。

 スマホで撮影し、ひぃなのお姉さんに写真を送るためだ。

 ひぃなの健康促進のためには情報共有は欠かせない。


 ちょうど食べ終わった頃に母から電話があった。

 帰りが夜になるので、横浜で一緒に食事しようと言われた。


「陽稲ちゃんも一緒にどうかしら?」という母の言葉をひぃなに伝える。

 ひぃなは恐縮していたけど、滅多にない機会だからという私の言葉添えで承諾してくれた。

 私は母にお土産を忘れないように念を押す。


「荷物になるようなら、送ってもらって」


「大丈夫よ、大丈夫」


「ひぃなの家へのお土産なんだから、粗雑に扱わないように」


「分かってる、分かってる」


「返事は一回でいいから」


 事前に買ってきてもらうお土産のリストは渡してあるが、母の適当さが心配でならない。

 ケーキを買ってくると2回に1回はひっくり返して持って帰るような人だ。


 電話を切ると、ひぃなが「お土産なんて気を遣わなくてもいいのに」と言った。

 私は「いつも晩ご飯をご馳走になっているからバランスを取るだけよ」と説明した。


「一方的にお世話になっちゃうと心理的に負担になるでしょ? ひぃなが逆の立場だったら分かるよね?」


「でも、わたしは可恋からいろいろと教えてもらうばかりだよ」と反論される。


「金銭的な貸し借りと違って、精神的な貸し借りって難しいよね。例えば、教えてもらうことはメリットになるけど、教えることだって楽しいことじゃない?」


「それはそうだけど……」


「ひぃなが元気に笑っていることは私の喜びだから、そのための協力は惜しまない。ひぃなもそうでしょ?」


 私が微笑むと、ひぃなは納得してくれたようだ。


「相手が嫌なことや負担に思うことを無理にやってもらうっていうのなら、お返しが必要かもしれないけど、好きでやってることだから、ありがとうの言葉で十分じゃないかな」


「じゃあ、いっぱいありがとうって言うね」とひぃなが微笑む。

 その笑顔だけで十分だって思うよね。


「金銭的な話は、私とひぃなだけの話じゃないから、ある程度はバランスを取っておきたいのよ」


「可恋ってもしかしてお金の管理もしてるの?」


「最近はそうね。母の確定申告を手伝わされて苦労したから、もう母には任せていられないっていうか……」


 ひぃなは苦笑している。私も似たような顔だろう。


「じゃあ、お小遣いみたいなのはないんだ?」


「そうだね。生活費の中から必要なものを買う感じかな」


「欲しいものってないの?」


「うーん、いま欲しいものは……自転車とかトレーニングマシンとかかなあ」


「自転車は分かるけど、トレーニングマシンって?」


「スポーツジムなんかに置いてあるやつ。マシンがなくてもトレーニングはできるけど、あった方が効率的かなあって悩んでるのよね」


「それっていくらいらいなの?」


「安いのもあるんだけど、それならマシン使わなくてもって思っちゃうし……。高いのだと、そうね私の部屋のダブルベッドの倍くらいの値段かな」


 ひぃなが目を丸くする。

 ダブルベッドもかなりの高級品で、その値段を伝えた時は驚いていた。


「その辺は、父からの養育費が貯金としてあるから、買えないことはないんだけど」


「……お父さん?」


「そういえば言ってなかったね。両親は私が生まれるか生まれないかってタイミングで離婚したの。父とは小さい頃は何度か会ったけど、よく覚えてないわ」


 ひぃなは言葉を失っている。

 こういうデリケートな話は困るよね。


「父はたまにテレビに出たりするくらいの大学教授で、Wikipediaにも載ってるよ。母も今はそんな感じになったけどね。それで、Wikipediaに依ると、今は再婚して娘もいるみたい」


 私は明るくサラッと伝えた。

 重い話だが、ひぃなには伝えておきたかった。


「今でも養育費を律儀に送ってもらっていることには感謝してる。でも、特に会いたいと思わないし、ひぃなも気を遣わなくていいからね」


「可恋には義妹がいるんだね」


「みたいだね。向こうは知らないんじゃないかな」


「なんだか不思議な感じ」


 普通の家庭がどういうものなのか私は知らないけど、自分の両親の過去なんてそんなに教えられないのかなって思う。

 私の場合は調べれば比較的容易に分かる特殊な環境だ。

 義妹が私のことを知ればどう思うんだろう。


「ひぃなは妹、欲しい?」と振ると、「妹じゃないけど年下の従姉妹が札幌にいてね」とひぃなが話に乗ってくれる。

 それまでの空気が消え、ひぃなのにこやかな笑顔に私の心も和む。

 私はひぃなの言葉に相づちを打ちながら、考えても仕方がない義妹のことを頭から振り払った。

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