第540話 令和2年10月27日(火)「冬が間近に」日々木陽稲

 昨日まで元気そうだった可恋が朝ベッドから出て来ない。

 このところ穏やかな天候が続いていた。

 体調管理に人一倍どころか日本一気を使っていそうな彼女なのに、こんなことが往々にして起きる。


「風邪だと思う。いまのところ鼻水が止まらないだけかな。あと、少し身体が重い」と説明する声も鼻声だ。


 少し赤くなった鼻を見ながらわたしは「大丈夫?」と声を掛ける。

 免疫系の障害を持つ可恋にとって風邪やインフルエンザといった感染症は普通の人の何倍も危険だ。

 1年前と違い、本当にただの風邪かどうかも不安になる。

 しかし、わたしがオロオロしてしまうと可恋に余計な気を使わせてしまう。


「明日大学病院に行って検査かな。通常の検査は延期になるだろうけど。不覚を取ったって感じだね」と可恋は溜息を吐いた。


 こんな時わたしは何もできない。

 可恋はわたしが近くにいるだけで力をもらえると言ってくれる。

 病気の時に孤独だと気が滅入って元気になろうという活力が湧いてこない。

 そういうものだということはわたしにも理解できる。

 だから、わたしが側にいることに意味はあると信じている。

 それでももう少し何かできないかと思ってしまうのだ。


「私は大丈夫だから」と可恋は優しく微笑んだ。


 それはわたしに学校へ行くように促す言葉だ。

 わたしは「陽子先生と三谷先生、お母さんとお姉ちゃんに連絡しておくね。ちょっとでも何かあったらわたしにも知らせて。飛んで帰って来るから」と心配を口にしつつも彼女の言葉に従う意思を示した。


 こういう事態に備えて食料品や生活用品の備蓄は万全だ。

 むしろわたしがフラフラ動いてしまうと可恋を心配させることになる。

 わたしは小さい頃から家族や友だちに守られて過ごしているが、その経験から守られやすい行動をするように気をつけるようになった。

 特に重要なことは自分ひとりで突っ走らないことだ。

 守ってくれる人と常に連携を取り、勝手な行動を慎むこと。

 ファッションショーの企画などでは暴走することがあっても、守られることに関しては節度を保っている。


 わたしはもう少し眠るという可恋を部屋に残し、リビングへ行くと自分のスマホを取り出した。

 まだ早朝と呼ぶ時間だ。

 高校は時差登校のため開始時間が遅い。

 それでもお姉ちゃんは早起きしてジョギングや朝食作りに勤しんでいる。

 だから、電話にもすぐに出てくれた。


「おはよう、お姉ちゃん」


『どうしたの、ヒナ』


「可恋が風邪を引いたみたいで……。いまから迎えに来てくれる?」


 詳しいことは会ってから話せばいいと思い、用件を口にした。

 いつもは純ちゃんの家――自宅のすぐ近く――まで可恋と一緒に行く。

 朝のジョギングを休むかどうか迷ったが、ひとりで悶々としているより外を走った方が気分がすぐれるんじゃないかと考えた。

 そこで一緒に走るお姉ちゃんにここまで迎えに来てもらおうとしたのだ。


『うーん……、今日はわたしも走るのをやめておくよ』


「お姉ちゃんも風邪?」と驚いて大声を出してしまう。


 それに対して『いや……、体調は……。ちょっといろいろと……、今日は……』とお姉ちゃんはとても歯切れの悪い返答を続ける。

 このところお姉ちゃんの元気がなかったことには気づいていた。

 今月の初めにたまたまわたしが自宅に戻った時、お姉ちゃんがわたしの顔を見て泣き出したことがあった。

 詳しい理由を聞こうとしたがその時は「そのうち話す」と言われた。

 中学生や高校生になれば家族にも話せないことはひとつやふたつはあるものだ。

 可恋ならともかくわたしでは話を聞いてあげることしかでないだろう。

 だから、「話したくなったら言ってね」とその時はそれ以上追及しなかった。


 その後も晴れた日は一緒にジョギングをしていたので顔は合わせていた。

 わたしは文化祭のことや純ちゃんの進学問題に気を取られていた。

 しっかり者のお姉ちゃんのことだからきっと大丈夫だと信じて。


 わたしはスマホを手にどうしたらいいか思い悩んだ。

 一刻も早く自宅に戻り、お姉ちゃんの話を聞いてあげたい。

 わたしは対面でなら相手の考えを高い精度で読み取ることができる。

 逆に電話や文字でのやり取りだとそれができずに困惑してしまう。

 しかし、わたしはずっとひとりで外を歩くなと言われて育った。

 とても過保護な話だが、非力で目立つ外見をしたわたしは危険性の高さを言われ続けた。

 特に、可恋から。


 ……どうしよう。


 お姉ちゃんには何度も来て欲しいと頼んだが、最後は電話を切られてしまった。

 純ちゃんはなかなか起きない上に、スマホを鞄に入れっぱなしにしていることが多く、電話に出ない可能性が高い。

 お母さんに電話するしかないか……。

 大ごとになってしまいそうで、その手は避けたかった。

 これが恋愛問題だったとしたら、親にバレれば良い気はしないよね。


 わたしが途方に暮れていると、ドアが開く音がした。

 振り向くと可恋が立っていた。

 立ったままだったわたしを見て、「どうかしたの?」と尋ねる。

 何と言えばいいだろうと逡巡するわたしに、「話してくれないと気になって眠れなくなる。私の健康のためにすべて話して」と可恋は言った。

 ちょっとズルい論法だが、肩の荷が下りた気持ちになったのは事実だ。


 一通り話を聞いた可恋は「まずは落ち着こう」とキッチンに向かった。

 お湯を沸かしていつものように紅茶を淹れてくれる。

 本当に不思議だ。

 この嗅ぎ慣れた香りを前にすると、スーッと心が落ち着いていく。


「話を聞いた限りだと、そんなに焦る必要はないと思うんだけど」


「ここ最近のお姉ちゃんの態度と結びつけて急に心配になったの。あと、お姉ちゃんなら自分で乗り越えると思ってちゃんと向き合っていなかったかも……」


「なるほど。贖罪の気持ちが焦りを増幅したんだね」と可恋は紅茶を口に含んでから話す。


 いつもより紅茶を鼻に近づける回数が多いのは自分の嗅覚を確かめるためだろう。

 わたしは可恋より猫舌なのでまだ口をつけない。


「華菜さんには夕方来てもらおう」と可恋は言った。


 その口調はまるで決定事項を述べる時のようだ。

 可恋のことだからまた悪辣な……もとい、知略に富んだ策を弄すのだろう。

 こういう時の彼女は生き生きと元気そうに見えるから困ったものだ。


 お膳立ては可恋に任せることにした。

 でも、話を聞くのはわたしがする。

 可恋に頼ってばかりではいけない。

 ましてやいまは体調不良なのだから。

 それにわたしはお姉ちゃんの妹なのだし……。


「ところで、朝のジョギングはどうしよう?」と少し冷めた紅茶を飲みながらわたしは小首を傾げた。


 可恋は自分のスマホ画面を見ると、何度かタッチする。

 そして、口元に運ぶと「あ、都古ちゃん。大至急、うちまで来てくれる? ……そう。よろしく」と言って電話を切った。


「いいの? あれで」と問うと、「文化祭で会った時に身体が鈍ってきたって言ってたから大丈夫でしょ」と可恋は事もなげに答えた。


「それよりも急いで支度しないとすぐに来るんじゃないかな」と可恋は微笑む。


 確かに呼びつけておいて待たせたら悪い。

 わたしは急いで立ち上がった。

 憂鬱な未来について思い悩むよりも慌ただしく行動していた方がいい。

 これも可恋の計略かなと思いつつ、わたしは椅子に座ったままの彼女の穏やかな微笑みを目に焼き付けた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学3年生。非力で体力もないが意外と寒さには強い。これもロシア系の血のお蔭なのかと思っている。現在可恋とふたりで暮らしている。


日野可恋・・・中学3年生。体調を崩しやすく治りにくい。冬になると特にそれが顕著になる。ただし、寒いのが嫌いなので体質を口実にすることも。


日々木華菜・・・高校2年生。陽稲の実姉。妹をヒナと呼び、シスコンと言われるほど普段は可愛がっている。趣味は料理で、自宅はもちろん可恋の家でも腕を振るうことが多い。


安藤純・・・中学3年生。陽稲の幼なじみ。競泳の選手で次代のホープ。


宇野都古・・・中学3年生。陽稲や可恋のクラスメイト。陽稲とは1年も同じクラスで仲が良かった。陸上部に所属していて、その成績で高校の推薦が決まっている。

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