第612話 令和3年1月7日(木)「変わらぬ日常」日野可恋
夕刻、ひぃなが不安そうな表情でテレビに見入っていた。
画面では首相が新型コロナウイルスに対して2度目となる緊急事態を宣言している。
「できたよ。食べようか」と私が声を掛けると、振り向いたひぃなはうんと頷きテレビを消した。
ひぃなはとことこと歩いて来ると何も言わずに私にギュッとしがみついた。
一昨日ここに戻って来てから何度か見られる現象だ。
最初は1週間離れて過ごしていたことで感じた寂しさを埋め合わせる目的かと思った。
だが、落ち着いて観察すると、入院しているお母さんのことや新規感染者数急増で抱く不安がこういう行動に繋がっているのだと気づいた。
私は安心させるように彼女の細い肩に手を置く。
「顔を洗ってきてから手伝うね」とひぃなは伏し目がちに言って洗面所へ向かった。
私はその背中を見送ってからキッチンへ行く。
今日は1月7日なので七草がゆをメインに魚の煮付けやすまし汁など和食の献立にした。
本来は朝食べるものだが、午後にひぃなの姉の華菜さんが持って来てくれたので夕食で出すことにしたのだ。
普段はこういった風習に無頓着なので、七草がゆを作ったのも初めてだったりする。
華菜さんに教わったばかりのレシピはまずまずの結果をもたらしたようだ。
ひぃなを待っていると、彼女は顔を洗うだけでなく着替えてからやって来た。
彼女の場合外出しなくてもいつも着飾った服装をしている。
今日はカシミアのセーターにニットのスカートという装いだったが、いまは淡い色合いのパープルのドレスになっていた。
和食とはかなりミスマッチだが、献立を知った上で着替えて来ているのだから彼女なりの意図があるのだろう。
ひぃなはファッションはもっとも重要な自己表現だと常日頃語っている。
すぐには彼女の思いを読み取れないが、話していくうちに分かりたいものだ。
ひぃなはエプロンをつけて食事の支度を手伝ってくれた。
その顔に先ほどのような不安や動揺は見られない。
以前と比べて内面を見せない術も長けてきた。
意図的に見せようとしなければ私でも簡単にはうかがい知ることができなくなった。
「明日から学校だね」
4人掛けのテーブルの対角に座るひぃなに私から話題を振った。
一緒に暮らす以上感染に気をつけるにも限界はある。
私はそこまでしなくてもいいと言ったが、最近はひぃなの方が神経質になっている。
「行っても大丈夫かな」
中学3年生は高校受験が間近に迫っているので感染を心配している人も多いだろう。
3学期は欠席する生徒が間違いなく増えるはずだ。
「欠席が多いと密の場面が減って安心できるんじゃない? ただ寒そうだから温かくしておかないとね」
私もひぃなも推薦での進学が決まっている。
私は免疫系の障害という体質のために昨年の一斉休校以降学校を休み続けているが、ひぃなは学級委員としてクラスメイトの力添えをしていた。
友だちも多いので学校に行きたい気持ちは強いだろうが、ウィルスをこの家に持ち込みたくないという思いもあるに違いない。
そうした葛藤が彼女の顔を曇らせていた。
「リスクはゼロにはならないけど、しっかり対策をしていれば大丈夫だよ」
私はそう言って微笑むが、ひぃなは納得しがたいという表情だ。
対策をして感染しないのであれば私だって学校に行くことができる。
その矛盾を指摘されるかと思ったが、彼女は思いを飲み込むような顔で「そうだね」と頷いた。
「可恋は……」
ひぃなはそこまで言って視線を落とす。
私は無理に続きを促さず、黙々と食事を進める。
七草がゆは食べ応えという点で物足りなさを感じた。
夜にメインで食べるものではないと結論づける。
「可恋は、怖くないの?」
食事の手を止めていたひぃなが振り絞るようにそう尋ねた。
私はこの生まれながらの体質のせいで何度も生死の境を彷徨った。
そのため”生”や”死”に関する感覚が普通の中学生とは異なっている。
ひぃなと出会って以来、折りに触れてこういう話を積み上げてきた。
「私の場合、コロナだけが怖い訳じゃないからね。今冬はインフルエンザが激減しているみたいだし、無理をして学校に行く必要がなくなったのでむしろ例年よりも快適に過ごしているよ」
寒いと体調が悪化しやすいという理由でこれまでも冬場は欠席することが多かった。
それをずる休みのように思われたところで胸が痛くなることはないが、理解されやすい状況になったのは確かだ。
「でも、コロナのせいでできないことも増えたんじゃない?」
「それはみんな一緒でしょ。初めからできない可能性を考慮している分、私の方が受けたダメージは小さいかもしれないよ」
どんな予定も自分の体調の悪化は織り込んで立てる必要があった。
天候や様々な事情に左右されやすいのも昔からだ。
むしろ私の常識が世間の常識になった感さえある。
「ひぃなが不安になるのは当然だよ。お母さんのこともあるしね。ただ私は緊急事態宣言が発出されてもそんなにリスクが高まる訳じゃないから、あまり気にしないようにしているよ」
もちろん、これで生活に大きな影響を受ける人もたくさんいるだろう。
生徒の中にも家庭の経済状態が悪化したり、家の中の空気が悪くなったりと無関係ではいられない者も少なくないはずだ。
とはいえ嘆いていても何も変わらない。
できることは感染対策をよりしっかり行いながら経済を回すことくらいだ。
「1日1日を健康で憂いなく生きられることはとても貴重なことなんだ。それを心に刻んで、時間を大切に思って過ごしていくことが大事なんじゃないかな。どんな時であっても」
私は二十歳まで生きられないだろうと言われたことがある。
それを否定してくれるお医者さんは大勢いるが、呪いのようにその言葉は私の脳裏に焼き付いている。
だが、その言葉のお蔭で私は1分1秒たりとも無駄にしないように生きようと思った。
もちろんそれを完璧に果たせているとは思わないが、他人よりも濃密な日々を送ることができていると自負している。
「可恋はずっとこんな不安の中で生きてきたんだね」
「幸い神様はひぃなと巡り合わせてくれた。だから、十分バランスは取れているんだよ」
そこは感動に打ち震えるところだろうと思ったのに、ひぃなは眉間に皺を寄せた。
黙り込んだひぃなを横目に、食事を終えた私はキッチンへ食器を運ぶ。
プロテインバーを片手に戻ると、彼女は冷めたかゆをせっせと口に運んでいた。
「温め直そうか?」
「もう少しだから平気」
私は緑茶を2杯淹れ、ひとつをひぃなに差し出す。
受け取った彼女はちょうど食べ終わったところだった。
ふーふーっと熱いお茶に息を吹きかけるのを眺めながら、私は「そのドレスはどんな決意の表れ?」と尋ねた。
舐める程度お茶を飲んだひぃなは「決意ってほどじゃないけど……」と口を開く。
そして、「わたしにとってドレスは戦闘服だから」と説明する。
ここで「私が守るからひぃなは戦わなくていい」と言えば、彼女は嬉しそうな顔をするかもしれない。
しかし、それは彼女が望む言葉ではないだろう。
「ひぃなのことは共に戦う同志だと思っているよ。ふたりならどんな困難だって乗り越えられるから」
私が力強くそう言うと、ひぃなは満足そうに微笑んだ。
きっと強くなりたいと望む者だけが強くなれる。
彼女は強くなろうと足掻いている。
その歩みは遅くとも前に進む足取りには迷いがない。
私は神様に感謝する。
ひぃなと出逢えたことに。
彼女は出逢えたことだけでなく私の力になるといったもっと高い望みを持っているのだろうが、私にとってはこの出逢いこそが神様からの贈り物だった。
それは私の命よりも大切な特別のもの。
言葉には出さず心の中で「必ず守るよ」と私は誓った。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学3年生。英語でトレーニング理論の論文を発表するほどの頭脳の持ち主。空手・形の選手で大会不出場ながらその実力は全国トップレベルだと言われている。NPO法人F-SASの代表を務め、オンラインでその運営に当たっている。
日々木陽稲・・・中学3年生。ロシア系の血を引く日本人離れした美少女。しかし、モデルではなくファッションデザイナーを目指している。昨年の一斉休校以降可恋のマンションでふたり暮らしを続けている。
日々木華菜・・・高校2年生。陽稲の実姉だが容姿は似ていない。料理が趣味。可恋の家の買い出しの手伝いも行っている。
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