第305話 令和2年3月6日(金)「風邪」原田朱雀

 事の起こりは先週の木曜日だ。

 学校を牛耳る魔王との対決に意気揚々と向かって返り討ちにあった。

 その夜、お風呂上がりに悪寒がして、喉が痛くなり、鼻水が止まらなくなった。


 ……風邪だよね。


 新型コロナウイルスが騒がれている。

 ここ神奈川では感染者も多く出ている。

 もしかしたら……という気持ちが頭の片隅にあった。


 ただ、あたしは小さな頃はひ弱でよく風邪を引いていた。

 いまもひと冬に一度は風邪で学校を休む。

 この冬は特に体調を崩すことなく過ごせていたのに、暦が春に切り替わるタイミングで風邪を引いてしまったのだろうと思った。


 本当は金曜日から休むべきだったが、突然一斉休校の話が出てきた。

 教科書の一部は学校に置いたままだし、それ以上に手芸部で作りかけのものが大量に学校に置いてあった。

 ひとりでは1日で持って帰れるかどうかも怪しい量だ。

 ちーちゃんに頼むにしても彼女も同じくらいの荷物があるはずだから、さすがに心苦しい。

 このまま3学期が終わってしまうかもしれない。

 咳やくしゃみがないので、わたしはマスクをして登校した。


 あらかじめちーちゃんに連絡しておいたので、登校中は誰とも濃厚接触はせずに済んだと思う。

 熱があるといっても微熱程度だし、喉の痛みと鼻水以外の症状は出ていなかった。

 ちーちゃんは心配そうにしていたが、よくある風邪だからとあたしは軽く考えていた。


 土日はおとなしく家でじっとしていた。

 その間、お母さんが甲斐甲斐しく世話をしてくれた。

 お母さんに移さないか心配だったけど、あたしひとりじゃ何もできない。

 カップ麺を作るくらいならできても、料理なんてさっぱりだ。

 手芸は好きだが、それ以外の家事はほぼお母さん任せにしてきた。


 お母さんは金曜日や週明けの月曜日にあたしを病院に連れて行こうとしたが、お父さんが反対した。

 熱も病状もたいしたことがないのだからと。

 それにいまは病院での感染の方が怖いと言ってお母さんを説得した。


 実際、月曜日には平熱近くになり、元気を取り戻したような感じだった。

 しかし、インフルエンザだって治ってもすぐは感染の危険があると言うし、ちーちゃんを家に呼ぶのは止めて、LINEでのやり取りだけに留めておいた。


 たぶんただの風邪だと思う。

 だが、ごくわずかの確率で新型コロナウイルスかもしれない。

 絶対に違うとは言い切れない。

 火曜日水曜日頃は不安よりもいつ大丈夫だと判断すればいいか迷っていた。

 熱はほぼ平熱だし、症状も鼻づまりが少し残る程度。

 報道を見ていると新型コロナウイルスだと2週間は様子を見ないといけないと言うが、咳が出ていないしそこまで大げさにしなくてもと思っていた。


 外に出られないことをストレスに感じることはないが、ちーちゃんに会えないことは大きなストレスになっていた。

 例年であれば土日はともかく他は普通にちーちゃんに会っていただろう。

 そもそも学校を休むほどだったとも思わない。

 ちょっとした鼻風邪と思って終わりだ。


 もういいかと思い始めていた矢先の昨日の木曜日に咳が出始めた。

 咳をするたびに新型コロナウイルスではないかという不安が頭をよぎる。

 鼻風邪からスタートして咳が出ることなんてよくあると頭では分かっていても、心のどこかに恐怖が宿る。

 もし本当に新型コロナウイルスだったらと……。


 そして、昨夜。

 ベッドに入ってから咳が止まらなくなった。

 1年に1度はこんな体験をしているというのに、どうしよう、どうしようという思いが頭の中を駆け巡った。

 平熱まで下がっていた熱は37℃を越え、息苦しさを覚えるようになった。


 咳は体力を奪う。

 体力がある方ではないあたしは、すぐにぐったりしてしまう。

 あばら骨の下の方が痛くなり、気力も奪い取られていった。


 新型コロナウイルスだったらという心配が苦しみに拍車をかけた。

 きっとお母さんにも移しているだろう。

 お母さんはまだ若いし持病もないので大丈夫だとは思うけど、それでももし重症になったら……。

 自分のことも家族のことも心配で心配で悪夢に苛まれるようだった。


 今朝は思い切り寝過ごし、目覚めたのはお昼だった。

 熱はほんの少し下がり、咳は出るものの寝る前の激しさは収まっていた。


 あたしがトイレに行くと、それに気付いたお母さんが「よく寝たわね」と声を掛けてきた。

 その明るい声があたしの癇に障った。

 あたしがあんなに苦しい思いをしたのに、何も分かってくれていない。

 八つ当たりなのに、怒りが込み上げてきた。

 でも、言葉が出て来ない。

 喉の奥がいがらっぽく、ずっと痰が絡んでいるような感じだった。

 話す体力も気力もそげ落ちていた。

 あたしは黙ってトイレに入った。


「どう? お昼食べられる?」とトイレから出て来たあたしに少し心配そうにお母さんが尋ねた。


 正直、あまりお腹は空いていない。

 しかし、体力が落ちている自覚がある以上少しでも食べておくべきだと思った。

 あたしがうんと頷くと、お母さんは「すぐに作るわね」と台所へ向かった。

 丹念に手を洗い、あたしは自分の部屋に戻る。


 家の中でもマスクをした方がいいのだろうが、あたしはマスクは好きじゃない。

 なんとなく息苦しさを感じてしまうからだ。

 普段、学校へ行く時もマスクをしないことの方が多かった。

 それにいまは我が家のマスクの在庫が少ない。

 サラリーマンのお父さんとパートで働くお母さんは外出の時にマスクを付けている。

 お母さんは要領が悪いところがあって、マスクをうまく買えないようだった。


 できたことを告げに来たお母さんに昨夜のことを話した。

 そして、昼食は自分の部屋でひとりで食べると言った。

 いまさら遅いかもしれないが、少しでも対策をしておきたかった。


 昼食をなんとか胃袋に収めたあと、お母さんが食器を取りに来てくれた。

 そこで、病院に行くかどうか聞かれた。

 小学生の時だったら、あたしの意思を問わずに「行くわよ」と言われただろう。

 それか、お母さんも不安なのかもしれない。

 お父さんが言ったように病院で新型コロナウイルスを移される危険はないとは言えない。

 いまの体調なら簡単に感染してしまいそうだ。


「もう少し様子見ようかな」


 あたしは本当は臆病な人間だ。

 猪突猛進なんて言われるが、それはちーちゃんが側についていてくれるから。

 あたしひとりでは前へ一歩踏み出す勇気がわかない。


 たぶん大げさに怖がっているだけなのだろうと思う。

 ただの風邪なのにオーバーすぎると笑われるかもしれない。

 検査を受けて早く白黒つけて楽になりたいと思ったりもする。


『ちーちゃん、怖いよ……』


 あたしはこの世でただひとり本心を打ち明けられる友へメッセージを送った。




††††† 登場人物紹介 †††††


原田朱雀・・・中学1年生。手芸部部長。猪突猛進、思いついたら即実行というキャラで知られている。


鳥居千種・・・中学1年生。手芸部副部長。朱雀の幼なじみ。愛称はちーちゃん。

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