第523話 令和2年10月10日(土)「常識」久藤亜砂美

 またあの女から着信があった。

 私を産んだというだけで母親だと勘違いをしているあの女から。


 ブラックリストに入れていても履歴は残る。

 それを確認することも日課のひとつだった。

 私が出ないと分かっていても向こうは平然と掛けてくる。

 その頻度は秋になって増えてきた。

 金が尽きたのか男と別れたのか、はたまたその両方なのか。


 私は睨むように見ていたスマホの画面から顔を上げる。

 試験開けの休日は台風のせいで台無しになった。

 台風が来なければ学校で文化祭の準備をする予定だったから”台無し”は言い過ぎかもしれないが、家から出られずに鬱々と過ごすよりはマシだろう。

 ハルカと一緒にいるだけで気晴らしになる。


 家にいれば家事と勉強だけで一日が過ぎていく。

 昔の暮らしに比べれば天国のようなところだが、失った自由を渇望してしまう時はあった。

 人間とはなんと強欲なのだろう。


 雨に、寒さに、あの女からの着信にと気が滅入ることが続いて不快に顔が歪む。

 お祖母様や近藤さんの前では表情に出さないよう気をつけているだけに、貴重なひとりの時間くらいは感情を出さないと持たない。

 お祖母様は現在お祖父様の相手をされている。

 ほかの家事は手伝わされるがそれだけはお祖母様がひとりで行っている。

 近藤さんは勉強中だ。

 県下一の進学校と言うだけあって優秀な彼女ですら予習復習を徹底しないと授業についていくのが大変らしい。

 それでも勉強が一段落すれば私のところに来るだろう。

 それまでのひとときだけが私の自由時間だ。


 ボロアパートに住んでいた頃はこんな時に近くのコンビニまで行って時間を潰していた。

 お金がなくて立ち読みでもするかハルカとダベるくらいしかできなかったがそういう自由はいまはない。

 外出するにはお祖母様の許可が必要であり、それを得るにはそれ相応の理由が必要だった。

 それに、ひとりで出歩くのはヤバいかもしれないという思いもあった。


 あの女にとって私は金づるだ。

 連絡をしてくることからも分かる通り、とても縁が切れたとは思えない。

 お祖母様はまとまったお金を渡して終わったことだと考えているようだ。

 近藤さんは何かあれば警察を呼べばいいと軽く考えている。

 おそらく私とは常識が違うのだろう。

 私のような底辺にいた人間にとって警察は当てにならない存在だ。

 少々のトラブル程度では民事不介入の原則を盾に助けてくれないというイメージが強い。

 まともではない――あの女のように警察ですら利用しようとするずる賢い――人間相手にまともに取り合おうとしたくない気持ちは分からなくもないが……。


 この家に来て、常識の違いは様々なところで感じる。

 それは勉強ができるできないなどは関係ない。

 単純に生きる世界が違うのだ。

 私はあの女やハルカから普通ではあり得ないような人たちの話を聞いている。

 普通の人にとってアウトローの存在は一生関わることのない遠い世界の出来事だと思っているかもしれない。

 だが、現実にはすぐそばで生息している。

 たまたま目に入っていないだけだ。


 女というだけで見境なく手を出す男や女を暴力的に支配する男の話。

 男たちを手玉に取った女や友だちを次々と風俗に沈めていった女の末路など裏社会の悲惨なストーリーは腐るほど耳にした。

 そういう輩に出会う確率は低いかもしれないがゼロではない。

 リスクを恐れすぎてもいけないが、まったくの不用心では被害に遭っても自業自得に見えてしまう。


 人の気配がして、私の部屋の扉がスッと開いた。

 不機嫌そうな顔をした近藤さんがそこに立っていた。


「勉強は終わったのですか?」と尋ねると、「息抜きよ」と答えて部屋に入ってくる。


 彼女は私のベッドに腰掛けた。

 私も椅子から立ち上がり、彼女の隣りに腰掛ける。

 近藤さんはお祖母様に文句を言われても最近は部屋着としてスウェットの上下を着込んでいる。

 この方が勉強がしやすいと主張してお祖母様の小言を受け流していた。

 私はお祖母様に言われるままにブラウスとスカート、上にカーディガンを羽織る質素な服装だ。

 少し肌寒かったのでこうして肩を寄せ合うとホッとする。


 もうすぐ夕方だ。

 雨が止みそうにないので、今日はお祖母様の買い物につき合うことになるだろう。

 お祖母様の準備が整えば呼びに来るはずだ。

 だから、近藤さんにこれ以上近づくことはできない。


「質問してもいいですか?」と私は口を開いた。


 近藤さんからは特に話はなさそうだったし、聞いてみたいことがあったのだ。

 彼女は視線で続きを促した。


「お姉様やお祖母様は、外食はなさらないのですか?」


「どうして?」と近藤さんが不審げな顔をする。


「ちょうどキャンペーンが行われていますし、お礼の機会ができればと……」


 真剣に答えたのに鼻で笑われた。

 ムッとする気持ちを鉄の意志で隠す。


「バカね。お礼と言ったってあの女の金じゃない。学生のうちはそんなことを考えるより勉強しろと言われるだけよ」


 近藤さんにとっての「あの女」とはお祖母様のことだ。

 確かに私の小遣いはお祖母様から与えてもらったものだからお礼と言っても気持ちだけになってしまう。


「それはそうですが……」


「お祖父様が元気な頃は法事などのあとに行ったこともあるけれど、最近は外食なんてまったく行かないわね」


 国の施策を悪用することが錬金術などと称されている。

 あの女なら喜んで飛びついていそうだ。

 このところ頻繁に電話を掛けてくるのはそういうことを手伝わせようと思ってのことかもしれない。

 もちろん、この家の人たちのようなまともな人が犯罪まがいの裏技をすることはないだろう。

 私の少ない小遣いではたいしたものは食べられないがこの機会ならと考えたのだがどうやら歓迎されないようだ。


「気持ちだけでもと思ったのですが……」と言い掛けたところでまた私の部屋の扉が開いた。


 お祖父様や近藤さんなら廊下に人の気配がするものだが、お祖母様は分からないことがあって心臓に悪い。

 いまもそうだった。

 小声で話していたので廊下まで聞こえてはいないと思うが、お祖母様の表情からは聞いたかどうかまったくうかがえない。

 近藤さんも少し驚いた顔をして私との距離を取った。


 私は慌てることなく優雅に立ち上がり「準備はできています」とお祖母様の顔を見つめる。

 皺が刻まれたその顔は凛としている。

 彼女は近藤さんを一瞥したあとで「行きましょう」とよく通る声で言った。

 私は近藤さんに「行って参ります」と目礼してお祖母様のあとを追う。

 寒々とした廊下を和服姿で音を立てずに歩くお祖母様の姿は、私とも近藤さんとも違う常識を生きているように感じられた。




††††† 登場人物紹介 †††††


久藤亜砂美・・・中学2年生。生徒会役員。離婚した母親に引き取られてボロアパートで貧困生活を送っていたが、今年2月に身の危険を感じたところで近藤家に引き取られた。


近藤未来・・・高校1年生。両親の離婚をきっかけに幼少期より祖父母宅で暮らしている。特に祖母への反発は強く、一刻も早く家を出るために勉強に打ち込んでいる。


小西遥・・・中学2年生。亜砂美の親友。不良として名が知られている。亜砂美の母親も彼女の危険性は知っており、彼女と一緒にいる時は安全だと亜砂美は考えている。ただお祖母様とハルカを接触させたくないため自宅前まで送ってもらうことはしていない。


原田朱雀・・・中学2年生。手芸部部長。文化祭で開催するファッションショーのプロデューサー役。亜砂美とは1年の時のクラスメイトで互いに相手を良く思っていない。

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