第662話 令和3年2月26日(金)「変化の1年」久藤亜砂美

「久藤さん、変わったね」


 彼女は唐突にそう言った。

 私は何と答えるか迷う。

 その口振りに揶揄する意図は見えず、素直に思ったことを口にしただけだと分かったからだ。


「そうかもしれないけど、今回の件はあくまでケジメだから」


 変わったという自覚はあるので否定はしない。

 近藤家に引き取られてちょうど1年になる。

 生活は一変した。

 ボロアパートでの貧乏暮らし。

 時折帰ってくるあの女は災いをもたらす存在だった。

 それでもソイツに頼らなければ生きていけない。

 あの壮絶な暮らしが破綻するのは時間の問題だった。


 近藤さんという私を救ってくれる人がいたから、そしてお祖母様がまったく他人の私を引き取ってくれたから、いまの自分がある。

 あのまま母の元にいたら売春をさせられていたかもしれない。

 少なくとも路頭に迷っていただろう。

 引き取ってもらえなかったら施設行きだった。

 どちらであっても、まともに学校に通ってはいられなかったはずだ。


 教室の中で女王のように振る舞う態度は変わっていないが、家でのストレスを発散する必要はなくなった。

 お祖母様は厳しい方だが、あのボロアパートという地獄に比べればいまは天国のような環境にさえ思える。

 暑さ寒さに必死に耐えることも、空腹にのたうち回ることもなくなった。

 何より四六時中身の危険を警戒せずに済むことがどれほど幸せなことか。


「彼女が生徒会長に就任したのは私のせいだしね。4月からは生徒会に関わる気がないので、いまのうちに引き継いでおこうと思っただけよ」


 今日で学年末テストが終わり、ホームルームのあと私は隣りのクラスに向かった。

 幸い目当ての相手はまだ教室にいた。

 私は真っ直ぐ彼女の元に歩を進める。

 その気配を察して原田さんは鳥居さんたちを先に家庭科室に向かわせひとり残った。

 そして、こうして差し向かいで私の話を聞いている。


 話の内容は現在の生徒会長についてだった。

 生徒会長選挙に立候補したふたりが揃って会長の座を辞退するという非常事態に陥り、田中さんは前生徒会長の任命という形で就任した。

 立候補をした私はまさに当事者で、結果的に彼女に生徒会長を押しつけることとなった。

 新1年生が入学してくる4月まで私が生徒会の仕事を続けるという条件で引き受けてもらった経緯がある。


 しかし、12月に生徒会長となった彼女は自分に自信を持つことができないでいた。

 優秀だった前任や彼女の周囲にいる人物――鈴木さん、私、原田さんといった面々――と比べて自分が生徒会長に相応しいと思えないようだ。

 私から見れば生徒会長の仕事なんて誰にでもできる。

 役割以上のことをしようと思わなければ。


 問題は何らかの実績を作りたいと思ってしまった時だ。

 彼女は自信がないので余計にそういうものを求めてしまう可能性があった。

 親友である鈴木さんが諫めてくれればいいが、彼女もまた危うい面を持ち合わせている。

 そこで今後も生徒会と関わりを持ち続けそうな原田さんにあとを頼むことにした。


「七海ちゃんは真面目すぎるからね。分かった。気をつけておくよ」


 快く引き受けてくれた原田さんを見て、「貴女も随分変わったと思うわ」と呟いた。

 1年の時の彼女の印象はただ目障りやヤツだった。

 力もないくせに正義感ぶった態度が気に入らなかった。

 それがいまや2年生の中でもっとも影響力を持った人物となっている。


「そうかなあ。よく言われるけど自分じゃ分かんないね」と原田さんは自分の後頭部に手を当てた。


 自分を飾らない点が彼女の魅力なのだろう。

 計算高い私は周囲の視線に人一倍敏感だが、原田さんは他人の目をあまり気にしていないように見える。

 人にどう見られるか、自分をどう見せるかではなく、やりたいことにただひたすら邁進する。

 その突破力には否応なく周囲の人間も巻き込まれていく。


 彼女と手を組んで何かやれば面白いことができそうだ。

 そんな夢想が頭をよぎるが、いまのこの距離を縮めようとはお互いに考えていないだろう。

 彼女には鳥居さんたちがいて、私にはハルカや近藤さんがいる。

 そういう人間関係を越えてまでやりたいことがいまの私にはない。


 卒業式に関する打ち合わせを少ししてから教室を出ると、廊下でハルカが待っていてくれた。

 私が「待った?」と聞くと彼女は仏頂面で「少しな」と答える。


「午後、どうする?」「アサミ次第」


「じゃあ今日はお祖母様のお手伝いをするわ」と言えば、ハルカは「分かった」と軽く頷く。


「今日も行くの?」と笑いながら尋ねると、「まあな」と彼女は横を向いて答えた。


 生徒会は原田さんに頼まれたマスクケース作り以外はたいして仕事がない。

 卒業式の準備は滞りなく進んでいるし、その後の引き継ぎも万事順調だ。

 私はマスクケース作りには直接関与していないので、無理に学校に残る必要はなかった。

 そこで今日の内に家事のお手伝いをして、土日は近藤さんから勉強を教わる時間を確保したいと考えた。


 ハルカと過ごす時間は貴重だが、彼女も最近は空手道場に通う時間が増えている。

 一斉休校の時からだから、彼女の空手歴ももうすぐ1年となる。

 歳下でも空手をずっとやって来た子には勝てないと嘆いていたのでこんなに長く続くとは思わなかった。

 打ち込めるものが見つかったことは彼女にとって良いことなのだろうが、私から離れていくようで少し寂しくもあった。


 どんよりとした雲の下を歩き、家にたどり着く。

 近藤の家は古くて広い。

 引き取られてすぐは毎日毎日掃除をするだけで1日が終わっていた。

 このままここの掃除をするだけで一生を終えてしまうのではないかと思ったほどだ。

 だが、1年も経てば慣れる。

 効率的になったし、言ってはなんだが手の抜き方も覚えた。

 ボロアパート暮らしでは碌に掃除をしたことがなかった。

 そんな私がここに来て掃除の大切さを学んだ。

 整理整頓された環境では心が落ち着く。

 ひとつひとつの物を丁寧に扱うことも教わった。

 そういう生活の根幹に関わることが劇的に変化し、私という人間をも変えたのだろう。


「お帰りなさいませ、お姉様」「ただいま」


 夕刻に近藤さんが帰宅した。

 県下一の進学校に入学し、歯を食いしばっていまも上位グループについて行こうとしている。

 彼女もこの1年で変わったと言えるかもしれない。

 私が彼女をお姉様と呼ぶのはお祖母様がいない時だけなので、確認することなく抱きついてきた。

 お祖母様はお祖父様の食事の世話をしているところだ。

 近藤さんは私の胸元に顔をうずめ、母親に甘える子どものように肩の力を抜いて身体を預けてくる。

 母のいない者同士だが最近は私の方が母親役になることが多い。


「亜砂美、絶対うちの学校に入りなさい。そして、あの天才どもを見返してやるのよ」


 こういうところは子どもに自分ができなかった望みを託す毒親っぽいが、私は「はい、お姉様」としずしずと従った。

 見返すうんぬんはともかく、いまの私にとって目に見える力とは学力であり、この高校への進学は最強の力を手に入れることに等しい。

 私は高校進学と同時に近藤亜砂美と名乗る予定だ。

 変わる私に相応しい場所を目指す。

 そのための準備はもう始まっている。




††††† 登場人物紹介 †††††


久藤亜砂美・・・中学2年生。両親の離婚後母親とアパート暮らしを始めたが、いい加減な母親に大変苦労をさせられた。知人だった近藤家に何かと助けられ、歳の近い未来からは勉強などを教わった。一方で未来から自分のストレスをぶつけられたりもした。


原田朱雀・・・中学2年生。手芸部部長。1年の時に亜砂美が支配するクラスに対して居心地の悪さを感じて自分で手芸部を創設した。当時は反発していたが、いまはそれほど対立はしていない。


田中七海・・・中学2年生。生徒会長。自他ともに認める真面目な生徒だが、彼女自身はそれだけしか評価されないことに苛立ちを感じている。


鈴木真央・・・中学2年生。生徒会役員。七海の親友。ソフトテニス部にも所属し交友関係は広い。噂好きで、あまりあとのことまで考えて行動するタイプではない。


小西遥・・・中学2年生。亜砂美の親友。不良として恐れられており、その強さは男子をも上回る。1学年上の不良である麓に連れられて空手道場に行くようになり、その後も通い続けている。


近藤未来・・・高校1年生。両親の離婚後母方の祖父母に引き取られて暮らしている。この古い家を出たいという思いで県下一の進学校に合格した。まだ小学生高学年だった亜砂美に性的ないたずらを繰り返し、いまもその関係は継続している。

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