第589話 令和2年12月15日(火)「予定変更」日野可恋
『大荒れね』
ウンザリとした気持ちが籠もったリサの声が耳に届く。
私は駄々をこねるキャシーの姿を想像しながら、『ハワイ行きを楽しみにしていたものね』と応じた。
15歳の少女と呼ぶにはあまりに大柄な体躯の持ち主が、小学生男子のように泣きわめく様子が容易に頭に浮かぶ。
姉のリサを始め彼女の家族はみな大柄だが、鍛えまくっているキャシーを物理的に押しとどめることは難しい。
キャシー以外は知的な人たちだから尚更だ。
『感染状況が改善して行くことができる環境が整ったらという前提で旅行会社に計画を立ててもらっていたのだけど、あの子はすっかり行く気になっていたから……』
電話越しではあるが、頭を抱えるリサが目に見えるようだ。
観光目的での海外旅行はいまはまだどこの国でも難しいが、彼女たちは一時帰国を名目にすれば米国への入国はできる。
だが、州によって対応は異なるものの旅行者に1、2週間の自己隔離を求める規制は緩和されていない。
しかも現状では日本への再入国が認められない可能性もある。
認められたとしても再び自己隔離が必要となるので合わせて1ヶ月間外出できないことになる。
これでは何のための休暇か分からなくなってしまう。
『日本国内への旅行はどう?』と声を掛けてみると、リサは沈んだ声で『難しいと思うわ』と答えた。
停止されたGO TO トラベルの恩恵を得ようとは思っていないようだが、この状況では旅行者への風当たりが強いという懸念は消えない。
特に黒人の家族旅行は目立つだけに落ち着いて過ごすことはできないだろう。
『高校の制服を着て歩いていても、旅行者は国へ帰れって言われたのよ』とリサは愚痴を零した。
『どこにでも排外主義者はいるからね』
『そうね。そしてこのウイルスはそういう人たちに力を与えてしまったわ』
日本人の高校生の多くは政治に関心を示さず、興味を持っていてもそれをおおっぴらに語ることはほとんどない。
その点、リサは明快だ。
アメリカ民主党の支持者で、お小遣いから献金もしているらしい。
彼女は急進左派なので民主党の次期大統領には批判的だが、それでも現職よりはマシだと話していた。
『急進左派なんて言うけど、日本の方がもっと左寄りの政策をしているじゃない』だとか『カレンは恵まれているから新自由主義的な考え方をしてしまうのよ!』だとか日本人相手ではされないであろう指摘が来て、彼女との会話は有意義なことが多い。
『4年後の大統領選挙ではボランティアとして支援した大統領候補を当選させてみせるわ』といまから息巻いているほどだ。
一流大学で経営学を学びビジネスで成功し、同時に政治的な運動にも参加する。
そんな将来像を持つリサはアメリカの知的エリートの典型のような人物だろう。
『どこにも行かないのなら、キャシーは道場で監禁……もとい寒稽古ということで預かるように調整するわ』
『助かるわ、カレン』
そろそろひぃながお風呂から出る頃だろうと思って電話を切った。
私が代表を務めるNPO法人”F-SAS”からのメールを確認していると、お風呂から上がったばかりのひぃながリビングにやって来た。
上気して肌が朱に染まっている。
いつもならにこやかな笑顔を浮かべているのに、今日は沈んだままだった。
「大阪行きはなくなったけど、その分クリスマスはふたりで盛大に祝おう」と慰める。
スポンサーへの挨拶を兼ねたF-SASのクリスマスイベントは急遽オンラインでのみの開催となった。
緊急事態宣言こそ出なかったものの、現状は切迫している。
のほほんとイベントを開催したら批判にさらされる可能性もあった。
「仕方ないって分かっているの」とひぃなは項垂れている。
彼女はそれだけ楽しみにしていた。
キャシーのように怒りで発散しない分、しっかりケアしてあげないと。
そう思って、私は彼女の髪にドライヤーをあてた。
腰まで届く髪は濡れて見た目以上に重く感じる。
それをひぃならしい軽やかな髪へと変貌させていく。
じっと黙ってされるがままだったひぃなだが、髪が乾くにつれて少しずつ気分が浮上してきたようだ。
落ち着いた表情になり、眉間の皺も消えた。
ドライヤーの電源を切った私は「大阪は春にでも行こう。その頃には幾分マシになっているだろうし。じっくり案内するよ」と代案を出す。
「じゃあ」とひぃなが口を開いた。
私が「ん?」と促すと、「可恋の引っ越し前のお友だちに会ってみたい。いまは入試目前だから無理だと思って言わなかったんだけど……」と彼女は望みを口にした。
私は頬に手を当て考え込む。
予期していなかったからだ。
私は彼女の昔の友だちに会いたいと思わない。
それどころかそういう発想すら出て来ない。
彼女との会話もまた刺激に満ちていた。
「まあ大丈夫なんじゃないかな。正月にでも連絡を取るよ」と答えた私は「もっと大変なお願いをされるかと思ったよ」と軽口を叩く。
「別に可恋が悪い訳じゃないから。子ども扱いしないで」とひぃなは頬を膨らませた。
悪い悪いと彼女の頭をポンポンと軽く叩き、「ハワイに行けなくなったキャシーが道場に来るから、あとのことはよろしくね」と耳元で囁いた。
驚いてこちらを振り向くひぃなに微笑みかけるが、笑顔の神通力は届かないようだ。
「待って。いまふたりきりのクリスマスって行ったよね? 大丈夫なの?」
「私はほら、イベントの準備で忙しいから説得は任せるよ」
「来週のデートは? ふたりで映画を見に行く約束だよね?」
「行くよ。ただキャシーがついて来るかもしれないけど」
せっかくきめ細やかな透き通る肌の色に戻っていたのに、見る見る赤くなっていく。
不謹慎にもゆでだこを連想してしまったが、もちろん口には出さない。
「私のせいじゃないよね?」と言っても、ひぃなは「可恋のせいよ。どうにかして!」と子どものようにカンカンだ。
私としてもしっかりキャシー対策を採りたいところだが、イベントの変更に伴い年末まで予定が詰まっていてじっくり時間が取れない。
こめかみに手を当てた私は「結さんを呼ぼうか?」と助っ人を呼ぶことを提案したが、ひぃなはお気に召さないようだった。
「……それって事態をややこしくしているだけじゃない?」
ほかに名案が浮かばなかった私は逃げるようにお風呂に向かった。
もうキャシーへの対策を考えるより、ひぃながキャシーの相手をしてくれるよう説得する方が楽かなと思いながら……。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学3年生。女子学生アスリートを支援するNPO法人F-SASの共同代表。世間的には話題作りのためのお飾りだと思われているが、実際は彼女が組織を統轄している。
日々木陽稲・・・中学3年生。ロシア系の血を引き、それが色濃く発現した容貌の持ち主。現在可恋とふたり暮らし。
キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。昨年の夏に来日した黒人少女。180 cm台後半の身長とバネのような筋肉の持ち主で現在は空手を習っている。対策を採らないと巨大台風のような被害を周囲に与えるとも言われている。
リサ・フランクリン・・・高校3年生。キャシーの実姉。来夏アメリカの大学に進学する予定。キャシーと異なり日本語もほぼマスターした。しかし、可恋との会話は可恋の希望で英語を使っている。
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