第206話 兄と女の人


「どうぞ、あがって…」


 その後、自宅マンションについた飛鳥は、玄関を開け、あかりとエレナを家の中へと招き入れた。


 二人が「お邪魔します」と言って頭を下げれば、シンと静まり返った家の中、飛鳥は廊下を進み、二人を自分の部屋まで先導する。


 そして、部屋の前につくと「入って」と飛鳥に促され、先にエレナが中へと入り、あかりも、その後に続く。


 だが、ふと扉の前で立ち止まったあかりは、中に入ることなく、飛鳥を見上げた。


「どうしたの?」

「あ、えと……」


 このまま彼を、巻き込んでいいのか?


 あかりは、飛鳥とミサに何かしらの関わりがあるような気がして、部屋に入るのを躊躇した。すると飛鳥は


「俺の部屋じゃ、嫌?」


「あ、いえ……そうじゃなくて。本当にいいんでしょうか? お邪魔して」


「今更、何言ってんの? それに、あかりの家はマズイんだろ?」


「そうですけど……でも、話をするなら喫茶店とかでも」


「…………」


 多分、あかりは『関係のない人間』を巻き込んでしまったと思っているのかもしれない。


 自分とエレナの関係性を全く知らないあかりが、そう思うのは致し方ないこと。


 だが、今の飛鳥にとって、エレナのことは、他人事じゃない。


 それに──


(どちらかといえば、巻き込まれてるのはあかりの方なんだけどな)


 その瞬間、ふと"ゆり"のことを思い出して、飛鳥は苦々しく眉根を寄せた。


 あの日、あの人は、ゆりさんを刺した。


 肉を裂くあの嫌な音も、生ぬるい血の感触も、全く忘れることなく脳裏に焼き付いてる。


 もし──もし万が一にでも、エレナとあかりが一緒にいる所を、あの人に見られてしまったら──…


「……っ」


 嫌な想像がよぎって、部屋の前に立ち尽くした飛鳥は、心配そうにあかりを見つめた。


 あかりを、ゆりのような目に合わせたくはない。

 それに、今この状態で、この二人を匿うなら、家の中が一番安全だった。


「外はダメ。それに、俺も話したいことがあるっていっただろ?」


「そうですけど……」


「そんなに気にしなくていいよ。俺も、お前の家には何度かいってるし。それに、今日は夕方まで誰もいないっていっただろ? だから、大丈──」


 ジャァー……


「?」


 だが、その瞬間、どこからか水が流れる音が聞こえた。


 誰もいないはずの家の中。


 だが、明らかに室内で響いたであろうその水音に、飛鳥とあかりは一度目を見合わせ、その後、音の出どころを探る。


 すると、その音は、廊下の突き当たりにあるトイレの中から聞こえたようだった。


 水音が弱まると同時に、ガチャッと小さな音が響くと、その扉を開けて出てきたのは──


「あれ、兄貴?」


「「!?」」


 中から出てきたのは、弟の蓮だった。


 突然現れた蓮に、飛鳥とあかりは同時に瞠目し、そして蓮もまた、トイレの前で立ち尽くす。


 それもそうだろう。


 なぜなら、今、蓮の目の前には、兄と見知らぬ女の人が、二人っきりでいるのだから──


「えっと、どちら様……?」


「あ、すみません! お邪魔してます、私は」


「いい。挨拶はいいから、早く入って!」


「え、でも…っ」


「いいから!」


 だが、ことの事態を察したあかりが、慌てて声を上げた瞬間、そんなあかりの言葉を遮り、飛鳥があかりを部屋の中に押し込んだ。


 背中を押し、有無を言わさず中に入れると、その後、見られないように、飛鳥は、部屋の扉をしめる。


「「…………」」


 そして廊下には、扉に手をついて難しい顔をする飛鳥と、疑惑ありげな表情をうかべて兄を見つめる蓮の姿。


 そして、それから暫く、二人無言のまま時が過ぎさると──


「お前、なんでいるの?」

「……ッ」


 しんと静まり返った廊下に、兄の声が響いた。


 何か言いたげな視線を向けられ、蓮はタジタジになりながらも返事を返す。


「ぶ、部活……中止に……なって…」


「……」


「しょ、照明の点検するとかで……あ、あと、華も中村に急に用事ができたとかで……さっき帰ってきて……今、部屋で漫画読んで、る……よ?」


「………」


 語尾が弱々しくなりつつ、華のことまでなんとか伝えると、辺りは再び静まり返った。


 重い。とてつもなく、空気が重い!


 明らかに"見てはいけないもの"を見てしまった。ていうか──


「あのさ、兄貴……」


 蓮は、ゴクリと息を飲む。


 あんなところを見て、無視する訳にはいかない!


 なかったことにする訳にはいかない!


 ならば、やはりここは聞いておかねばなるまい!


 兄貴、さっきの女の人は誰!?──と!



「蓮」

「!?」


 だが、蓮がそう決意した瞬間、先に飛鳥が言葉を発した。


 扉を押さえた手は離さぬまま、飛鳥はじっと蓮を見つめると──


「俺の部屋には、絶対近づくなよ」


「……っ」


 廊下に響いたその低い声に、蓮は絶句する。


 すると飛鳥は「華にも、伝えといて」と言って再び扉を開くと、先程、あかりを押し込んだ部屋の中へと入っていった。


 そして蓮は、未だにトイレの前から動けず、先程の兄の言葉を復唱する。


「ち、近づくなって……っ」


 部屋の中には、兄と女の人が二人きり。

 つまり、この状況は──


(う、嘘だろ。まさか、今からあの人と……ッ)


 その額にじわりと汗をかき、蓮は、これから兄の部屋で行われるであろうことを想像し、酷く動揺したのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る