第74話 先輩と後輩


(あ、どうしよう……)


 その日、あかりは大学につくと、目の前の光景に、少しばかり顔を曇らせた。


 あかりは、耳が片方聞こえない。


 そのため、教室にはいると、いつも聞き取りやすい場所に席を取っているのだが、今日は少し自宅を出るのが遅かったからか、いつもの席には、すでに他の学生が数人で群れを作り座っていた。


(今日は、後ろの席でいっか……)


 自宅を出るのが遅かった自分を反省しつつ、あかりは空いている他の席に腰掛けた。


「あかり~!」


 すると、席に着いたあかりに、同じ学部の女性が明るく声をかけてきた。


 彼女の名前は、安藤さん。ショートカットの明るい髪色をしたボーイッシュな美人だ。


 春に、この街、桜聖市に引っ越してきて一ヶ月ほど。知り合いなど全くいなかったあかりだが、この安藤さんは、たまたま席が隣になってから、よく話しかけてきてくれる。


「久しぶり! あかりは、ゴールデンウィークどっかいった?」


「ん……うんん。こっちじゃ知り合い全くいないから、ゴールデンウィークは引っ越しの後片付けとかしてたかな?」


「あ、そっか。一人暮らしなんだよね!」

 

「……え、あ……うん。そう、一人暮らし」


 抗議が始まる前の教室は、少し騒がしい。


 これでも、しっかりと聞こうと話に集中はしているのだが、あかりにとって騒がしい場所での人との会話は、さながらパズルのようなものだった。


 聞き取れた「単語」を繋ぎあわせて、相手の表情や、前の会話と照らし合わせながら、話の流れを推理する。


 だが、その推理が合っていればよいのだが、間違っていた時に、あかりは、人に変な誤解を与えてしまう。


「いいなー。うち実家暮しだし」


「……うん?」


 正直、常に「聞かなくては」と、神経を集中させているのは疲れる。かと言って、聞こえなかったからと、常に聞き返していては、相手をイラつかせてしまう。


 聞き返しは、できるなら最小限にとどめたい。あかりはそれを、長年の経験からよく理解していた。


「ねーねー、これ見てー!」


 すると、安藤の友人だろう。講義室の入口から、女性が一人、スマホを片手にこちらに駆け寄って来た。

 彼女の名前は青木さん。青木は、スマホを満面の笑みで安藤に見せつける。


「見て見てー! 3年の神木先輩の写真、ゲットしてきちゃった~」


「え、本当?!」


「うん。サークルの先輩が、持っててね~」


 安藤は、とても明るい性格をしていた。その上、誰とでもすぐに仲良くなれるタイプのため彼女の周りにはよく人が集まる。


 あかりは、側でスマホの画面を見ながら、わいわいと会話を弾ませている安藤と青木の姿を見つめながら、聞き逃さないようにと、その会話に耳をすませていた。


 二人の話を聞けば、なんでも、この大学の3年に、とてもイケメンな先輩がいるらしい。


(へー……そんなにカッコいいんだ)


 二人が、顔を赤らめながら話をする様は、さながら人気アイドルの話でもしているかのようだった。


 だが、その先輩は、アイドルでもなければ、芸能人でもなく、ただの一般人。


 だが、彼女たちの騒ぎようをみれば、よほど綺麗な顔をしているのだろう。正直あかりは、それでここまで騒がれるほど人物を見たことがなかった。


(あ……)


 だが、その瞬間、ふと先日出会った「ある人物」のことを思い出した。


 本屋で会って、家まで荷物を持ち送り届けてくれた、あの金髪の青年……


(まさか、あんな短時間で、気づく人がいるなんて)


 長年一緒に過ごした友人でさえ、片耳難聴のことをカミングアウトしたら驚かれるくらいだった。


 それを、たった2回あっただけで、彼は自分の耳が、片方聞こえていないことに気づいたのだ。


(……そういえば、あの人も、けっこう綺麗な顔してたっけ)


 思い返せば、彼は女性に見間違えるほど、とても整った顔立ちをしていた。それこそ、こうして騒ぎ立てられてもおかしくないくらいの美青年かもしれない。


(ま、性格に難ありだけど……)


 だが、いくら外見がよかろうが、中身がとも合わなければ意味ないな……と、彼から受けた数々の嫌がらせを思い出すと、あかりは苦笑いを浮かべた。


 すると、そこに


「あかり、……かみ…せ…ん……、見る?」


「え!?」


 油断していた! 完全に油断していた!

 明らかに話をふられたのはわかった。だが、その内容が、さっぱり分からなかった。


(あ、えと……見るってことは、なにか見せてくれるんだよね?)


 かみ? 紙?

 あー、いや違う写真のことか?


 なら、あれかな。神木先輩の……


「あ、うん……見たい」


 あかりは、すぐさま会話を推理して返事を返す。ちなみにこの推理、ものの1秒にも満たない速度で、瞬時に頭の中で考えるのだ。


 すると、どうやら当たっていたのだろう。

 安藤が、あかりの前にスマホを差し出してきた。


(よかった……っ)


 どうやら間違ってはいなかったようで、あかりはほっと胸を撫で下ろすと、手渡されたスマホの画面に視線を落とす。


「?」


 だが、その画面を見た瞬間、あかりは?マークを浮かべた。


 目の前の画像には、が、にこやかな笑みを浮かべて写っていた。視線は違う方をむいているので、隠し撮りされたのだろうか?


 これほどの人気者なら、隠し撮りされるのも、ある意味仕方ないのかもしれない。


 いや、だが……今はそんなことどうでもいい。


「……あ、あの、これは……?」


「え? これって、だから、3年の先輩で神木飛鳥さん。私達と同じ教育学部なんだって~」


「ちょー綺麗な顔してるよねー、なんか絵本から飛び出してきた王子様って感じじゃない?」


「あーわかる! なんかもうオーラが違うんだよね。私この前、たまたま見かけたんだけど、すれ違った瞬間、思わず二度見しちゃった!」


「しかも、あれでとっても優しくてねー。うちのサークルでも、神木先輩に憧れてる子いっぱいいるんだよ!」


「……そ、そうなんだ」


 安藤と青木の話を聞いて、あかりは改めてその画像をみつめた。


 間違いない。この画像の神木先輩は、先日であった、あの青年!!


(うそでしょ!? あの人、同じ大学だったの!?)


 しかも、同じ学部の先輩だなんて、一言も聞いてない!


(あ……だからあの時、学部聞いてきたんだ!)


 なんで、学部を聞いてきたんだろうかと不思議に思っていた。だが、なるほど、そういう事か。


 つまり、彼は自分が「後輩」であることを分かったうえで、人のことを根ほり葉ほり聞いてきた挙句、あんな質の悪い嫌がらせをしてきたと?


(っ……信じられない)


 あまりの仕打ちに、流石のあかりも開いた口が塞がらなかった。


「あ、でもさー」


 すると、困惑するあかりをよそに、再び青木が声を上げた。


「神木先輩、ちょっと前に、女の子と二人っきりで歩いてたんだって!」


「え? でも、今は彼女いないって言ってなかった?」


「そうなの! なのに女の子と一緒だったんだよ!! なんか髪が長くておっとりした雰囲気の子って噂だけど、もし彼女だったらショック~」


「まぁ、神木先輩モテるしね。でもさ、マジで彼女だったら、その女刺されちゃったりして~」


「あー、抜け駆け禁止ーみたいな! 確かに、熱狂的なファンとかいたらヤバそう」


「……………」


 二人がなにやら不穏な会話をはじめた。


 二人っきりで歩いてた?

 髪の長い女?

 その瞬間、あかりは嫌な汗をかく。


(いやいやいや、違う違う。だってあの人、人気者みたいだし。女の子なんてよりどりみどりだろうし! いくらでも女の子と歩いてそうだし!)


 絶対に自分ではない!!──と言い聞かせつつも、あかりは、先日、彼に会った時のことを思いだして、視線を泳がせた。


 なぜなら、あかりは、あの時一時的に、彼に


 いくら自転車を回避するためだったとはいえ、もし熱狂的なファンが見ていたらと思うと、今更ながらにゾッとする。


(なにこれ、怖すぎる……どうか、もう二度とこの人と会いませんように!)


 漠然と命の危機を感じたあかりは、その後、スマホの中で笑う「神木 飛鳥」の画像をみつめながら、強く強くそう願ったのであった。

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