第302話 愛と心

「どうしてお前は、俺のことを信じられなくなったんだ?」


 辺りがシンと静まり返る中、ミサは侑斗のその言葉を聞いて、あの日、初めて侑斗に不安を抱いた日のことを思い出した。


 義母に、侑斗の本当の父親のことを聞いた、あの日。


 妻子持ちで、不倫をするような男が、本当の父親だと知った時、すごくショックだった。


 いや、そんな男が侑斗の父親だからショックだったわけではなく、侑斗が隠し事をしていることが辛かった。


 そんな話を聞いたくらいで、私は侑斗を嫌いになんてならない。


 それなのに、侑斗は、私のことを信じてないの?


 そう思うと、不安は芋ずる式に増えていった。


(……うそ……よね)


 ドクンと、心臓が跳ねる。


 侑斗の表情を直視出来ず、そのままゆっくりと視線を落としたミサは、あの日、義母から言われた言葉を、改めて振り返った。


『あらあら、あなたそれでも侑斗の奥さん? そんな大事なこと、話してもらえてないなんて』


 あの日、確かにそう言われた。まるで、妻失格だとでも言うように。侑斗が、隠しごとをしているとでも言うように……


(なに……あれは、なんだったの?)


 頭の中がぐちゃぐちゃになって、視界が真っ暗になって、同時に体の力が抜ける。掴まれた腕のおかげで、辛うじて倒れ込むのを防げたけど、心の中は酷く動揺していた。


 嘘だと思いたかった。


 義母のあの言葉をきっかけに、全てが狂い始めて、ずっとずっと苦しんできた。


 それなのに──


(侑斗……知らなかったの?)


 隠していたわけじゃなかった?

 じゃぁ、あれは、私が勝手に───?


「……ミサ」

「!」


 瞬間、名前を呼ばれて肩が震えた。


 涙が一気に引っ込むと、まるで凍えているかのように、全身が小さく震え始めた。


 どうしよう、顔を見れない。

 話せない。話したくない。


 侑斗を傷つけたくない。


 父親と血が繋がってないなんて、そんなの、知らない方がいいに決まってる。


「俺の父親が、どうしたんだ?」


「あ……ごめん侑斗、今のは……忘れて……っ」


 震える唇で、恐る恐る侑斗に伝えた。


 話しちゃいけない。こんな真実、知らないままでいたほうがいい。


 それが、侑斗のため──


 だけど、目を合わせず、しどろもどろ紡いたミサの言葉を聞いて、侑斗は微かに眉をひそめた。


「お前、いつもそうやって、人のことを決めつけてたのか?」


「え?」


「ゆりのことも、そうだったろ。ただ俺と一緒にいただけで、浮気相手だと決めつけて、本来恨む必要がなかった相手を、ずっと恨み続けてきた。……子供たちのこともそうだ。モデルになりたいと、子供たちの心を勝手に決めつけて、あの子たちの話を聞こうとすらしなかった」


「……」


「さっきの話も、別にお前だけを責めようとしてた訳じゃない。あの日、飛鳥が逃げ出したのは、が、そこまで飛鳥を追い詰めたからだ。俺も、飛鳥に酷いことをした。俺みたいな父親いない方が、飛鳥は幸せだって勝手に決めつけて、飛鳥が必死に伸ばした手を振り払った。俺もお前と同じだ。それがだとおもったんだ。……だけど、俺たちが、勝手に"愛情"だと決めつけて与えたその行為が、あの時、飛鳥の"心"を殺そうとしてたんだ」


「……っ」


 その言葉に、あの頃、自分が飛鳥のためにと与えた行いを思い出した。


 モデルにしようと必死だった。

 絶対に、怪我はさせたくなかった。


 友達と喧嘩になったと聞いた時は、一方的に幼稚園を辞めさせて、部屋の中に閉じ込めた。


 それでも、守っているつもりだった。

 それが、飛鳥のためだとおもったから……


「限界が来て逃げ出した飛鳥を、ゆりが助けてくれた。俺はあの日、ゆりに叱られたよ。『子供だからって、親がなんでも決めていいわけじゃない』って『気持ちくらいは、話くらいは聞いてやれ』って。……ゆりは、飛鳥の話を聞いて、飛鳥が望む未来を叶えてあげようと、あの日、俺に連絡をしてきた。そんなゆりを、お前は一方的に敵だと決めつけて、今度はそのゆりと間違えて、飛鳥の友達を傷つけようとした。そんな所に出くわしたら、飛鳥が怒るのは当然だろう」


「………」


 諭すようにいった侑斗の言葉は、ミサの中にじっくりと響いていく。


 それは、とても深く、穏やかに。


 そして、心に刺さったその言葉は、未だに受け止められずにいる、あの飛鳥の言葉を、次々に脳裏に思いおこさせた。


『俺があの日逃げ出したのは、嫌になったんだ、何もかも! 部屋の中に閉じ込められて、やりたくないモデルの仕事をさせられて、ずっとあんな日々が続くのと思ったら耐えられなかった! 両親が喧嘩するのが嫌だった、幼稚園に行けないのが嫌だった、大人の機嫌うかがうのも、無理して笑うのも、全部全部、嫌だった!!』


 苦しそうに、声を上げた飛鳥の姿。


 それが、幼い日の飛鳥の姿と重った瞬間、一度止まった涙が、またじわりじわりと溢れ出てきた。


『おかぁさん…あけて!……ねぇ、おかあさん…ッ』


 自分が、飛鳥に与えた仕打ちを、否応にも思いだす。


 あの頃、何度、飛鳥の声を無視しただろう。


 愛してた。

 大切だった。

 失いたくなかった。


 抱きしめて「大好きよ」と囁けば、私の気持ちは、分かってくれると思っていた。


 でも──


「失いたくなかった気持ちは、わからなくはない。子供たちが大切なのも……でも、お前がやってきたことは、愛情という名の"抑圧"だ。子供の幸せを願うなら、そんな独りよがりな愛情をぶつけてばかりいないで、ちゃんと話を聞いて、その心に寄り添え。……今『忘れて』と言ったのも、話さない方が、"俺のため"だとでもおもったんだろ。でも、俺は今そうは思ってない。離婚してから何度も考えた。なんであの時、急に俺のことを疑うようになったんだろうって……それが、16年間たった今でも、胸の奥でつっかえてる。ミサ、俺の心まで、勝手に決めつけるな。俺は、知っておきたいとおもってる。あの時、俺たち家族が、壊れたを──」


「……ッ」


 壊れた原因──その覚悟を決めたかのような侑斗の表情に、ミサは戸惑い、唇をきつく噛みしめた。


「でも……聞くと、後悔するかも……しれない」


「そうだな。でも、この先ずっと、モヤモヤたままよりは、ずっといい」


 掴まれた腕からは、真剣な思いが伝わってくる。すると、ミサもどうやら覚悟を決めたのか、小さく、だが、ハッキリと言葉をつむぎ始めた。


「侑斗は……お義父さんの……子供じゃないの」


「え?」


「侑斗は、お義父さんとは、血が繋がってないって、お義母さんから聞いたの! 本当の父親は妻子持ちの男で、お義母さんと不倫して侑斗を授かって、でも離婚は出来なかったから、お義父さんを騙して結婚したって……っ」


「……」


「私、お義母さんに、妻なのに知らないのはおかしいみたいに言われて……だから、侑斗が知らないなんて思わなくて……っ」


 ひくひくと泣きながら話すミサの話を全てを聞き終えると、侑斗はミサの手を離し、そのまま力なくイスに腰掛けた。


 複雑な表情をうかべた侑斗をみて、その心中を更に重く受け止めると、ミサはまた涙ながらに話し始める。


「ごめん、ごめんね、侑斗……っ。私、信じようとしたの! でも、侑斗が隠し事してるって思ったら、すごく不安になって。話してくれないのは、何かやましいことがあるじゃないかって思ったら、それまでは、気にならなかったことが気になるようになって! ごめん、ごめんなさい……ッ」


「…………」


 肩を震わせながら、もう枯れるんじゃないかってくらい泣き続けるミサは、その後何度と謝罪の言葉を繰り返した。


 そんなミサをみて、侑斗は申し訳なさそうに目を細める。


 父親と血が繋がってない。つまり自分は、父親の本当の子供ではなかった。


 その事実は、流石に重いし、まさかそれを、この年になって知るとは思わなかったけど、思いのほか冷静でいるのは、目の前で、ミサが泣いているからなのかもしれない。


「ごめん……ごめんなさい……ッ」


「そう、何度も謝らなくていい。結局それ全部、俺の母親のせいだろ。……ホント息子の人生、どんだけぶち壊せば気が済むんだろうな、あの人」


「……侑斗」


「でも、親父のことに関しては、少し腑に落ちたというか、なんで急によそよそしくなったのか、ずっと疑問に思ってたけど……そうか、確かに、自分の子供が他の男の子供だって知ったら、よそよそしくもなるし、酒に溺れたくもなるよな」


 自虐混じりに呟けば、侑斗の代わりと言わんばかりに、またミサが涙を流した。侑斗はそんなミサを見て、呆れたように笑う。


「そんなに泣くなよ。別に、落ち込んじゃいないから」


「え……?」


「昔、親父に言ったことがあったんだ。『なんで、離婚しないんだ』って。中学の時、塾から帰ったら、母親が他所の男と、よろしくやってんの見ちまってさ。浮気してたのは知ってたけど、実際に目の当たりにすると、もう気持ち悪くて、何度も吐きまくって……さすがに限界がきて、仕事から帰ってきた親父に、当たり散らしたことがあった」



『なんで、離婚しないんだよ!! 浮気してるの気づいてるくせに! まだ、あんな女に未練があんのかよ!』


 とっくに、夫婦関係なんて破綻していた。だがら、親父が離婚さえしてくれたら、俺もあの母親から開放されると思った。


 だけど、父は──


『阿沙子に、未練はないさ』


 ただ、そういったきり、一切『離婚する』とは言わなかった。


 全く煮え切らない、決断力のない親父に幻滅して、思春期に入ったのもあってか、それからは、親父とまともに口を聞かなくなった。



「"未練はない"なんて言いながら、いつまでも離婚しない親父が、情けなくて仕方なかった。俺から見たら、いいように扱われてるだけのカッコ悪い父親でしかなくて……俺が、お前との離婚を早めに決断したのも、親父みたいになりたくないってのもあったと思う。だけど……」


 その事実を知って、少しずつ父親の言動や行動の真意に気付かされる。


 いつまでたっても、離婚はしなかった。


 ただただ酒で紛らわしながらも、母親の浮気を見て見ぬフリして、必死に耐えていた。


 口を聞かなくなってからも、三者面談や参観日には来てくれて、大学に行かずに就職して家を出ると言った時は『将来のためにも大学はでておけ』と、大学をすすめてきた。


 正直、手をかけようとする父が、鬱陶しくてしかたなかった。親父が別れないせいで、いつまでもあの母親に振り回される。


 だからこそ、こんな情けないやつが自分の父親なのかと思うと余計に反発したくなって、心無い言葉をかけて、苛立ちをぶつけてばかりだった。


 それでも──


『侑斗、困ったことがあったら、いつでも頼って来なさい』


 一人暮らしを始めた時も、ミサと結婚した時も、ゆりが亡くなった時も、いつも親父だけは、俺の『父親』であろうとしていた。


「離婚したら、俺のことを引き取れないとでも思ったのかもな……血が、繋がってないから」


「……」


「……そうか。ずっと誤解してたけど、親父が、離婚しようとしなかったのは──だったんだな……っ」


 思わず涙が溢れそうになって、目元を片手で覆い隠した。


 何年、父を誤解し続けてきたのだろう。それを思うと、なんとも、やるせない気持ちになった。


 俺が自分の子供じゃないと知った時、親父は、どれほど苦しんだのだろう。自分に置き換えたら、とてもじゃないけど耐えられないと思った。


 もし、飛鳥や蓮華が、俺の子じゃなかったら?


 そんなの想像すらできない。

 それでも、親父はずっと耐えていたのだろう。


 母親に引き取られたあとの、俺の未来を案じて。だから、離婚はせず、ひたすら耐え忍んで、生きてきたのだろう。


 全く血の繋がらない『息子』を、守るためだけに──


「侑斗……」


「あぁ、ゴメン。なんていうか、上手くいかないものだな。親子も夫婦も、お互いに分かっているつもりでいて、案外そうじゃないこともたくさんあって……ていうか、俺本当は、説教できる立場じゃないんだよ。俺だって、今まで散々……」


「え?」


「あ、いや……それより、お前、これからどうするつもりなんだ?」


「どうするって……」


「エレナちゃんのこと」


「……っ」

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