第303話 侑斗とミサ
「これからどうするんだ。エレナちゃんのこと」
「……っ」
エレナ──その名を聞いた瞬間、ミサはきつく唇を噛み締めた。微かに心拍が上がり、目には自然と涙が浮かぶ。
「どうするって……どう、できるっていうの。私、あの子に……っ」
自分の手の平を見つめ、あの日、娘の首を絞めた時のことを思い出した。
長い指先が小刻みに震え出して、自分がしたことの重みを実感する。
辛かった。
苦しくて、悲しくて、もう、こんな世界で生きていくのが嫌になった。
だから──
「私、エレナを……殺そうとしたのよ。一緒に死のうとしたの……この先……どうできるっていうの?」
取り返しのつかないことをした。
大切な我が子に手を上げて、傷つけようとした。
「もう、無理よ……もう……っ」
何をしても、報われない。
何年とかけてきた愛情は、伝わらず、叶えたいものも、守りたいものも、自分の手からすり抜けていった。
ただ一つ、すがりついていた娘にすら見限られて、もう生きていく気力すらなくなった。
「……もう、嫌ッ……もう、辛いのッ。生きるのが───辛い」
顔を覆い隠して、嘆き、悲しみ、また涙する。
生きることに疲れた。
もう、死んでしまいたい。
そう言って、何度とすすり泣くミサを見つめながら、侑斗は深く息をついた。
その姿は、まるで、昔の自分を見ているようだと思ったから……
「俺たち、夫婦だったけど、なんだかんだ、似たもの同士なのかもな?」
「……え?」
「俺も昔、一度だけ、お前と同じことを考えたことがあった。ゆりが亡くなった時に」
「……」
その言葉に、ミサは瞠目する。
「本当に……亡くなってるの、阿須加さん……っ」
「あぁ、本当だよ。もう、12年も前にな。……まだ22歳だった。朝いつも通り笑顔で送り出してくれたのに、次に目にしたのは霊安室で冷たくなった姿だった」
「……」
「あの時、たくさん責められた。母親が亡くなる時、父親は何してたんだとか、子供3人も父親が一人で育てられるわけないとか、会社に迷惑かけるなとか、色々な……中には優しい声をかけてくれた人もいたけど、所詮は他人事だ。誰も何もしてくれなかった。……辛くて苦しくて、食事もとる気にもなれなくて、本気で考えた。この子達をつれて、ゆりに会いに行きたいって」
「…………」
重苦しい話に、自然と胸が苦しくなった。
そして、同時に打ちのめされる。
ずっと憎かったはずの子が、もう、この世にはいない現実と、死んで会いに行きたくなるほど
侑斗は、あの子のことが好きなのだと───
「人間て、案外、簡単に死にたくなる生き物だ。辛い現実に直面すると、たちどころに弱くなる。心の均整が取れなくなって、正常な判断が出来なくなって、何もかも捨てて逃げ出したくなる。あの時、もし飛鳥が『ゆりに会いたい』って言っていたら、俺もお前と同じことをしていたかもしれない」
子供たちだけを、残していけないから──そんな独りよがりな感情に、あの子たちを巻き込もうとした。
「だから、お前の気持ちが、全く分からないわけじゃない。でも、俺はあの時、踏みとどまれた。飛鳥がいてくれたから……あの子たちがいてくれたから、生きなきゃいけないとおもった。強くなって、ゆりの分まで、守っていかなきゃいけないって……お前は、どうなんだ?」
「え?」
「本当に、何も残ってないのか?」
「…………」
侑斗の言葉に、ミサは今一度、残っているものを考える。
だが──
「残って……ないわ。何が、残ってるっていうのッ……私と侑斗は違う!! 言ったでしょ!! 私は、エレナを殺そうとしたの! あの子、あんなに怯えて、怖がって私から逃げて……もう、私にはエレナだけだったのに。それなのに、そのエレナにまで見限られて……ッ、もう無理よ。もう、私には──」
「だから、決めつけるなっていっただろ」
「……っ」
「断片的な言葉だけ切り取って、相手の気持ちを決めつけようとするな。本当に何も残ってないかは……これを、読んでから考えろ」
「なに、これ……っ」
差し出されたものを見て、ミサは身体を強ばらせた。シンプルなピンク色の封筒。それは見るからに、"手紙"だとわかった。
「これには、エレナちゃんが今、お前のことをどう思ってるのかが書いてある。エレナちゃんの本心だ。お前が全く聞こうとしなかった──エレナちゃんの心の声」
「エレナの……心?」
正直、読みたくないと思った。
怖い。あの子の"本心"を知ることが──
「逃げるなよ」
「……っ」
「逃げずに、しっかりと向き合え。まだお前が、エレナちゃんのことを大切に思っているなら──」
「………っ」
その言葉に、ミサは服の袖で涙を拭うと、意を決して、その手紙を受け取り、恐る恐る、それを開いた。
するとそこには、見慣れた娘の字があった。
──────────
お母さんへ
言葉ではうまく話せないから、手紙を書くことにしました。まずは、オーディションを受けなかったこと、ずっと隠していて、ごめんなさい。
──────────
そんな文面から始まった手紙には、エレナのこれまでの心情が書き連ねてあった。
初めは楽しかったはずのモデルの仕事が、いつからか苦痛に感じるようになっていたこと。
そのせいで、最近、上手く笑えなくて悩んでいたこと。
オーディションを受けなかったのは、合格する自信がなくて、それで限界が来て逃げ出して、そんなエレナを、飛鳥とあかりが助けてくれたということ。
他にも、エレナがミサにされて辛かったことが書いてあった。
お母さんが、怒って物に当たるのが怖かった。
部屋に閉じ込められる度に、不安になった。
公園で遊んじゃいけないと言われたり、お友達の手紙を破かれたのが、嫌だった。
本当は、お友達とも遊びたかったし、もっと色々な場所にでかけてみたかった。
お母さんと一緒に、普通の親子がしているようなことをしてみたかった。
だけど、お母さんが怒るかもしれない、悲しむかもしれないと思うと、言葉が詰まって、言えなかった。
「……っ」
ミサは、目には涙を浮かべながらも、その文字をゆっくりと追っていった。
嫌だったことも、たくさん書かれていた。
だけど、嬉しかったことも、たくさん書かれていた。
誕生日に、毎年ケーキを作ってくれるのが、待ち遠しかった。
毎朝、丁寧に髪をとかしてくれるのが嬉しかった。抱きしめて、大好きよと言われると安心した。
仕事で疲れていても、頭が痛くても、いつも必ず手作りのご飯を作ってくれて、怖かったけど、優しいお母さんが、大好きだった──と。
そして、最後の方には、こう書かれていた。
──────────
お母さん、今まで、ずっと言えなくてごめんなさい。うそをついて、傷つけてごめんなさい。
お母さんは、もう私のことを嫌いになったかもしれないけど、私は今もずっと、お母さんのことが大好きです。
だから、しっかりご飯を食べて、早く元気になってください。私をおいて、いなくならないでください。
お母さんにとって私は、約束をやぶった悪い子で、もういらない子かもしれないけど、それでも私は
また、お母さんと、一緒に暮らしたいです。
──────────
「っ……ぅ、…っ」
一度止めたはずの涙は、自然と頬を伝って、手紙の上にぽたぽたと流れ落ちた。
震えた手は、読むうちに少しずつ力が入り、読み終わる頃には、エレナの手紙をクシャクシャにしていた。
「エレナちゃん、お前を裏切ったわけでも、見限ったわけでもない。飛鳥だって、全く情がないなら、ここまでお前の世話を焼いてない。人の心や愛情は目に見えない。だから不安にもなるけど、裏切られたとか、嫌われたとか勝手に決めつけないで、ちゃんと相手の声を聞いてから考えろ。そしたら、また違った答えが出てくるかもしれない」
「…………」
「ミサ。お前は、まだ失ってない。ちゃんと、伝わってたよ、お前の愛情は……こうして、待ってくれている"家族"がいるんだからな」
「ッ……ぅ、っ」
じわりじわりと、胸の奥で温かい何かが広がっていく。
全て、失ったと思っていた。
もう、なにも残っていないと思っていた。
だけど──
「会いたいか? エレナちゃんに……」
「……っ……あぃ……たぃ……っ」
会いたい。
エレナに会いたい。
──そう、声にもならない声で言ったミサの言葉に、侑斗は小さく笑みを浮かべた。
きっと、伝わったのだと思った。
ずっと言えなかった。
エレナちゃんの気持ちが──
「じゃぁ、あとはお前しだいだ」
「私……しだい?」
「あぁ、一つ話しておかなきゃならないことがあってな。飛鳥から聞いて、さっき先生とも話してきた。病院側は、お前たちのことを児童相談所に通報すべきか迷ってる」
「……っ」
「まぁ、娘を殺しかけたんだ。病院側も慎重になるだろ。飛鳥が、通報するのは一旦保留にしてもらったらしいけど、このまま、お前の状態が改善しなければ、通報もやむを得ないと言われた。そうなると、エレナちゃんは一旦、児童相談所に引き取られることになる。……まぁ、今はうちで暮らしてるから、話せば、このままうちで暮らすことも出来るかもしれないけど、どう判断されるかは分からない。いくら飛鳥と血の繋がりがあるとはいえ、保護者である俺は、エレナちゃんとは全くの他人だし、かなり複雑な立場だからな。それに、もしそうなれば、どの道お前はこの先、エレナちゃんに会えなくなる」
「っ……そんな…っ」
「嫌なら、しっかり飯食って生きろ。食べて休んで、その心の病気をしっかり治して、エレナちゃんを迎えに来い。俺も暫くは日本にいるから、また不安になったら、俺が話聞いてやるし、支えてやる。だから……だから、もう、子供たちに心配かけるなよ?」
「……っ」
涙が、まるで冷えた心を溶かすように、流れていく。
全て、失ったと思っていた。
もう、なにも残っていないと思っていた。
だけど……自分にはまだ、心配してくれる人がいるのだと分かった。
話を聞いて、支えてくれる人がいる。
待っていてくれる人がいる。
大好きだよと言って、愛してくれる"家族"がいる。
「っ、……うん──」
コクリとうなづいて、小さく小さく呟くと、その後も、涙はとめどなく溢れ、昼下がりの病室の中には、暫く、ミサの泣き声が聞こえていた。
だけど、その涙は、もう決して、悲しい涙ではなかった。
それは、ミサがずっと抱えてきた、不安や恐怖を、根こそぎ洗い流してくれるような
そんな温かで──優しい涙だった。
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