第301話 癇癪と逃避


「よぅ、久しぶりだな、ミサ」


「侑……斗……っ」


 顔を青くし立ち尽くし、ミサは想像もしていなかった人物の登場に、ただただ困惑する。


 もう、何年あってないだろう。


 お互いに歳をとってはいたが、それでも当時の雰囲気や面影は変わらないままで──


「な、なんで、侑斗が……っ」


「……まぁ、とにかく座れ」


 そう言ってベッドを指さすと、侑斗は病室の脇にあった丸椅子を持って、その側に腰掛けた。


 未だ何が起きているのかかわらないミサは、ひどく躊躇したが、その後、言われれままベッドに戻ると、それから数秒ほどしたあと、侑斗が口を開いた。


「お前、また派手にやらかしたんだってな? 懲りないなー、ホント」


「……っ」


 深いため息と共に、侑斗がそう言って、ミサは膝の上にかけた薄い掛け布団をキュッと握りしめた。


 その呆れた物言いに、心は更に重くなる。


「なに……なんなの? 今更、何しに来たの……っ」


 『これが最後だ』と、昔、侑斗にいわれたのを思い出した。


『飛鳥の前にもう二度と現れるな』と『話をするのはこれが最後だ』と、16年前に言われた。


 だから、もう二度と会うことはないと思っていた。それなのに──


「頼まれたからな。俺たちの可愛い可愛いに……」


「……っ」


 そう言った侑斗の言葉に、ミサの目にはじわりと涙が浮かんだ。


 脳裏には、懐かしい頃の記憶が蘇る。侑斗と飛鳥と、3人で仲良く穏やかに暮らしていた、あの、幸せだった頃──


「それと、エレナちゃんなら、うちで預かってるから、心配しなくていいぞ」


「え? エレナ……今、侑斗の家にいるの?」


「あぁ……まぁ、俺も今日、海外から帰ってきたばかりだから、この一週間は、飛鳥がエレナちゃんを見てたみたいだけど。……それと、家とか仕事のことも心配しなくていい。会社には飛鳥が連絡を入れてくれたみたいだし、入院の手続きとか、その辺の面倒事も、飛鳥が全部済ませてくれたみたいだから」


「飛鳥……が? あの子、もうそんなこと、できるようになったの?」


 記憶に残るのは、まだ小さい頃の飛鳥だった。無邪気に駆け寄ってきて、可愛らしく笑う我が子の姿──


「あのなぁ。あれから何年たつと思ってるんだ。飛鳥も今じゃ、20歳の大学生だ」


「大……学生」


 その言葉に、先日久しぶりに再会した我が子のことを思い出す。

 まだ、実感はない。だけど、十数年ぶりに会った息子は、確かに大学生と言われるくらいの年代に成長していた。


 とても、大人っぽくなっていた。背も伸びて、髪も伸びて、声も変わっていて……


『あんたを裏切ったのは、全部、俺の意思だ!』


 だけど、あんなに拒絶されるなんて思わなかった。あんなに、敵対するような目で見られるなんて、思ってなかった。


「っ……飛鳥」


 今にも泣き出しそうな顔で、身を縮めたミサを見て、侑斗は目を細めた。


 ミサに初めて会った時の印象は『なんて危なっかしい子なんだろう』──そんな感じだった。


 人を全く疑うことをしない、純粋すぎるくらいの女の子。二度目に会った時は高校生の時で、あの頃より、いっそう綺麗になっていたミサは、人に裏切られて人間不信にはなっていたけど、それでも心を開いた人間には、よく懐いていた。


 家庭教師として家に行けば、いつも満面の笑みで出迎えてくれた。「神木さん!」と嬉しそうに駆け寄ってくるミサは、とても可愛いかった。


 勉強を教えていけば、意外と努力家なのも分かって、だけど、どこか弱々しく自信のないミサをみて、次第に自分が守ってあげたいと思うようになった。


 告白された時は、正直驚いたけど、自分だけを一途に愛してくれるのが嬉しかった。ミサなら、母のようにはならないと思った。きっと一生、自分だけを愛してくれる。


 そう思って、正式に付き合いだしたあとは、すぐにミサとの結婚を意識するのになった。


 あの頃のミサは、とても穏やかで、優しくて、よく笑うやつだった。人に傷つけられる痛みを知っていたから、誰かを平気で傷つけるような人じゃなかった。


 誰かを怨んだり、妬んだりするような人じゃなかった。それなのに、どうしてミサは、こんなにも変わってしまったのだろう。


「飛鳥から聞いた。お前、のこと怨んでるんだってな」


「……!?」


 唐突に問いかければ、ミサの肩がビクリと震えた。泣きそうだった顔が急激に青ざめて、その後、きつく毛布を握りしめたミサは、ぽつりぽつりと話し始めた。


「やっぱり……本当なのね。阿須加さんと……再婚したって……っ」


「……」


「なんでッ!? 侑斗、浮気はしてないって、ずっと言ってたじゃない!? それなのに、私と別れてすぐに同棲して、そのうえ子供まで作って!! 本当は浮気してたんでしょ! 阿須加さんと! 私のこと邪魔だったの!? だから私のこと騙して陥れて、大事な飛鳥まで奪って」


「ミサ」


「──ッ」


「今のお前に、信じろと言っても無理かもしれないけど、それでも俺は浮気はしてない。お前と結婚してる間、


「……っ」


 決して目をそらさず、真剣な表情で訴えれば、ミサはぐっと息を堪えた。


 感情を逆撫でしているのは、侑斗だって分かっていた。ゆりのことを持ち出せば、きっとまた口論になる。それは覚悟の上だった。


 それでも──


「ゆりと出会ったのは、本当にあの日が初めてで、確かにしばらく一緒に暮らしてたし、結婚が早かったのも確かだけど、それでも、ゆりと浮気してたわけでも、俺とゆりが二人でお前を陥れた訳でもない。……あの日、飛鳥は自分から家をでたんだ。まだ4歳で、一人で出かけたことなんて一度もなかった飛鳥が、あの日、家から逃げ出したのは──」


「やめて!! もうやだ、聞きたくない!!」


「ちゃんと聞け!!」


 子供のように取り乱して、耳を塞ごうとしたミサの腕を捕らえて、侑斗が声を荒らげた。


 再び目が合えば、ミサの瞳からは、じわりと涙が溢れ出す。


「飛鳥に言われたんだろ。あの日逃げ出したのは自分の意思だって。その言葉は、ちゃんと受け止めろ」


「ッ受け止められるわけないじゃない!! あの子が、モデルになりたいって言ったの! 飛鳥のためだったの!! あの頃の飛鳥は、嫌だなんて言わなかったわ!!」


「言わなかったんじゃなくて、言えなかったんだ!!」


「……ッ」


 掴まれた腕にグッと力が籠った。振り払うことも出来ず、聞きたくない言葉は、否応にも耳に入り込んでくる。


「エレナちゃんも同じだ。モデルの仕事をさせられるのが嫌で、もう限界だったんだ。オーディションを受けなかったのを、お前に黙っていたのは、お前が怖くていえなかったから」


「っ……なに、なんなのッ、全部私のせいだって言いたいの!? あの子達を追い詰めたのは、全部私だって!! 違う、違う! 私のせいじゃない! 私はあの子達を守りたかっただけ! もう、失いたくなかったの! 傷ついてほしくなかったの!……あの子達には、……!」


 ポロポロと青い瞳から、涙が零れ出した。


 必死に守っているはずだった。多少厳しいことをしても、あの子たちを守るためには必要なことだ。


 それなのに、最愛の息子から拒絶されて、最愛の娘には裏切られて、自分が今までしてきたことがなんだったのかすら、もうわかなくなった。


 全部、無意味だった。


 私が必死になってかけてきた愛情は、何一つ、あの子たちには伝わらなかった。


 虚しい。悲しい。苦しい───


「どうして……っ、どうして、私の手には、いつも……何も残らないの……っ」


 夢も、愛も、ほんの囁かな"幸せ"ですら──


「もう、もう嫌……っ、私はただ、幸せになりたかっただけなの……それなのに、どうしてこうなったの? 私、必死に頑張ったの……夢だって叶えるために努力した……侑斗にも、飛鳥にも、エレナにも、ありったけの愛情をそそいできた! それなのに、なんでみんな私ばかり責めるの!? 私は悪くない!! 私は──」


 声を上げて、ひたすら涙する。


 心身ともにボロボロになって、まるで子供のように泣き叫ぶミサの涙は、ぽたぽたと流れ落ちては、握りしめた毛布にシミをつくった。


 侑斗はそんなミサの姿を、ただ黙って見つめていた。

 あの頃、何度とこの癇癪を見てきた。怒鳴られる度に、嫌な気分になって、疑われる度に心が苦しくなった。


 冷静ではいられなくて、負けじと反論ばかりしていて、それでも、伝わらない思いに、次第に心が疲れて、ミサを避けるようになった。


 ミサから逃げて、家族から逃げて、いつしか、家にすら寄り付かなくなって。


 きっと、あの頃の自分なら、また逃げていたかもしれない。ただただ腫れ物を扱うみたいに、ミサのことを避けて、置き去りにしたかもしれない。


 でも──


「そうよ……元はと言えば、侑斗が悪いんじゃない」


「!」


「侑斗が私に隠し事なんてするから、全部おかしくなったんじゃない……っ」


 そう呟いたミサは、まるで幽霊のように朧気な表情で、うつらうつら、そう言った。


「……隠しごと?」


「しらばっくれないで!! お義父さんのこと、ずっと隠してたでしょ!?」


 再び声を荒げたミサと、目があった。

 だが、その言葉に侑斗は──


「親父のことって、なんだ?」


「……え?」


 二人目を合わせ、同時に硬直する。


 まるで、意味が分からないという侑斗に、ミサの顔からは、さっさまでの熱がスッ引いていく。


「な、に……言ってるの?……あなたのお父さんは……」


 言葉を止めて、その瞬間、ミサは小さく唇を震わせた。


 ──そんなわけない。


 心の中で、それを否定する気持ちが大きくなる。


 違う。そんなわけない。

 だって、あの時、お義母さんは……


「ミサ、お前の方こそ、俺に何を隠してるんだ」


「……え?」


「この際だから、しっかり話をしよう。あの時の俺たちは、相手の不満に反論ばかりしていて、どうしてそんなことを思うのか、その根本的な原因を解決しようとはしなかった。顔を見れば喧嘩ばかりで、いつも自分の意見ばかり押しつけて、お互いに相手の気持ちを考えようとはしなかった。本当は、歩みよるべきだったんだ。逃げずに、向き合うべきだった」


「………」


「ミサ。俺は、お前に浮気を疑われて、凄く辛かったよ。信頼していたから余計に、お前にだけは疑われたくなかった。でも、きっと何かあったんだろ、お前にも。俺を疑いたくなるような、何かが……。どうして、お前は──俺のことを、信じられなくなったんだ?」

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