第143話 情愛と幸福のノスタルジア⑰ ~二人の気持ち~


「行くな、ゆり」


 突然抱きしめられ、ゆりは酷く困惑した。


 名前を呼び捨てられたことで、更に驚き硬直していると、背中に回った腕に力がこもって、よりきつく抱きすくめられた。


 自分より遥かに大きくて、引き締まった身体。


 服越しに伝わる熱のせいか、あの夜のことを思い出して、ゆりは、とっさに離れようと侑斗の胸に置いた手に力をこめる。


「行くなって、言っただろ」


「……っ」


 だが、離れようとするゆりを、更にきつく抱きしめて、侑斗がそれを拒んだ。それはまるで「逃がさない」とでも言うかのように。


「なん……で……っ」


 何で、こんなことをするの?

 

 ゆりには、侑斗の行動の意図が分からなかった。


 だが、それと同時に心の中に秘めた思いが一気に溢れだしそうになって、ゆりの目にはじわりと涙が滲む。


「なんでッ……なんで、こんなことするの?」


 せっかく、忘れようとしてるのに──


「いいのか? 本当に……」


「え?」


 だが、そんなゆりの元に、また侑斗の声が届いた。


 寂しそうな、だけど、とてもとても優しい声。


「ゆりは、俺と会えなくなって、このままサヨナラなんかして……本当に、いいのか?」


「ッ……」


 心臓が、波打つ。

 いいもなにも、そのつもりできたのだ。


 お別れをするために

 さよならを言うために


 ここにきた。


 それなのに──



「ッ──いい、わけないよ……ッ!」


 瞬間、閉じ込めていたはずの感情が、一気に溢れ出した。

 胸元に置いた手がキュッと侑斗の服を掴むと、ゆりは侑斗の肩に顔をうずめて、ポロポロと泣きじゃくりながら言葉を発した。


「私、一人で過ごすの慣れてたはずなの、やっと親から開放されて、もう怯えることも無いし、前よりもずっと、安心した生活出来てるはずなのに……朝起きて、おはようって誰にも言えないのが辛い! 一人でご飯食べても美味しくない! 誰もいない家に帰るのが、寂しくて寂しくて、仕方ないッ! 誕生日だって、祝われないのがあたりまえだったのに、戻れるうちに出ていこうとして仕事も家も早く……決めた……のに……もうッ……戻れなくなってた」


 当たり散らすように言葉を放った。


 涙が溢れ

 思いが溢れ


 肩を震わせ、こらえきれず溢れた涙は、侑斗の肩にとどまり、服にシミを作った。


「どうしよう、私……っ、どうすれば…また、独りが平気になれ……んッ」


 瞬間、まるで言葉を遮るように、また強く抱きすくめられた。


 圧迫感と同時に言葉がつまる。


「侑斗……さ」


「……俺も同じ」


「え?」


「俺も、ゆりと離れて、やっと気づいた。年が離れてるとか、離婚したばかりだとか、色々言い訳して忘れようとしたのに、全く忘れられなくて、いつもゆりの顔ばかり思い出してた。飛鳥に諦めろなんて言いながら、結局諦められなかったのは……俺の方だった」


「……っ」


 耳元で聞こえたその声に、涙がピタリと止まった。ゆりが目を見開くと、その後少しだけ離れた距離で、再び視線が合わさる。


「ゆり、俺は、お前が好きだ」


 それは、あまりに唐突で。


 ただ呆然と侑斗を見つめていると、その後、ゆりがぽつりぽつりと声を震わせ始めた。


「うそ……だって侑斗さん、私のこと、子供扱いばかりして……」


「うん、もうしない」


「っ……それに、私、全然魅力ないし」


「そんなことないって、前にも言っただろ?」


「でも、年だって12も離れて」


「ゆり」


「……ッ」


「俺は、もう後悔したくない。今ここで、お前を手放したら、後で絶対後悔する。だから、このままサヨナラなんて……絶対にさせない」


 そう言って、目を細めた侑斗の声は、とてもとても優しかった。


 ゆりは、その言葉にじわりと涙を浮かべると


「本当に……ホント?」


「あぁ、本当。だから、ゆりの気持ちも、ちゃんと聞かせて欲しい」


 感情が高まり、胸が熱くなった瞬間、答えを求めるように問いかけられた。


「私、……っ」


 言っていいの?

 素直な気持ちを伝えて、本当に……いいの?


「私も……侑斗さんのことが、好き」


 声を絞り出した瞬間、また頬に涙が伝った。


 侑斗は、そんなゆりを、いとおしそう見つめると


「ゆり、お前が良ければ、また俺たちと、一緒に暮らしてくれないか?」


「……っ」


 頬に、触れられた、手が温かい。


 望んではいけないと思っていた。

 願っても叶わないと思っていた。


 ゆりは、その侑斗の手にそっと自分の手をかさねると


「……ぅん、私も一緒に暮らしたい」


 ずっと、二人と一緒にいたい。


 小さく頷き返事をすれば、思いが重なり合い、再び目が合わった。


 視線が絡まり、どちらともなく目を閉じると、そのまま腰を引かれ、そっと口付けられた。


 それは、涙のせいか、少ししょっぱくて


 だけど、どこか包み込むような



 優しい優しい、キスだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る