第142話 情愛と幸福のノスタルジア⑯ ~お別れ~

「あれー、お兄さん、また、お仕事?」


 その日の晩──0時をまわり夜も更けた頃、仕事をしていた侑斗の部屋に、飛鳥を寝かしつけたゆりが、またひょっこりと顔を出した。


 侑斗は、パソコンを打つ手を止めると、ゆりをみつめ、難しそうな顔をする。


「そんな顔しないでよ。もう襲ったりしないよ?」


(いや、逆だから!?)


 あの日を思い出し、心中穏やかじゃない侑斗が心の中でつっこむ。


 ゆりの姿は、あの日と同じ、ショートパンツにピンクのパーカー姿だった。可愛らしいルームウェアから露出した細い足が、やたら艶かしい。


 だが、せっかく来てくれたのに、ここで変なことをしたら、それこそ、もう二度と来てくれないかもしれない。


(俺の理性……頼むから、また仕事してくれよ)


 侑斗が、決して間違いを犯さないように自身に念押していると、その後ゆりが、侑斗の斜め向かいに座り、明るく声をかけてきた。


「ねー聞いて。私この前、誕生日きたんだ~」


「え、誕生日? いつ?」


「5月12日! 19歳になりました~」


「そうか、おめでとう」


 誕生日が近いなんて知らなかった。知っていれば、一緒にお祝いしたのに、もしかして、一人で過ごしたのだろうか?


 それとも、ほかの「誰か」と?

 そんな言葉が、漠然と侑斗の脳裏に浮かぶ。


「……にしても、お兄さん相変わらず、仕事大変そうだね」


「え? あー……今の部署、人手不足で、俺もムリ言って早くあがってるから、家に仕事持ち込んで、少しくらい会社に貢献しないとな」


「ほー、社蓄も大変だねー」


「社畜とか、言うな!」


 男手一つで、子供を育てることの大変さを、侑斗はここ数ヶ月で、痛い程思い知っていた。


 だけど、仕事も周りからの目も、別に苦ではなかった。これが、飛鳥と一緒にいるために、どうしても必要なことだったから。


 でも……


「もしかして、私のありがたみ、少しは感じてくれた?」


 そのゆりの言葉に、納得する。


「あぁ……有りがたかったよ。家事とか料理とか、色々してくれてたし……それに───」


 だが、侑斗はその後、言葉をつまらせると


「ゆりちゃん……なんで、いきなり来たの?」


「んー?」


「もう、こないと思ってた」


「えー、また来るっていったよ?」


「……」


 その後、二人の間には、暫く沈黙が流れる。


 シン静まる部屋の中。だが、その後、先に言葉を放ったのは、ゆりの方だった。


「あのね、お兄さん……今日は、これを返しにきたの」


「?」


 "これ"といって、ゆりが差し出してきたのは、前に侑斗が渡した茶封筒だった。


 そう、ミサからの──示談金だ。


「え?」


「ここを早く出ていくのに、どうしてもお金が必要だったから、少しだけ借りました。でも、使った分は、ちゃんと働いて、全額きちんと戻してあります」


 正座をして、あらたまった表情で、封筒を差し出すゆり。それを見て侑斗は困惑する。


「何言って……っ、それは、お前のお金だ。返す意味が分からない」


「そうかな。私はね、このお金、飛鳥のために送られたものだと思うの」


「!」


「だから、飛鳥のために使ってほしい」


 ゆりは、そう言うと、侑斗をまっすぐに見つめ、優しい笑みを浮かべた。


「なんでそこまで……君にとって、飛鳥は、なんのゆかりもない子供だろ?」


「うん。確に、あの日コンビニで見かけなければ、わざわざ追いかけることもなかったし、あの時の飛鳥は、私にとっては、ただの迷子の男の子だった。だけど……」


 ゆりは思い出す。


 母親を探しに行こうといったゆりに、飛鳥が言ったあの言葉。


『行きたくない! 俺……帰りたくな……っ』


 泣きながら訴えた、あの言葉。


「あの時、帰りなくないって泣いた飛鳥を見て、自分とかさねちゃったの。こんな小さな子が、私と同じように家に帰りたくないのかと思ったら、飛鳥のこと、他人とは思えなくなっちゃった」


 視線を下げ、穏やかな表情を浮かべる、ゆりのその姿は、まるで、我が子を思う母親のようだった。


「私ね、ここで、お金に変えられないものたくさん貰ったの。前に間違った選択の先に、もしかしたら明るい未来が待ってるのかもしれないって話したでしょ? 私が、そう思えるようになったのも、飛鳥と侑斗さんと、一緒に暮らすようになってから……後悔ばかりして、いつ死んでもいいなんて思ってた私が、それまでの嫌な出来事、全部チャラに出来るくらい、心の底から、生きててよかったって思えた。こんな私が、また未来に希望を持てた」


「……」


「飛鳥と侑斗さんに会えて、本当に良かった……ありがとう」


 二人のそばは、温かくて優しくて、本当に本当に幸せだった。


 このまま、ずっと一緒にいたい。


 何度も、そう思った。


 だけど───


「でも、だからこそ、今日はこれを返して、お別れを言うために来たの」


「え?」


「私……もう、ここには来れない」


 お別れ──そう言ったゆりに、侑斗が小さく問いかける。


「なんで?」


「……」


 だが、ゆりはうっすらと頬を染めて侑斗を見つめると、何も言わず悲しそうに笑った。


 言葉にされなくても、伝わって来るようだった。


『私、侑斗さんのこと──』


 あの日、ゆりがいいかけた、続きの言葉。



「えっと、お仕事の邪魔してゴメンね! じゃ、私そろそろ、飛鳥の所に戻るね」


 再びいつもの笑顔にもどると、ゆりはその場から立ちあがり、侑斗に背を向けた。


 パシッ──


 だが、立ち去ろうとした瞬間、突然グッと腕を引かれたかと思えば、ゆりはその場から動けなくなった。


 自分の腕を掴んだ、男らしい手の感触。ゆりが驚き目を見開けば、侑斗が真剣な表情で、ゆりの腕を掴んでいた。


「え? お兄……」


 突然のことに困惑した。

 だが、侑斗がその腕を更に強く引きよせると、ゆりの身体は、そのまま侑斗の胸の中に収まった。


 これは、思い上がりかもしれない。


 もし、違っていたら、今度は軽蔑されて、嫌われるかもしれない。


 だけど、それでも──



「行くな……ゆり」


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