第86話 お兄ちゃんとお母さん

「お兄ちゃんのて、どんな人なの?」


 キッチンに、華の声が響いた。


 だが、その後、すぐまた沈黙が訪れると、そこには、火にかけた鍋のグツグツと煮える音だけが残った。


 華の言葉を聞いて、横にいた兄の雰囲気が重くなった気がした。


 それにつられて、部屋全体の空気も重くなる。


「…………なんで?」


 その瞬間、兄が口を開いた。


 少しぶっきらぼうな。

 それでいて、どこか脅すような、冷たい声。


「ほ、ほら、私たちのお母さんの話はいっぱいしてくれるけど、お兄ちゃん、自分のお母さんの話は全くしてくれないから、ちょっと、聞いてみたくなっちゃって!」


 兄の雰囲気を理解しつつも、華はあえて明るく話した。そして──


「お兄ちゃんは、なんでしょ?」


「…………」


 それは、ずっと避けてきた質問だった。


 だけど、私たちも、ちゃんと知っておきたい。


 お兄ちゃんののこと───…



「さぁ……小さい時のことだから、覚えてないや」


 だが、そんな華の気持ちを知ってか知らずか、兄は、薄く笑みを浮かべて、そう言った。


(……あぁ、まただ)


 兄は、いつもそう。嘘をつく時は、いつも笑って視線をそらす。


「覚えてない」なんて、嘘だよね?


 なんで、話してくれないの?


 昔からお兄ちゃんは、妙に大人っぽくて、全然子供らしくなかった。


 家族にだって、友人にだって、弱いところを全然見せようとしない。


 私たちが、頼りないから?

 守られてばっかりだったから?


 私たちは、お兄ちゃんに甘えられた。

 弱音もいっぱい吐けた。


 でも、お兄ちゃんには、いるの?


 甘えて弱音をはけるような……そんな人。




 ───バタン。


「ただいまー」


 瞬間、玄関のドアが閉まる音がした。


 時計をみると、時間が進み、蓮が帰ってきたのだと理解する。


「お帰り。蓮、部活どうだった?」


 蓮がリビングに入ってくると、兄が一変、にこやかに返事を返して、冷たくなった部屋の空気も、同時に息を吹き返した。


 相変わらずのポーカーフェイス。


 隠し事がうまい兄だから、悩んでいても、辛いことがあっても、気づけない。


「入部したばかりだし、今はまだ基礎しかやってないよ」


 蓮が、兄の問いに答える。


 華はそれを見て、小さくため息をつくと、気持ちを切り替え、いつものように明るく会話に加わる。


「蓮、みてみて~、今日の魚の煮付け! 私が作ったんだよ!」


 華がそう言えば、蓮は手にしていた鞄をソファーに置きネクタイを緩めると、カウンターテーブルから、キッチンの中を覗きこんだ。


「へー 不味そう」


「はぁ!? 食べてから言え!」


「俺が教えたんだから、大丈夫だよ」


 すると、蓮に罵声を浴びせた華をみつつ、飛鳥が口を挟んだ。


「先生がいいのだから、不味いわけがなだろ」


「えー、どうだか? しかし、華も家庭料理にも挑戦し始めたんだな」


「蓮が、覚えろとか言うからでしょ! それに、いつかのために、もしときたいしね~」


「「…………」」


 花嫁修業。だが、その言葉を聞いた瞬間、今度は、空間にピシッと亀裂が入った。


 華が嫁に行く?

 そう、思った兄と弟は


「旦那になる人が、可哀想」


「このレベルで嫁にいったら姑からいびられるから、やめたほうがいいよ」


「えー、ひどっ!!?」


 ここぞとばかりに、華の結婚を阻止しようとする兄と弟に、華が反論する。


 だが、その後、蓮は、ふと航太のことを思い出した。


「そうだ、華。お前、好きな人いるの?」

「え?」


 突然、問われた珍しい質問。

 それを聞いて、今度は華が目を丸くする。


「どうしたの急に……好きな人なんて、いないよ」


「じゃ、好みのタイプは? やっぱり、?」


「「え?」」


 声をあげたのは、華も飛鳥も同時だった。


 蓮の意外な言葉に、二人は思わず顔を見合わせると


「えー、なにそれ! ないない! 飛鳥兄ぃは、絶対ない! こんな人タイプにしてたら、絶対結婚できないし! それに飛鳥兄ぃって独占欲強そう!」


「はぁ!? 俺のどこが、独占欲強いんだよ」


「だって飛鳥兄ぃ、好きな子いじめたくなるタイプでしょ?」


「あーわかる。本当に好きな子の前では素直になれなくて、つい意地悪するくせに、自分以外の人と仲良くしてるのは嫌とか、そんな感じのやつでしょ」


「そうそうー! 超迷惑なやつ!」


「………」


 和気藹々と、話す妹弟の姿に、飛鳥は複雑な心境になる。


 なんで、こんな「超めんどくさい男」だと思われているのか。


「でも、兄貴がタイプじゃないなら、どんな人がタイプなの?」


 だが、そんな兄を無視し、蓮が更に深く問いかけてきた。


「タイプって、言われてもねー」


「芸能人でも身近な人でもいいからさ。具体的になんかないの?」


「うーん……」


 すると華は、暫く考えると


「あ! みたいな人!」


「はぁ!?」


 いきなり飛び出してきた、友人の名前。

 それを聞いて、飛鳥はおもむろに眉をひそめた。


「だって、隆臣さん優しいし、すごく頼りになるし。それに、運動できる男の人ってカッコいいな~って」


「ッ……あいつは、やめとけよ」


「もう、別に隆臣さんが『好き』とはいってないでしょ。好みのタイプの話でしょ?」


「あんな"都大会で優勝するような空手バカ"、そこら辺にいるわけないだろ」


「だから、別に優勝するような人がいいって言ってる訳じゃないし!!」


 キッチンの中で、もめはじめる飛鳥と華。


 蓮は、そんな二人を見つめながら、学校での航太との会話を思いだすと、ほんの少しだけ、申し訳ない気持ちになった。


(榊、ごめん。お前が目指すべきなの、うちの兄貴じゃなかった)



 トゥルルルル───


 するとそこに、電話がかかってきた。


 その音に、三人が同時にリビングに備え付けられた固定電話に目を向けると、その電話の相手が誰なのか瞬時に察した飛鳥が、パタパタとキッチンからでて、受話器を取る。


「もしもし、父さん?」


『飛鳥か? そっちはどうだ?』


「どうって? 特に変わりはないけど?」


 かけてきたのは、ロサンゼルスにいる侑斗だった。だが、急にかかってきた電話に、飛鳥が何事かと首をひねる。


「どうしたの? なにかあったの?」


『あー、別に何もないんだけどね~。声、聞きたくなったって言うか、今すぐ、お前達のこと抱き締めて、キスしたいなーって♪』


「…………」


 大学生と高校生の子供たちを捕まえて、キスまでしたいと言う父。毎度のことだが、さすがにキスは気持ち悪い。


「………病院行ってこい」


 すると、ただ冷静に、そう一言だけ返した飛鳥は、その後、ガチャリと音をたて、受話器を戻した。


「え?! 今のお父さんでしょ!? なんで、切ったの!?」


「大丈夫だよ。病気。今度は抱き締めてキスしたいってさ」


「またかよ! なんで、そんなこと言うためだけに、海外からわざわざ電話してくんのかな。ホームシックなの? いい年して!?」


 あまり想像したくない発言をしてきた父に対して、苦笑いを浮かべる三人。


 そして、その頃、電話を切られた侑斗はと言うと──…



「ちょっと、聞いてー。最近、子供達の塩対応がきつすぎるんだけどさ~、なんでだと思う?」


 突然、切られた電話に虚しさを感じたのか、愛する妻の写真にむかって、一人愚痴をこぼしていたのであった。

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