第81話 死と絶望の果て④ ~決心~


 次の日の朝、施設に預けるための準備を淡々とこなす。


 無心になるしかなかった。

 非情になるしかなかった。


 少しでも、俺が戸惑ったら、きっと子供たちは、不安になる。


 預け先の施設は、決して悪いところじゃない。きっと、二人の未来は、明るいものになるだろうと


 ───ただただ、願う。



 ♦♦♦



「飛鳥。そろそろ、学校に……」


 準備を終えて、子供たちがいる部屋に向かい、飛鳥に声をかけた。


 朝の室内は、まだ少し薄暗い。


 カーテンの隙間から、ほんの微かに朝の光が差し込むその部屋で、蓮と華はまだスヤスヤと寝息をたてていた。


 そして、その前には、その場に座り込み、二人の頭を優しく撫でる、飛鳥の小さな背中が見えた。


「飛鳥、学校」


「……行かない」


 うつむく背中から、小さく声が聞こえた。

 だが、はっきりと聞こえたその声に、俺は、 その背を見つめたまま動けなくなった。


「なに、言って……」


「俺が学校に行ってる間に……華と蓮を、連れて行くんでしょ?」


 飛鳥が、こちらを振り向くことなく、そう言った。


 その視線は、まっすぐに、華と蓮にそそがれていた。


 聞きたくないと、正直思った。


 決心が───揺らぐ。



「ちゃ、ちゃんとお別れをしたい気持ちもわかるが、二人が感づくと余計に辛くなるだろう。だから飛鳥は、学校」


「行かないッ!!!」


 静かな室内に飛鳥の声がこだまして、 また再び静まり返った。


「…ぃか ない……ぜったい…っ」


 声が震えていた。まるで、ここから動かないと、全身で訴えかけているようだった。


 飛鳥の思いが、その声にのって、胸に響いてやるせない。


 でも──


「ッ飛鳥!! わがままを言うな! もう、決めたことなんだッ……それに、みんな言うんだよ!! 子供は──」


「他の人の話なんて、どうでもいいよ!!」


 振り向き叫んだ飛鳥と目が合った。


 その青い瞳には、涙をたくさん浮かべていて、その小さな肩は、ひどく震えていた。


「……本当は、嫌なんでしょ……お父さんも…っ」


「…………」


 心が──痛い。

 これ以上、聞きたくない。


「ちゃんと聞いてよっ……あんな人たちの言葉じゃなくてッ、俺の……俺たちの……ッ」


 大粒の涙が、言葉をつまらせた飛鳥の白い頬を静かに流れた。


 すすり泣く声で、すがるような瞳で見つめられて──


『……ごめんな、飛鳥』


 あの日、飛鳥の小さな手を振りほどいた、あの時の乾いた音が、フラッシュバックするように甦った。


 わかってる。

 わかってるよ。


 今の蓮の華は、あの時の──飛鳥だ。


 聞くべきなのは、他人の言葉じゃない。

 本当に、聞かなきゃいけないのは―――


「華と蓮……お父さんのこと、すごく心配してたよ? 早く、元気になってほしいからって絵、描いて……お母さん死んじゃって、本当はもっと甘えたいのに……いっぱい、我慢して…ッ」


「……」


「ちゃんと、聞いてよ。子供だからって、大人が勝手に決めないでよッ!!」


「……ッ」


 飛鳥の悲痛な叫びは、俺の心を更に締め付けた。


 俺は今、この子達の気持ちを無視して、華と蓮を連れていこうとしている。


 眠る華と蓮を背に、泣きながら叫ぶ飛鳥のその小さな姿は、必死に二人を──家族を、守ろうとしているようにみえた。


「飛鳥……っ」


「俺たちは……お父さんと……一緒にいたいッ」


「…………」


「ッだから…ちゃんと、生きて……俺たちと一緒にいて…ッ!」


 ────生きて。


 その言葉を聞いて、よく俺のもとに、食べ物を持って、様子を伺いに来ていた飛鳥の顔を思い出した。


 悲しそうな、辛そうな、心配するような、そんな顔をしていた。


 食事もとらず、ただ呆然とする俺をみて、怖くなったのかもしれない。


 俺が──いや、俺死んでしまうと思ったのか?


 何度も、声をかけに来た。

 何度も何度も何度も


 確かめるように、その手で触れてきた。


「………っ」


 許された───気がした。


 他の"誰が"許してくれなくても、俺は、この子たちの側にいてもいいのだと──


「…ぅ…、う……ぁ…すか…ッ」


 その瞬間、崩れ落ちるように膝を折り、その場に座り込むと、溜め込んでいた思いをぶちまけるように、次々に言葉が溢れだしてきた。


「…ご めんっ、ご、めん…俺ッ…どうしたらいい?…もう、わからないんだよ!…ッ、仕事もしなきゃ、お前たちを食わせていけない…でも、預けられる人も、場所も見つからない…!」


「……」


「俺だって、嫌だ…っ、本当は…手放したくないんだ…でも…でも、俺一人じゃ… もう……もう、どうにも…できない……ッ!」


 どうすればいい?

 どうしたらいい?

 こんなこと言って、何が変わる?


 俺は、なんてダメな父親なんだろう。


 一緒にいたい──そんな、我が子の些細な望みすら、今は


 叶えてやれる、自信がないなんて──…っ



「……一人じゃないよ」


「……っ」


 瞬間、涙を流し、嗚咽混じりに訴える俺の声を聞いて、飛鳥は、まっすぐに俺を見上げて、言葉を放った。


「一人じゃないよ。俺も…いるよ…っ」


「……」


「母親が必要なら…俺がなるッ…お父さんが…仕事で忙しいなら……俺がずっと…二人の側にいるから……っ」


「……」


「だから、華と蓮を連れてかないでッ……俺、もう──家族と離れるのは、いやだ……ッ」



 消えるような小さな声で、苦しそうに訴えたその言葉は、俺の心に、深く深く染み込んできた。


「家族」を失って

「大切な人」を失って


 悲しいのは、苦しいのは、俺だけじゃない。


 華も蓮も、そして、飛鳥も、みんな


 ────みんな、辛いに決まってるのに。



「ッ…うぅ、あす、か……ご、めんッ…ご、め…本当に…ご めんな…ッ!」


 飛鳥のその瞳から、また涙が流れたのを見た瞬間、俺は、その小さな体を、強く強く抱き締めていた。


 だれも、許してくれない。

 だれも、認めてくれない。


 子供達との未来なんて、誰も望んでくれない。

 

 でも──


 それでも、この子たちは、俺と一緒にいたいと言ってくれる。


 他の誰でもなく、俺を選び、俺といることを望んでくれる。


「ッ…ぅ……うぅ、っ」


 どれだけ、泣いただろう。

 どれだけ、謝っただろう。


 泣いても泣いても、謝っても謝っても

 涙は止まらず


 ただ、ひたすら飛鳥は抱き締めたまま

 泣いて泣いて泣いて泣いて


 愚かさな自分を、責めて責めて責めて、責めまくった。


 突然、妻に亡くし、俺は 一人絶望の淵にいた。


 でも、そんな俺を助けてくれたのは


 こんな俺を唯一、引きとめてくれたのは




 ────飛鳥だけだった。






「飛鳥…俺…もぅ…絶対…ッ…お前たちを、手放すなんて、言わない、から──…ッ」


 朝日が差し込む部屋の中。


 嗚咽混じりに放った、俺のその言葉を聞いて、抱き締められたまま、ずっと話を聞いていた飛鳥は、俺の腕の中で、小さく小さく「うん」とだけ発して頷いた。


 どこか安心したような、その飛鳥の声を聞いて、俺の目には、また涙が溢れてきた。


 ──── 俺は一人じゃない。


 俺には、こんなにも、優しくて温かな我が子が、3人も側にいてくれる。


 そう思ったら、不思議と乗り越えられる気がした。


 この子達を守るためなら

 この子達が側にいてくれるなら



 ──きっと強くなれる。



 そんな気がした。



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