第311話 恋と絆


「飛鳥兄ぃ!」

「……!」


 12月24日の夜。夕飯の準備をしていた飛鳥は、隣で手伝っていた華に突然、呼びかけられた。


 目の前の皿に出来上がった料理を盛り付けながら、何やら考え事をしていた飛鳥は、その声に、止まっていた手を再び動かし始める。


「あ、ごめん」

「どうしたの、ボーっとして」


 上の空な兄に、華が首を傾げる。帰ってきてから兄は、ずっとこの調子だからだ。


「いや、ちょっとあかりのこと考えてたけだよ。アイツ今日、一人で過ごすのかなって」


「…………」


 どうやら、あかりさんの心配をしているらしい。すると華は、その言葉に少しばかり表情を曇らせた。


 華とて、少しは考えたのだ。

 あかりさんを、家に誘うべきかどうか。


 来てくれたらエレナも喜ぶだろうし、兄との仲も少しは進展するかもしれない。


 だが、父とは初対面だし、蓮とも話したことがないし、いきなり家に誘うのは迷惑かもしれない。


 そんなことを考えて結局誘えず、なんとか兄に送っていけと、けしかけたのだが、あかりさんには、断られてしまった。


「ていうか……飛鳥兄ぃ、まだ自覚してないの?」


 心の中がもやもやして、華は念押しして問いかけた。すると、核心をつくような華の言葉に、飛鳥は動かしていた手を再び止めると


「そんなに睨むなよ。もう、気づいてるよ」


「……え?」


 瞬間、華は瞠目する。


 気づいてる?


「えぇ!? 嘘!! いつ!? いつ気づいたの!?」


「さっき。病院で」


「えーほんと!? 何で気づいたの!? きっかけは!?」


「……っ」


 まるで噂好きの主婦みたいに根掘り葉掘り聞いてくる華に、飛鳥は呆れかえる。だが……


「今日……久しぶりに会って、顔みたからかもしれないけど……」


「うん」


「なんか、安心したって言うか、隣にいるのが、すごくしっくりきたっていうか……あー、って」


「……っ」


 たんたんと話しつつも、いつもとは違う兄の表情にドキッとして、華は顔を赤らめた。


 分かってはいた。

 でも、直接そんなふうに言われると


(うわ、なにこれ。すごく恥ずかしい……っ)


「好き」だとハッキリと口にした兄に、酷く狼狽えてしまった。


 だが、自覚したのだ。

 兄がついに、あかりさんのことを──


「じゃぁ、会いに行ってあげればいいじゃん」


「え?」


「そ、そんなに心配なら、会いに行って一緒にいてあげればいいよ。私たちのことなら気にしなくていいし……ていうか、もうクリスマスも誕生日も、一緒に居てくれなくていいから。だから、これからは、あかりさんのことを"一番"に考えて」


「…………」


 兄と目を合わさぬまま、華はそう口にして、だが、自分で言ってて涙が出そうだった。


 大好きな兄に、好きな人が出来た。

 家族以外に、大切な人ができた。


 すごく、喜ばしいことなのに、不思議と胸が苦しくなるのは


 きっと、自分たちが


 もう、兄の"一番"じゃなくなったから……





「……華」

「!」


 瞬間、飛鳥が華の両頬に手を触れると、そのまま顔をあげさせられた。


 近い距離で目が合えば、兄の綺麗な青い瞳が、どこか心配そうに揺らいでいるのが見えた。


「泣きそうな顔して、なにいってんの?」


「な、泣きそうじゃないし!! 別にお兄ちゃんに、彼氏とか彼女が出来ても、全然寂しくないし!!」


「彼氏はできないよ」


「わかってるよ!!」


 必死に虚勢を張って、弱い心をぐっと押さえ込んだ。


 ダメだ。

 ここで泣いたりしたら、絶対にダメだ。


 私が泣いたら、お兄ちゃんが進めなくなっちゃう。


「そんな、意地悪言うなよ」


「……え?」


「俺にとっては、お前たちのことも大事なんだから……


「……っ」


 だが、その瞬間、兄がボソリと呟いて、二人の額がそっと触れ合った。


 幼い頃から変わらない兄の優しい香りが鼻腔を掠めれば、それは同時に決心を鈍らせる。


 ──まだ、行かないで。


 小さい子供のような自分が、心の中で泣きじゃくって、涙の壁を壊そうとしてるみたいだった。


 大人になれ。成長しろ。

 いつまでも『今』にすがりつくな。


 子供の自分に必死に言い聞かせて、華はぐっと奥歯を噛み締めた。


 泣いちゃダメ。

 だって、それじゃぁ──


「それじゃぁ、あかりさんの一番にはなれないかもしれないじゃん!」


「……!?」


 揺らぐ心を噛み砕いて兄を見上げれば、兄は少し驚いた顔をしていた。


「この際だからはっきり言うけど、あかりさん、お兄ちゃんのこと1ミリも好きじゃないよ!」


「ホント、はっきり言ったな……!」


 思ったよりグサリと刺さる言葉が返ってきて、飛鳥が珍しく狼狽える。だが、それでも華は止まらない。


「だって、あかりさん、私に言ったんだもん。『お兄さんのこと、絶対に好きにならないから安心して』って……それって、あかりさんにとっては、友達以上にはなる気がないってことでしょ! そんな人を振り向かせたいって思うなら、誰よりも一番に考えてあげなきゃダメに決まってるじゃん!!」


「………」


 瞬間、辺りはシンと静まり返った。


 華に触れていた飛鳥の手がゆっくりと離れると、いつになく真剣な表情をした兄に、華は心を砕きながら打ったえる。


「私、お兄ちゃんには、誰よりも幸せになってほしい。だから、もう一番じゃなくていい……っ」


 必死に絞り出した華の声は、少しだけ震えていた。


 今まで、たくさん愛されてきた。

 守られてきた。


 私たちに向けられていたその愛情が、全部あかりさんに向かえば


 もしかしたら、あかりさんも、お兄ちゃんのこと好きになってくれるかもしれないから──


「一番が、いちゃいけないの?」


「……え?」


 だが、不意に放たれたその言葉に、華は瞠目し、飛鳥は驚く華を見つめながら、またゆっくりと話し始めた。


「俺、ずっと"大切な人"は増やしたくないと思ってた。また守れなかったら、次は立ち直れないと思ってたから……だけど、今日あかりに『大切な人って、いつの間にか増えてるものだ』っていわれて、改めて考えてみた。『友達なんていらない』と思ってたのに、いつの間に隆ちゃんと友達になってて、隆ちゃんを通して、美里さんや昌樹さんとも仲良くなって、そこに武市くんも加わって……華や蓮の友達も大事だよ。葉月ちゃんとか、榊くんとか。父さんのことも、もちろん親として大事だし、そこにまた、妹としてエレナが加わった。増やしたくないと思ってたはずなのに、今、俺の周りには、がたくさんいるんだよ」


 そう言った兄の表情は、とても穏やかだった。


 その優しげな表情と声に、華の目にはまた涙が滲みそうになった。


「今回のことで、色々気付かされた。人って、守るものがたくさんあった方が、いざと言う時、すごく強くなれるものなんだって……それは、俺一人の力じゃなくて、俺の大切な人達が、みんなして俺を支えて、俺の大切なものを守ろうとしてくれて……そういった『人の輪』が、強さの元になるんだって分かった」


 周りに迷惑かけないように、一人で抱え込んで

 一人で強くならなきゃと息巻いて


 だけど、どうしても限界があって、増やすのを怖がっていた。


 でも、結局人は、一人じゃ強くなれない。


 誰かに寄りかからなきゃ

 誰かと力をあわせなきゃ


 大切なものどころか


 きっと、自分すら──守れない。



「俺に守りたいものが沢山あるように、俺の大切な人達にも、それぞれ守りたいものがある。だから俺も、その大切な人達が、大切だと思うものを、一緒に守れるような人間になりたい。だから、もう大切な人を増やすのが、"怖い"なんて思わないよ。あかりが一人増えたからって、誰かを投げ出したりもしない。華のことも、あかりのことも、同じくらい大事にしたいと思ってる。だから……だから、ってことにしちゃ、ダメかな?」


「……っ」


『大切なものに、優劣なんてつけない』そう言った兄は、伺うように小首を傾げると、そっと華の頬に触れた。


 すると、その触れた指先の優しさに、華のふと幼い頃をおもいだす。


『華のことは、俺がずっと守ってあげるよ。華は俺の大事な大事な妹なんだから』


 泣いている自分の涙を拭いながら、そう言ってくれた兄のこと。


 兄は、あの頃と何も変わらない。


 妹が一人増えても

 好きな人が出来ても


 今でもずっと、自分を大事にしてくれる。


「っ……そんな甘いこといってて、フられてもしらないから」


「はは、そうだね。その時は、みんなに慰めてもうよ……俺はもう、じゃないから」


 華が悔し紛れにそう言えば、飛鳥は軽く笑って、また華を見つめた。


 きっとこの先、自分は独りにはならないと、何となくわかった。


 ずっと、話したら失うと思ってた。

 だからこそ、隠しとおそうとしてた。


 だけど、華たちは拒絶することなく、俺を受け入れてくれた。


 失うのが怖がった。

 変わるのが怖かった。


 だけど、一度変わって


 この絆は、前よりもずっとずっと



 ────強くなった。




「ありがとう、華。俺の幸せを願ってくれて……」


 飛鳥がそう言えば、涙目になった華の涙を、飛鳥は、またいつものように拭ってやった。


 それは、まるで『今までと変わらないよ』と


 そう華を、慰めるように──…







 ◇


 ◇


 ◇


「父さん、どうしたの?」


 その頃、リビングに続く扉の前、立ち往生していた侑斗に蓮が声をかければ、侑斗は部屋から出てきた蓮とエレナに向かって、にこやかに返事を返した。


「いやー、入るタイミング逃しちゃって……」


「「?」」


 トイレから戻ってきたら、中から少し深刻な華と飛鳥の声が聞こえてきて、入り損ねてしまった。


 ちなみに、蓮とエレナは今まで自室で勉強をしていたみたいなのだが……


「そろそろかな……」


「え? なにが?」


 どこか寂しそうに、だが嬉しそうにも見える侑斗のその表情を見て、蓮が問いかければ、侑斗は蓮の頭を撫でながら、またニコニコと笑う。


「いや、なんでもない。今日は、楽しいクリスマスにしような」


「ちょ、なんなんだよ……!」


「?」


 迷惑そうな蓮と、意味が変わらないと首を傾げるエレナをみて、侑斗はまた微笑む。



 きっと、もうすぐだ。


 この子たちが、のも──



(ゆりなら……なんて言ってやるだろう)


 未来に進む子供たちに──


 侑斗は、最愛の妻のことを思い浮かべながら、また穏やかに笑った。


 それは、とても慈しみに満ちた、優しく温かな表情だった。


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