第309話 飛鳥とあかり

「今度、あかりの家に行ってもいい?」


 少し意地悪そうな笑みを浮かべて、そう問いかけてきた飛鳥を見て、あかりは目を見開いた。


 家に──その一言に一瞬、躊躇する。


 今までにも何度か家に来たことはあったし、断る理由なんて、ないはずなのに……


と一緒に」

「──え?」


 だが、続けざまに放たれたその言葉に、あかりは再び飛鳥を見上げた。


「エ、エレナちゃんと?」


「うん。実はエレナも、あかりと同じように気にしてるみたいなんだよね。あの日、あかりを巻き込んだこと」


「え?」


「本当は、今までみたいに会って話をしたいみたいだけど、あんなことがあった後だし、もう付きまとうのは良くないかなって、色々躊躇してるみたい」


「っ……」


 そう言われ、あかりは手にしたココアをキュッときつく握りしめた。


 あの日エレナは、あかりに『助けて』と電話をしてきた。だけどまさか、それを、まだ気にしていたなんて──


「そんな、私は……っ」


「まぁ、エレナの気持ちもわかってやってよ。あの人から、あんな剥き出しの悪意を向けられて、あかりも相当怖かっただろ。たとえ、その人自身に問題がなくてもさ。その人の親とか身内にやばい人がいたら、大抵の人は距離を置こうと思うよ。でも、それって当たり前のことだと思う。みんなそうして自分を守ってる。……だから、もしかしたら、あかりも『俺たちから離れたいと思ってるかもしれない』って考えたら、エレナも、迂闊に会いたいなんていえなかったんだと思う」


「…………」


 重苦しい話に、心が沈む。


 LINEの中のエレナはいつもと変わらなかったから気づかなかった。だけど、あんな小さな子に、そんな気を使わせていたなんて……


「距離を置きたいと思っていたら、わざわざ、ここに来たりはしません」


「……だろうね。わかってるよ。あかりがそんなこと思ってないのは。だからさ、もしこれからも、俺たちと今まで通り接してくれるっていうなら、今度、美味しいケーキ持ってエレナと一緒に遊びに行くから、あかりは、前に俺に淹れてくれた紅茶でもご馳走してよ。それで、巻き込んだとか、怪我させたとか、お互いに気にし合うのはナシってことで」


 どう?──と、その後、伺うように優しく微笑んだ飛鳥を見て、あかりはキュッと唇を噛み締めた。


 責任を取れとか言って、結局、自分とエレナのことを気遣っているのだと分かったから。


(なんで、躊躇したんだろう……)


 躊躇う必要なんて。断る理由なんて、始めからないはずなのに……


「はい。……遊びに来てくれるの、楽しみに待ってます」


 その後、冷たい風が緩やかに吹きぬければ、あかりが笑って返事をしたと同時に、柔らかな栗色の髪がサラサラと揺れた。


 一人分間隔をあけてベンチに座って、目が合えば、自然と笑いあった。


 その場の空気は、こんな寒空の下でも、不思議と温かくて……


(やっぱり、この気持ちは……そういうことなのかな)


 あかりの笑顔をみて、あかりの返事を聞いて、自然と胸が高鳴った。


 そんな自分に──戸惑う。


 今まで、ずっと避けてきたのは『今』を変えたくなかったからで


 誰かを『本気』で好きになってしまったら、今まで、大事にしていた物が、一番ではなくなってしまうかもしれない。


 それを、分かっていたはずなのに、こんな『感情』を抱いてしまった自分に大きな戸惑いを覚えた。


「でも、紅茶だけってのは、さすがに甘すぎませんか?」


「え? そう? じゃぁ、コーヒーも追加で」


「そういう話じゃなくて!」


 だが、少しだけ腑に落ちないのか、あかりはどこか複雑な表情で、また話しかけてきて、飛鳥は飲みかけのココアを飲みながら答えた。


「なに? 不満?」


「不満ではないですけど……もっと難しい注文をされるかと思っていたので、すこし拍子抜けしたというか、紅茶これだけでいいのかなと……」


 痕が残るかもしれない怪我を、紅茶をご馳走するくらいですませていいのかと、あかりは思っているのかもしれない。


「そんなこと言ってると、もっと難しい注文しちゃうよ?」


「っ……で、できるかわかりませんが! 一応お聞きしても?」


(……聞くんだ)


 これで、とんでもない無理難題が飛び出したらどうするつもりなのか?


 ちょっと意地悪したい気持ちも芽生えたが、それを抑えつつ、飛鳥は考える。


(あかりに……して欲しいことか)


 久しぶりに飲んだ自販機のココアは、いつもより甘い味がして、だけど、それを全て飲み干した飛鳥は、缶をベンチの上に置くと、改めてあかりを見つめた。


 あかりに、して欲しいことなんて、今は、これしか思い浮かばなくて……


「あかり──」


 名前を呼んで、ベンチに片手をついて軽く身を乗り出すと、あかりの耳元に、これでもかと唇を寄せた。


 誰にも聞こえないように


 だけど、あかりにだけは




 しっかりと届くように……




「──────」


「………!」


 甘い吐息に混じって、素直な言葉を囁けば、その後、鼓膜を伝って、あかりの中にしっかり届いたのが分かった。


 微かに空気が変わって、その後、一瞬の沈黙の後、名残惜しく思いながらも、近くなった距離をゆっくりと離す。


 すると──


「飛鳥さーん!」


 どこからか、エレナの声が聞こえてきた。


「おかえりエレナ。どうだった?」


「うん。30分なんて、あっという間だった」


「まー、そうかもね」


「あ! あかりお姉ちゃん、来てくれたの!」


 すると、エレナもあかりの存在に気づいたらしい。笑顔が増したエレナは、飛鳥の前を横切り、あかりの傍に近づく。


 だが……


「あれ、どうしたの? お姉ちゃん、顔真っ赤だよ?」


「……っ」


 顔を赤くし、恥ずかしそうに固まったままのあかりを見て、エレナがそう問いかければ、その光景を見て、飛鳥は小さく笑みを浮かべた。


 自分の感情に、戸惑った。


 今までずっと、他人を愛せない人間だと思っていて、そんな自分に焦りを感じた時もあったけど、同時に安心もしていた。


 自分が変わらなければ、今ある世界は変わらない。


 ずっと華と蓮を一番に思う『兄』のままでいられる。


 そう、思っていたから──





 だけど……




『これからもずっと、俺の隣にいて──』




 できるだけ近づいて、耳元で囁いたあの言葉は、紛れもない、今の自分の本心で


 なにより、戸惑っているのは


 珍しく赤くなったあかりが


 思いのほか、可愛かったことと


 今ある世界が、変わってしまうかもしれない。



 そんな不安は、確かに抱えているのに




 きっと、もう──



 この感情を止めることは、出来ないのだろうと




 恥ずかしくなるくらい






 悟ってしまったことかもしれない。







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