第308話 『0』と『1』


「神木さんは、ミサさんには会わなかったんですね……」

 

 自販機の前で、あかりが飛鳥を見上げながら問いかけた。


 飛鳥はその言葉を聞きながら、ココアの缶を自販機から二本取り出すと、そのうちの一本をあかりに差し出しながら答える。


「うん、まだ上手く整理がつかなくて……はい、熱いから気をつけて」


「あ、ありがとうございます。奢って頂いて……」


 差し出された缶を手にとると、それは確かにまだ熱かったが、その熱はじわりじわりと肌に馴染んで、冷たい手を温めてくれた。


「俺、ずっとあの人のことだったんだ」


 すると、ベンチに移動しながら、飛鳥がぽつりぽつりと話し始めた。


 幼い日の記憶を思い出しながら

 忘れたかった記憶を遡りながら


「子供の頃は、毎晩のようにうなされててさ、自分の顔があの人に似ていく度に、すごく怖くてなって、鏡が見れなくなった時期もあった」

 

 ──怖かった。

 あの人のことが、怖くて怖くて仕方なくて。


 できるなら、もう二度と、会いたくないとすら思っていた。


「でも、まるで"俺のためだった"みたいな言い方されて……ワケわかんなくなっちゃった」


 ベンチの前につくと、飛鳥はその左側に腰掛け、あかりも、遅れて飛鳥の隣に腰掛けた。


 缶をあけて、一口だけココアを飲んで、その後、穏やかに、ゆっくりと話す飛鳥の隣で、あかりは、ただ静かにその話に耳を傾ける。


「俺、モデルになりたいとかいったのかな?」


「覚えてないんですか?」


「全く……」


 幼かったからかもしれないけど、忘れたい嫌な記憶ばかりが鮮明に残りすぎていて、何気ない日常の会話なんて、ほぼ無いに等しい。


「でも、エレナと同じで、俺も『嫌だ』って言わなかったのは、確か……」


「………」


「あの人、俺と父さんの写真、今でも持ち歩いててさ。スマホのパスワードも俺の誕生日だったりして……あの人の荷物整理しながら、ずっと考えてた。アレは、だったのかなって……」


 空を見上げて、ポツリと呟いた。


 幼い日の記憶は、悲惨なものばかりで。だけど、もしあれが全部、あの人なりの愛情だったのだとしたら


 なんだか凄く────胸が苦しくなった。



「エレナは、許して欲しいみたいで……許して、会いに行ってあげるのが一番いいのはわかってたんだけど……ゆりさんのこととか考えると、やっぱりまだ許せなくて。結局、ここまで来て、逃げて来たみたいな……心狭いとか言うなよ。わかってるから」


「……そんなこと言いませんよ。心狭いだなんて、思ってるんですか?」


「そりゃ……一応、これでもだし」


 空は、どこまでも青く澄み渡っていて、この空みたいに、自分の心も、まっさらにできたらよかったのに。


 結局、心に残るしこりは、今も消えないままで……


「今は、それでいいんじゃないでしょうか?」


「え?」


 だけど、あかりが小さくそう言って、飛鳥は視線を向けた。


「息子だからって、必ず親を許さなきゃいけないってことはないと思います。近い関係だからこそ許せないこともあるでしょうし。……それに、仮にミサさんのその行いが、愛情からくるものだったとしても、


「……」


「だから、今すぐに答えを出さなくても、を見て、ゆっくり考えていけばいいんじゃないでしょうか? 100の信用が0に落ちるのは、あっという間でも、0に落ちたものを1に上げるのは、そう簡単なことじゃありません。それでも、今まで"嫌いだった人"を、"絶対に許せなかった人"を、あなたは今、許そうとしていて……に転じただけでも、それは、とても大きな進歩だと、私は思います」


「…………」


 じわり、じわりと──


 あかりの柔らかい声は自然と耳に馴染んで、沈んだ心に、ゆっくりと染み込んだ。


 一人分間隔をあけて、ただただ隣で微笑むあかりの姿に、身体の奥が自然と熱を持ち始めた。


 どうして、あかりの言葉は、こんなにも、胸に響くんだろう。


 どうして、あかりの隣は


 こんなにも

 こんなにも


 心地いいんだろう──…




「お前……時々、俺にすごく甘いよね?」


「え? そうですか?」


「うん。許そうかどうかで悩んでるのに、今のままでいいとか、甘やかしすぎ」


「あはは。確かに、そうかもしれませんね。でも、神木さんは、色々と考えすぎなんですよ。覚えてますか? 前に公園で、私が神木さんのこと怒らせちゃった時のこと」


 そういわれ、ふと思い出した。


 初めてエレナに会ったとき、あかりとその後、話をしたことがあった。


 今と同じように、二人ベンチに座って──


「あー、もしかして、あれ……俺が図星つかれて一方的に怒って帰った」


「そう、それです。『そんなに大切な人増やしてどうすんの?』って、なぜか怒られて『大切な人を増やすのが、怖いんですか?』と返したら、神木さん、怒って帰っちゃったんです」


「……っ」


 なんか、改めて言われると、ものすごく大人げないし、恥ずかしい!!


 できるなら、今すぐ記憶から抹消したいくらいだ!!


「も、もしかして……根に持ってる?」


「まさか、根に持ってなんかいません。今思えば、神木さんが怖がっていた理由がよく分かりましたから。そして、恋人を作らないのも、それが原因なんだなって……でも、それだけ、あなたにとって、を失ったのは辛いことだったんですね」


「……っ」


 悲しげに笑ったそのあかりの表情が、またゆりさんに似ていて、胸が苦しくなった。


 大切だった。

 失いたくなかった。


 どれだけ、ゆりさんに救われたかなんて、言葉では言い表せないくらいで


 でも──


「でも、私思うんです。……」


「え?」


 不意に入り込んできた言葉に、飛鳥は目を見開いた。


「エレナちゃんのこと、助けたいって必死でしたよね? きっと、神木さんにとってエレナちゃんは、もう、に、なっていたんじゃないですか?」


「…………」


 言葉が脳内に届くまで、少しだけ、時間がかかった気がした。


 だけど、それは、またゆっくりと心にしみて、自分の感情に囁きかけてくる。


 ずっと、増やしたくないと思っていた。


 もう、取りこぼしたくなかったから。

 もう、失いたくなかったから。


 失って、後悔するのが、嫌だったから。


 だけど──


 その言葉に、これまで出会った、大切だと思える人達の姿が次々と、蘇ってきた。


 華や蓮だけじゃない。


 今の自分には、いなくなって欲しくない人達が


 ───たくさんいる。




「そっか、俺……大切な人、増やせてたんだ……っ」


 ただ、小さくそう口にして、また隣にいるあかりを見つめ返した。


 そして、その中には、もう、あかりも含まれているんだと思った。


 あの時──


 あの人の家の前で立ち尽くして、動けなくなったあの時、心は完全に子供の頃に戻っていて、恐怖が全身にかけめぐった。


 だけど──


『ミサさん、落ち着いてください……!』


 あかりの声が聞こえた瞬間。


 あの人があかりを、ゆりさんと間違えてるのだとわかった瞬間。


 恐怖に支配された身体が、自然と動きだした。



 失いたくないと思った。



 絶対に、傷つけたくないと思った。




 これから先も



 ずっと、俺の傍で





 ──笑っていて欲しいと思った。





『あかりさんのこと、好きなんじゃないの!』



 すると、ふと華から言われた言葉を思い出して、缶を握りしめた手に力が入った。


 今朝、父に問われた時にも、あかりの姿を思い出した。


 今でも、華と蓮が大切なことにかわりはないはずなのに、なぜか、それと同じくらい


 自分の中に、あかりがいるのがわかった。



(そっか、俺……)






 、なんだ。





 あかりのことが────






「……あ!」


 すると、その瞬間、何かを思い出したようにあかりが声を上げて、また俺を見つめ返してきた。


「そういえば、腕の怪我は、もう大丈夫なんですか?」


「…………」


 その言葉に、怪我をした腕に視線を落とす。


 もう、包帯は取れたけど、傷口を見せたら、あかりは、また落ち込むのかもしれないと思った。


「お前、まだ気にしてたの? 気にするなっていったはずだけど」


「気にしますよ。跡が残るかもしれないのに……っ」


 申し訳なさそうに視線を落としたあかりに、かすかに胸の奥がざわついた。


(心配してるんだ。俺のこと……)


 今までと何も変わらないはずなのに、自覚したせいか、心配してくれることに、妙なくすぐったかった。


「たいした怪我じゃないし」


「でも、あんなに血がでてたのに……っ」


「そうだしても、縫う程じゃなかっただろ。直に傷口も目立たなくなるよ」


「でも……っ」


 それでも、自分が原因で出来た傷だからか、あかりは気にしている様子だった。


 この先、あかりは、ずっと俺の腕のことを気にして生きいくのだろうか?


 そんなことを考えていると、ふと、思いついた。


「じゃぁ……とってくれる?」


「え?」


「俺が、怪我した……責任」


 横に座るあかりに顔を近づけて、クスリと微笑みかけた。


 あかりは、そんな俺の顔を見て、少しだけ青ざめた後、手にしていたココアの缶を両手できゅっと握りしめる。


「わ、私にできることがあるなら、なんでも……っ」


「……へー」


 男相手に「なんでもする」なんて言うあたり、あかりは、まだ俺のことを"女友達"としか思ってないのかもしれない。


 その返答には、すこしだけ複雑な心境になった。


 だけど──


「じゃぁさ……」


 俺は、あかりの目をまっすぐに見つめると



「今度、あかりの家に行ってもいい?」




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