第9章 偏愛と崩壊のカタルシス【過去編】
第115話 偏愛と崩壊のカタルシス① ~写真~
その日の夜───
飛鳥は風呂上がり、タオルで髪を乾かしながら部屋まで戻ると、その扉をバタンと閉めた。
月明かりが差し込む薄暗い部屋の中を進み、ベッドの前までくると、深くため息をついたあと、ベッドの上に腰かけ、そのままドサッと仰向けに横になった。
見慣れた天井に、いつもの部屋。
やはり、ここが一番安心する。
その後、スッと息を吸い、再びため息をつくと、飛鳥ゆっくりと目を閉じた。
「疲れた……」
なんだか、今日はすごく疲れた。
昼間の出来事を思いだすと、飛鳥は再び目を開き、自分の手のひらを見つめた。
今日は、あの人「紺野ミサ」を見かけた。
俺をこの世に産み落とした、正真正銘血の繋がった、俺の母親。
見た瞬間、息が止まる思いがした。
血の気が引いて、手が震えはじめて、気がつけば、あかりの腕を掴んでいた。
もう、何年あっていないだろう。
遠い昔のことなのに、あんなに幼い頃のことなのに、あの姿も、あの声も、あの言葉も、いまだに忘れることなく、はっきり覚えてる。
嫌な記憶ほど消えることはなく、楽しかった記憶は、まるで上書きされたかように思い出せない。
なんて、皮肉な話だろう。
「あんなに、震えてたのに……」
頭上にかざした手を見つめて、飛鳥は小さく苦笑した。
夕方は、思い出すだけで震えた手が今は不思議と大人しいままだった。
ふと、思い起こせば、しがみつき震える自分の背を、あかりがずっと擦ってくれていたのを朧気に思い出した。
誰かに側にいてほしかった。
恐怖で身体が震えて、一人ではどうにもならなかった。
もし、一人だったら、どうなっていたか自分でもわからない……
「あかりの……おかげ、か……」
震えぬ手を見つめて、再び呟く。
『私にもあるんです。忘れたくても忘れられなくて、苦しんだことが……』
すると、ふとあかりの言葉を思い出した。
忘れたくても、忘れられなくて、ずっと出口が見つからなかった俺に、あかりが、わずかに光をくれた気がした。
忘れられなくても、その記憶を克服する方法。
あの時の、どこか悲しげに笑うあかりの姿が、やけに印象的だった。
あかりには、どんな「忘れたかったこと」が、あったんだろう。
もし、あかりが、その忘れたかったことを、誰かに打ち明けることで「克服」出来たのなら……
誰かに話しを聞いてもらうことで、前に進めるように、なれたのなら
俺にもできるだろうか?
あの嫌な過去を、いつの日か
「忘れたかった記憶」にすることが──
「……」
手を下ろし再び天井に視線を向けると、自分の妹弟のことを思い浮かべ、少しだけ悲しげな表情を浮かべた。
『兄貴、俺たちになにか、隠してることとかない?』
ずっとずっと隠し続けてきたけど、華と蓮にもいつか話すと伝えた。
話した後のことを考えると不安だけど、同時に、もう逃げないと覚悟することもできた。
でも、伝えるためには、まずは、話せるようにならなきゃいけない。
話せるようになるためには、思い出したくないと閉ざしてきた心の蓋をこじ開けて
俺自身が過去と、向き合わなきゃいけない。
その後、天井に向けていた視線を、横に流すと、飛鳥はクローゼットの方を見つめた。
少しだけ顔を歪めて、むくりとベッドから起き上がると、立ち上がりクローゼットの前まで進む。
観音開き式のクローゼットの戸を開けると、ほとんど開けることのない収納ケースを一つ中から引っ張り出すと、その箱の中、更に奥深くにしまっていた缶ケースを取り出した。
よくお菓子が入っているような、A5サイズくらいのシンプルな小ぶりの缶ケースだ。
決して封を開けないようにと、ガムテープで目張りされたそれを、冷ややかに見つめれば、自分がどれだけ、これを開けるのを拒んでいたのかがよくわかる。
飛鳥は、一度床に座り直すと、その缶ケースを見つめ封をほどきはじめた。
布製のガムテープで目張りされたそれは、月日がたったせいか、しっかりと張り付き、剥がすのが少し困難だった。
粘着部分が缶から剥がれる音を呆然と聞きながら、無心になり、ガムテープを全て引き剥がした。
薄暗い室内。だが、電気をつける気にはなれなかった。
正直、明るいところで、直視したくない。
この中には、あの人「神木ミサ」に関わるものが入っている。
この家にある「俺の母親」に関する唯一のもの。
他のものは、全て処分した。
父が、処分してくれた。
俺の目に触れないように、俺が思い出さないように、写真や手紙も
────全て。
だけど「これだけは処分できなかった」と、海外転勤が決まったとき、父が、俺に直接手渡してきた。
高3の夏だった。
髪も伸びて、俺は更にあの人に似てきて、だけど、もう鏡を見ても平気になっていたころ、突然、手渡されたそれに、一瞬、視界が真っ暗になった。
結局、そのあと、捨てることもできず、だからといって見ることもできず、缶ケースの中に閉じ込めて奥深くに仕舞い込んだ。
俺の「弱さ」の象徴のようなもの。
「はぁ……」
飛鳥は、今一度深く息をつくと、その缶ケースに手を伸ばす。
力をいれて、缶ケースの蓋を開けると、缶がすれる独特の音と共に、中に見えたのは……
「神木 飛鳥」と書かれた母子手帳と、一枚の写真───
「……っ」
缶ケースの中を見つめて、飛鳥はぐっと唇を噛み締めた。
正気を保とうと、一旦缶ケースごと床に置くと、一息ついてから、中に入っていた写真を手に取った。
全て処分した写真の中で、唯一残っていたこの写真は、母子手帳に挟まっていたものらしい。
写真の中には、若い頃の父と、母であるミサの姿が写っていた。
そして、母の腕に抱かれているのは、他でもない。まだ、赤ちゃんだった頃の自分の姿。
この頃はまだ、二人は仲睦まじい夫婦で
きっと、絵にかいたような「幸せな家族」だったのだと思う。
だけど────
「昔は、大好き……だったのに……」
記憶はずっと遡る
大好きだった母は
いつしか
恐怖の対象へと変わった
これは、今から16年前
一つの幸せだった「家族」が
"崩壊"を迎えた時のお話
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