第136話 情愛と幸福のノスタルジア⑩ ~理性~


「私、もう子供じゃない!」


 静止の声をかける間もなく、ゆりは侑斗にぎゅっと抱きついてきた。


 突然の事に思考が追いつかない。徐々に鼓動が早まるのを感じながら、ゆりを見つめれば


「侑斗さん……っ」

「っ……」


 そのように、直接名前を呼ばれ、侑斗は酷く動揺する。


 ゆりはいつも、自分のことを「お兄さん」と呼んでいた。それなのに……


(ッ……なんで…っ)


 だが、普段聞きなれないその響きは、男の欲を刺激するには十分すぎるほどで、その上、鼻腔をかすめる甘い香りと、滑らかな若く瑞々しい肌。


 抱きつかれ、深く密着した身体からは、服越しでも、その柔らかさが手に取るように伝わってくる。


(っ……マズイッ)


 なんだか、目眩がしそうだ。


 髪から漂う甘い香りと、吸い付くような白い肌。そして、まるでキスをねだるかのような、あまりにも、近い距離。


 目の前の情景にクラクラして、侑斗は慌ててゆりを引き剥がそうと、その肩に触れる。


 だが、その瞬間、それはゆりの身体に触れることなくピタリととまった。


 このまま、触れてしまって大丈夫だろうか?


 ──そう、理性が働きかけた。


 今、触れてしまうと、もう後戻りができない気がした。必死に押し込んだ欲情は「このまま抱きしめろ」と訴えかけてくる。


 抱きしめて、押し倒して、唇を奪って、後は、本能のままに貪ればいいと、そんな下劣ことばかり囁きかけてくる。


 だけど、そんなことをさせるつもりで、この子を預かったわけじゃない。


 侑斗は、なだれ込む思考を押させこみ、必死にその理性を保つ。


 だが……


「……いいよ」


「え?」


 そんな侑斗の心情などお構いなしに、ゆりは、更に侑斗にきつく抱きついてきた。


「私……侑斗さんになら、何されてもいいよ」


「……ッ」


 どこか、切なさの入り交じる声。それは、誘うように耳に響き、必死につなぎとめた理性を、一つ一つ崩していく。


「だって私……侑斗さんのこと……ッ!」


 だが、その瞬間、ゆりが苦しそうな声を発した。


 大きな手が背に触れたかと思えば、その言葉を言い終わるよりも先に、ゆりは侑斗によって、きつく抱きしめられていた。


「ん……っ」


 背を撫でられる感触に、軽く声が漏れる。


 同時にびくりと震えた体は一瞬にして強張り、顔は火を噴くように赤くになる。


「ぁ……、」


 ──どうしよう。


 突然、始まったその行為はどこか性急で、首筋に唇が触れれば、燃えるような恥ずかしさと同時に、熱を持った身体が、かすかに震え始めた。


「ぁ……ッ」


 するとその後、ゆりを抱きしめていた侑斗の腕が、ゆっくりと背を這い、次第にゆりの細い両肩を掴む。


 ゆりが、恐る恐る視線をあげると、そこには、どこか余裕のない侑斗がいた。


「……っ、」


 いつもと違う男の視線に、体がゾクリと反応すした。今にもキスされそうな、その距離で、ゆりは、小さくみじろいだ。


 どうしよう。

 覚悟、していたはずなのに──


 ゆりは、これから起こりうることを想像して、心臓が張り裂けそうになった。


 置き場のない羞恥心に駆られると、耐えきれず、その瞳をギュッと閉じる。


 グッ──


「ッ──!?」


 だが、その瞬間。掴まれた肩を、ぐっと強く押し戻された。


 急に圧迫感がなくなり、ゆりが緊張から、わずかに涙を浮かべた瞳で、侑斗を見上げれば


「……ごめん」


 再び遠のいたその距離で、少し息を荒くした侑斗が、真剣なまなざしで、そう言った。


「気に、触ることをいったなら、謝る……だけど、さすがにこういうのは、やめたほうがいい」


「……」


「折角、今まで義父から守ってきたんだろ。なら、いつか本当に大切な人ができるまで、もっと、大事にしなきゃ……」


「……」


 放たれた侑斗の言葉に、ゆりはただ何も言えず、侑斗を見つめていた。


 未だに震える鼓動を必至に整えながら、ゆりは、ぐっと自分の気持ちを抑え込むと


「あはは、騙された?」


 にっこり笑って、そういった。


「もう、冗談に決まってるじゃん! 本気にしたの?」

「……っ」


 いつのも雰囲気に戻ったゆりは、酷くおどけた様子で、そう言って、侑斗は更に困惑した表情をみせる。


「ッ…お前なぁ!?」


「はは、そんなに怒らないでよ。お兄さんいつも私のこと子供扱いするから、ちょっと誘惑してみたくなっちゃったの」


「だからってッ、俺が本気になったら、どうするつもりだったんだ!?」


「でも、本気には、ならなかったでしょ?」


 そう言って、また綺麗に微笑んだゆり。


「大体、お兄さんってホント真面目だよね~。普通、こんなに可愛い女子高生に迫まられたら、手出しちゃうと思うけどなー。据え膳食わぬは男の恥なんじゃないの?」


「……お前、まだ18だろ。そんな誘い方、どこで覚えてきたんだ」


「え~びどーい。これでもお嬢様なのに~」


「どこのお嬢様が、笑顔でご奉仕しますなんて言うんだよ。お前まさか援助交際とかしてないだろうな?」


「はぁ、してるわけないじゃん!? 私、これでも、まだ──」


「?」


「ま、まま、まだ……ッ──バカ!!?」


「ぶっ!?」


 瞬間、一気に顔を赤くしたゆりは、ベッドの上にあったクッションを侑斗に投げつけた。


「おい! お前いい加減にしろよ!」


 顔面にクッションを投げつけられ、侑斗がイラつきながら声を上げると、ゆりも、その場から立ち上がり、不機嫌そうな声を発した。


「もう、寝る!」


(いや、なんでお前が怒ってんの。怒りたいの俺の方なんだけど)


 侑斗は心の中で悪態つくが、くるりと踵を返したゆりを、とりあえず見送ることにした。


 だが──


「あ……おい、これ忘れてる!」


「!?」


 不意に目の前のテーブルにあった方が忘れ物を見て、侑斗が差し出したそれは、先ほどの示談金だった。


 忘れるなと言わんばかりに差し出されたその封筒をみて、ゆりは再び苦々しい顔をするが、暫く考えたあと、ゆりはその封筒を受け取ると──


「……ねぇ、侑斗さん」


「……?」


「さっき、間違った選択ばかりしてきたって言ってたでしょ。後悔してるって……でも、侑斗さんが、その間違った選択をしてくれたおかげで、ここに一人、救われた女の子がいるってことも……どうか、忘れないでね?」


「え……?」


 こちらに振り向き、そういったゆりの顔は、さっきとは一片して、とても優しく穏やで、だけど、どこか悲しそうな笑みを浮かべていた。


 だが、侑斗は、その言葉の意図がわからず


「おい、それってどういう……」


「あ。パソコンの文書、保存するの忘れないようにね~」


「!?」


 だが、更に言葉を続けたゆりに、侑斗は、慌ててパソコンの画面を見つめた。


 確かに保存してなかった!

 危なかった!せっかく頑張った仕事の資料がパーになる所だった!


「じゃ、お休み~♪」


 すると、ゆりはまたにこやかに笑い、手を振りながら部屋から出ていった。侑斗は、ゆりが出ていった扉を、暫く無言で見つめたあと


「あーもう、本当なんなんだよ……っ!」


 一気に力が抜けると、侑斗は額に手を当て深く深くため息をつく。


『私、侑斗さんにならなにされてもいいよ』


 まさか、あんなこというなんて思わなかった。


 体にはまだ、さっきの火照りが残ってる。


 あの時、抱きしめた瞬間。正直、もうダメだと思った。


 だけど、抱きしめた身体が、わずかに強ばったのが分かって、ほんの少しだけ残ってた理性が、一気に冷静さを取り戻した。


 怖がってた気がしたのに、気のせいだったのか?


 でも、それに気づかなければ


 きっと、あのまま───



「あああ、危なかった!! 良かった、ほんと良かった!! 俺の理性、メチャクチャ仕事してる! てか、一回りも下の女の子に、俺、何てことしてんだよ!?」


 侑斗は、顔を真っ赤にし目を伏せると、自分が犯しそうになったとんでもない過ちに、深く深く懺悔するのであった。

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