第135話 情愛と幸福のノスタルジア⑨ ~未練~

 

 侑斗が差し出してきたそれは、そこそこ分厚い茶封筒だった。


 だが、その封筒を目にした瞬間、ゆりは眉間にシワをよせ、侑斗を見つめ返す。


「……なにこれ」


「今日、確認したらミサから治療費が振り込まれてたんだけど、指定した金額より多めに振り込まれたんだ。多分、君への示談金だと思う」


 ──示談金。

 その言葉にゆりは更に表情を曇らせる。


「……いらない」


「なんで?」


「なんでって、治療費だけ払ってくれたらいいっていったじゃん! それに、親に連絡されたくないからって、示談にしてもらったに。大体、ケガも大したことなかったし、奥さんに、そこまでしてもらう必要なんてない!」


「大したケガだろ! それに、ミサだって昔……っ」


 だが、そう言いかけて、侑斗はハッと言葉を噤んだ。バツが悪そうに視線を落とすと、ひと呼吸おいた後、侑斗は、再びゆりに視線を向ける。


「とにかく、これは君にだよ。これから一人暮らしするとなると、なにかとお金はかかるし、あって困ることはないだろ。それに、これはアイツの気持ちだから、どうか受け取ってやってほしい」


「……」


 あれ、なんだろう。なんか……


 ゆりの心には、モヤモヤと複雑な感情が入り交じる。


「もしかして、まだ……好きなの?」


「え?」


 絞り出すように放ったその言葉に、侑斗は一瞬、なんのことだと頭に?を浮かべた。


 だが、ゆりは、そんな侑斗を真っ直ぐにみつめると、心に引っかかる言葉を次々と吐き出し始めた。


「もう、別れてるのに、お兄さん、奥さんにやけに優しいよね? この前だって、奥さんの代わりにうちの親にも謝りに行こうとしてし、治療費だって、奥さんが払えなければ、代わりに払うつもりだったんでしょ? もしかして、まだ未練があったりするの……ミサさんに……」


「──え?」


 突然放たれたその言葉に、侑斗は思わず目を見開いた。室内は静寂に包まれ、侑斗はゆりの顔を見つめて困惑する。


 未練──?



「いやいや、未練はないよ」


「え?」


 だが、侑斗は、まるで当然とでも言うようにハッキリとその言葉を口にした。


 それは、一切の迷いのない言葉だった。


「はは、俺、未練あるように見えてた? それは驚いたな~。大体、離婚つきつけたの俺の方だし、未練があったら、そんなことしてない」


「え? そうなの?」


「あぁ、でも確かに、別れたのに、少し世話焼きすぎかもな。なんていうか、離婚した今になって改めて考えてみると、俺がミサを、あそこまで追いつめたのかなって、思うところもあって……」


 自虐混じりに、だが、目を細め、どこか遠くを見つめ話す侑斗のその瞳は、とても悲しい色をしていた。


 ゆりは、その表情を見て、なんとも言えない気持ちになると、膝に置いた手に無意識に力をこめる。


「説得力はないだろうけど、これでも俺たち、結構仲が良かったんだよ。飛鳥が生まれてからは、本当に幸せで……毎日楽しかった」


「……」


「だけど、俺が部署を移動して、仕事が忙しくなりだしてから、お互いすれ違うようになって、あまり会話もしなくなって……そしたら、いつのまにか、浮気してるんじゃないかって疑われてた」


 きっかけが何だったのかは、わからない。


 だけど、一度、ヒビが入ったグラスは、どんなに水を注いでも満たされることがないように


 どんなに仲が良くても

 どんなに愛していても


 一度、亀裂が入ってしまえば、その傷は、どんどんどんどん深くなる。


 歯車が狂い始めると、それはあっという間で


 次第に話をしたくなくなって、口論になることも増えて、目を合わせることすら避けるようになって、いつしか、不満や憤りが疑心にかわり、相手を信じられなくなったころには


 ──もう、家に帰るのすら嫌になった。



「今更、どうしようもないけど、俺も仕事ばかりで家庭をかえりみなかったのは確かなんだよ。ミサはミサで慣れない育児にかかりっきりだったし、お互いに微妙にすれ違って、こんな結果になったんだと思う」


「……」


「ただ、俺の母親、浮気ばかりの最低な人だったから、俺『浮気だけは絶対にしない』って誓って、ミサと結婚したんだ。だから……アイツに浮気を疑われたのは……一番……辛かったかも……っ」


 信じてくれると思っていた。

 そんなことするような人間じゃないって


 だけど、ミサは信じてくれなかった。


 全く身に覚えの無いことを疑われた瞬間、自分の中から、何かがサーっと引いていくようだった。


 家族を守るために、仕事だって頑張っていたはずなのに、それが駄目だったんだろうか?


 無条件に信頼していた「絆」は

 守りたいと思っていた「家族」は


 たった一言の亀裂から始まって、呆気なく終わりを迎えた。


 そのあとは、心の中にポッカリ穴が空いたように「虚しさ」だけが残った。




 欲していたものは



 こんな「空っぽの心」では




 なかったはずなのに──





「まぁ、とにかく! 未練はないし、俺とミサはもう終わったんだよ。それに、どのみち俺には、結婚なんて向いてなかったんだ。これからは飛鳥と二人、男だけで、つつましく暮らしていくよー」


 まるで、暗い気持ちを振り払うように明るく笑うと、その後、結月は、ゆりの前に手にしていた封筒をそっと置いた。


 するとゆりは、目の前に置かれた、その封筒を見つめて、思考を巡らせる。


(未練はないけど……後悔はしてるって、ことかな?)


 笑う侑斗の姿は、いつもどおりだった。

 いつもの明るい笑顔に、明るい声色。


 だけど、どこか寂しそうにもみえて、その明るさが逆に、空元気のようにも見えた。


(そっか……でも、未練は……ないなら)


 だが、その侑斗の言葉を聞いて、ゆりは少しだけホッとした。


 奥さんに未練がないのなら、このまま好きでいてもいいのかな?


 侑斗さんのこと───




「それより、もう遅いし、早く寝ろよ」


「っ……ちょっと、さっきからなんなの、その子供扱い」


「いや、だってだし」


「…………」



 子供───



「っ……なに、それ」


 瞬間、トン──と床に手をつく音がしたかと思えば、侑斗とゆりとの距離は一気に縮った。


 腕に触れた柔らかな感触。

 それに気づき、侑斗が目を向ければ、ゆりがその身体をグッと押し付けてきたのだとわかった。


 視線の先には、今にもキスできそうなくらい近くに、ゆりの顔がみえた。長い睫毛と、さらりと甘い香りが漂う長い髪。


 薄く開いた唇はとても艶やかで、胸元にわずかに開いた隙間からは、白く柔らかそうな肌が見えた。


「ちょっ……」


 目の前の光景に、侑斗は僅かな焦りを覚えた。


 慌てて、ゆりから離れようとその場から退くが、ゆりはその距離をつめるように、またゆっくりと近づいてくる。


 猫のように身体をしならせながら、どこか色めくような艶のある視線で見つめられた。そして、不意に見せた、ゆりのその姿は、あまりにも刺激的で──


「ちょ、ゆりちゃ……」


「……私、もう、子供じゃない!!」


「え!?」



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