第243話 お兄ちゃんとお母さん

「ねぇ、やっぱり……やめない?」


「え?」


 だが、そんな蓮に華が別の提案をする。


「やっぱり今日はやめて、今度、飛鳥兄ぃと一緒にこよう」


「なんだよ、急に……」


「うん、飛鳥兄ぃがカップ割ったなら、割った本人に責任とらせようかなって」


「……は?」


 なにやら予想外の提案に、蓮は眉を顰める。

 兄だってわざと割ったわけではないだろう。それなのに、責任??


「ちょ、なんだ、そのめんどくさい感じ!?」


「めんどくさいってなによ」


「めんどくせーよ。お前、まだ根に持ってるのか?のこと」


「……っ」


 その言葉に華がピタリと足を止めると、その数歩先で蓮も立ち止まった。


 雨の中視線が合わさると、二人無言のまま数秒の時が流れる。


 別に、あかりさんのことを蒸し返すつもりはなかった。


 だが、あの後から、自分たち兄妹弟の仲はどこかぎこちない。


 まるで、見えない壁でも出来てしまったように……


「兄貴は、何も悪くないだろ?」


「別に根に持ってるとか言ってないでしょ。むしろ変な勘違いして、飛鳥兄ぃとあかりさんには申し訳ないことをしたと思ってる」


「じゃぁ、なんで……」


 雨が静かに落ちる。


 ぽたぽたと雨粒が傘を伝うと、華はまっすぐに蓮を見据えた。


「もうすぐだと、思う」


「もうすぐ?」


「お兄ちゃんが、


 その声は、やけに耳に響いた。


 雨の音に混じって聞こえた声はハッキリと。だけど、どこか曖昧で


「蓮だって、もうわかってるんじゃないの?」


「……っ」


 まるで決断を迫るような意志を秘めた瞳に、穏やかだった胸の内が途端にざわめき出す。


 分かってる。

 気づいてる。


 でも──


「……あかりさんは『友達』だって、兄貴言ってただろ?」


「うん。でも『ただの友達』でもないでしょ?」


 ただの──その言葉に、蓮はぐっと息を飲む。


 分かってる。


 兄にとって、あのあかりさんが『普通の友達』ではないことくらい。


「私、この前、蓮にきいたよね。『お兄ちゃんがあかりさんのこと、好きになったらどうする?』って」


「……」


「別に、相手があかりさんじゃなくても、いつか彼女ができて結婚でもしたら、どの道離れていっちゃうよ。そしたら、もう甘えられなくなる。なら、甘えられるうちに、甘えとこうかなって。お兄ちゃんの一番が……──」


 どこか覚悟を決めたような、そんな声に、蓮は目を細めた。


 その言葉は、まるで「逃げるな」と諭されているようにも感じた。


「私、この前あかりさんに会って、お兄ちゃんと喧嘩して、その後、色々考えたの。どうして私、あんなにあかりさんのことを、嫌だと思ったのかなって」


「……」


「すごくいい人だった、あかりさん。見ず知らず私にもすごく優しくしてくれて…」


 取られたくないと思ったのは、嘘じゃない。


 "素敵な人"だからこそ余計に、嫌だと思った。



 私の世界を


 壊して欲しくないと思った。



 でも、それは──



「私、お兄ちゃんを"取られたくないから"だってずっと思ってた。でも──違った」



 気づいしまった『本心』


 取られたくない。


 似ているようで、違う──本当の気持ち。



「私、お兄ちゃんを、取られたくないんじゃなくて……──」


 泣きそうな顔で華はそう言って、まるで確信をつくようなその言葉に、蓮はぐっと奥歯を噛み締めた。


 聞きたくなかった言葉。


 いっそ雨の音で、掻き消えてしまえばいいにと思うくらいに。


 変わる日が近づいてる。


 受け入れなきゃいけない日が、もう、そこまできてる。


 気づきたくなかったのに、気づいてしまった。


 あの日、兄が、あかりさんを抱きしめたのを見た時に


 自分たちにとって『一番大好きな人』の『一番』であり続けることが


 もう、無理だと言うことに──



「蓮も、もう分かってるんでしょ?」


「……」


 再度そう言って、小首を傾げ微笑む華は、写真の中の母のように綺麗に笑っていて、なにかが、ぐっと込み上げてくるのを感じた。


 夕方の雨は、まるで涙を流すように静かに静かに降り注いでいて、自分たちの代わりに、泣いているようにも見えた。


 華は、いつもそうだ。


 気づくのも、理解するのも、早いのはいつも自分の方なのに、俺より先に「決心」を固める。


 迷って進めない俺の手を引いて「こっちだよ」と囁きかけてくる。


 俺がどんなに嫌だとだだをこねて、そこに留まろうとしても


 気付かないふりをして、逃げようとしても


 何度も何度も、前を向かせようとしてくる。



 本当は、自分だって嫌なくせに、泣きながら、前に進もうとするんだ。


 家族のために。


 大好きな"兄"の






 "幸せ"のために──…












 あぁ、もう──…っ






「──俺の負けだ……っ」


 その言葉を発した瞬間、全身の力が抜ける感覚がした。


 散々、逃げてきたけど、認めてしまえば、もう進むしかなくて


 気づいてしまえば、受け入れるしかなくて


 きっと兄は、あかりさんのことが好きなんだろう。


 それに気づいてしまったら、もう、進むしかない。


 どんなに、俺達が、嫌だとなげいても



 変わってしまう人の「心」には、逆らえないから──



「はぁ……分かってるよ。あれで、友達とかありえない」


「だよねー。まぁ、本人が自覚してないのが一番ありえないけど」


 観念したように蓮が深く息をつくと、華はその後呆れたように笑った。


 意外とこういうのは、周りの方がよく見えているもので、たとえ今は『友達』としてしか見ていなくても、いつかきっと自覚する日が来る。


 そして、その自覚した日こそ


 自分たちが、兄の一番ではなくなる日──



「バカだよね。私たち……お兄ちゃんに早く彼女ができればいいとか言いながら、いざあかりさんみたいな人が現れたら嫌だなんて」


「結局、いつまでたっても、兄貴の前じゃ子供なんだよ、俺たち……でも、そうだな。もういい加減、覚悟きめなきゃな」


 蓮が重くそう呟くと、華はそんな蓮を見つめたあと、そっと目を閉じた。


「うん。いつまでもお兄ちゃんの『一番』でいたいなんて言ってちゃダメだよね。お兄ちゃんは私たちの『お兄ちゃん』であって『お母さん』ではないから──」


 自分たちには、母親がいない。

 幼い頃に、亡くなってしまったから。


 母はどんな人だったんだろう。


 どんな声で、どんな表情で、どんなふうに、自分たちを、抱きしめてくれたんだろう。


 この世界で


 誰よりも『一番』に愛してくれるであろう『母親』という存在に


 自分たちは『兄』を重ねてた──


 優しくて

 温かくて


 手を伸ばせば、握り返してくれる。


 そんな兄に『母親の安らぎ』を求めてた。



 あぁ、どうして人は、こんなにも、誰かの『一番』を求めてしまうんだろう。


 自分の一番好きな人には、自分と同じように、一番好きでいて欲しいだなんて


 そんな自分勝手で独りよがりな感情に、囚われて


 ずっとずっと、兄を縛り付けてきた。



 本当は、そんなことに、こだわる必要なんてないはずなのに



 たとえ、一番じゃなくなっても


 それが、二番目でも、三番目でも



 愛されていることに、変わりはないはずなのに───




「帰ったら、ちゃんと仲直りしなきゃね」


 華が一歩前に出ると、蓮との距離がまた近づいた。


「このまま、ぎこちないままでいるのは、やっぱり嫌だし」


「……」


 申し訳なさそうに華がそう呟くと、蓮は手にした傘をぎゅっと握りしめた。


 兄が、隠し事をしているのが嫌だった。


 話をそらされる度に

 隠し事が増える度に


 兄にとって自分たちは、その程度の存在でしかなのかと、そう、思わされたから…


 自分たちは、こんなにも兄を信頼しているのに、兄は自分たちを信用してくれない。


 そして、そんな不満は少しずつ蓄積して


『兄貴、俺たちに、隠し事ばかりだよね。子供の頃のこととか、兄貴の母親のこととか、俺達が知りたがってる分かってて、兄貴、いつも話しそらしてる』


 ついには、当たり散らすように、兄の「心の傷」に触れてしまった。


「そうだな……俺も酷いこと言ったから、ちゃんと謝る」


 帰ったら仲直りしよう。

 また、いつもの兄妹弟に戻ろう。


 たとえ、兄にどんな隠し事があっても、今まで過ごしてきた兄との時間はなくならない。


 幼い頃から、ゆっくりと育まれてきた


 兄の思いは、決して、幻や偽りなんかじゃない。


 だから、きっと──大丈夫。



 たとえ、一番じゃなくなっても


 この先、なにがあっても



 この絆は、絶対に、消えてなくなったりしない。



 大事なのは、信頼されているかどうかじゃなくて


 自分が、相手を信じることで



 つまらない感情に振り回されて、自ら、それを壊してしまったら



 せっかく一緒にいられる「今」が


 もったいない。




「しかし、お前泣き虫なくせに、ほんと肝がすわってるっていうか、そういうとこ誰に似たんだよ」


「うーん……お母さんじゃないかな?お父さんはヘタレっぽいし」


「なんかそれ、俺がヘタレって言われてるように聞こえる。それより、今度3人で買いにいくとか言ってるけど、兄貴来てくれんの? 結局2人で行けって言われるのがオチなんじゃないの?」


「だから、責任取れって、名目で連れてくんでしょ!」


「鬼か! もしかしてお前、高いのねだる気じゃないだろうな」


「あはは! それもいいかもね~? あ、そうだ! 蓮も文化祭の衣装、飛鳥兄ぃに作って貰えば?」


「あー、その手があったな」


「そうそう! もうこうなったらさ、とことん甘えて、こまらせちゃおう! どうせ、いつか嫌でも大人にならなきゃいけないんだし、今は無理に背伸びしたりしないでさ!」


 ニッコリと華が笑うと、それを見て蓮が微笑みかける。


 また甘えだしたら、兄は驚くだろうか?


 それとも、呆れるだろうか?


 でも、甘えたくても、甘えられなくなる日は


 もうそこまで来ているから


 どうか、今だけは許して欲しい。



 まだ、である、だけは──




「まぁ、よく考えてみれば、子供でいられるのって20年くらいなもんだし、子供のうちは子供の特権フルでつかうべきだよな」


「そうそう! よし! そうと決まったらUターン!!」


「わっ!!」


 華は蓮の腕に自分の腕を絡めると、そのまま来た道を引き返し始めた。


 雨足が少しだけで強まり出した夕方の空は、重い雲がひしめき合い、あたりをどんより鉛色に染めていた。


「抱きつくなよ! つか、雨降ってんだぞ! 濡れる」


「あはは! いいじゃない、たまには! それより、はやく帰ろう。家でお兄…………っ!」


「?」


 瞬間、華の動きが止まった。


 自分の腕にしがみついたまま微動だにしなくなった華を見て、蓮は何事かと、その視線の先に目を向ける。


 すると、自分たちの行く先にが立っているのが見えた。


 雨の中、傘をさして佇むスーツ姿の女の人。



 赤みがかった金色の髪に


 青い瞳に


 怖いくらいに整った、綺麗な顔立ち。



 それは


 うちのにそっくりな──




「あら、また会えたわね……神木 蓮くん」



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