第272話 本心と涙


「お兄ちゃんは──私たちといて、だった?」


 悲痛な華の声がリビングに響けば、飛鳥はその瞬間、大きく目を見開いた。


 罪滅ぼしと言われ、涙でいっぱいになった華の顔を見れば、胸の奥にズキリと痛みが走る。


「っ……俺は──」


「華!」


「ふぇ!?」


 だが、その瞬間、蓮が、立ち上がりつつ、華をたしなめた。


 涙でぐしゃぐしゃになった華の顔にティッシュを強引に宛てがい「落ち着け!」と声をかけると、蓮は少し慌てた口調で飛鳥に語りかける。


「兄貴! 華、興奮すると言葉足らずになるけど、さっき『許せない』って言ったのは、兄貴のことじゃないから! その……許せないのは、俺たちのことで……だから、勘違いしないで!」


「……」


 華の言葉に、兄がより一層、自分を責めるかもしれないと思ったのか、これ以上、拗れないように、蓮が仲裁にはいる。


 こんな所は、やっぱり双子だ。

 いや、自分たち兄妹弟は、いつもこうだった。


 三人のうち二人がケンカになったら、残った一人が、いつも仲裁に入る。


 どっちの味方とか、そーいうのじゃなくて

 ちゃんとどっちの話も聞いて、仲直りさせてくれる。


 幼い頃から染み付いた習慣みたいな、そんな姿に、どこか懐かしい頃を思い出して、飛鳥は目を細める。


「あのさ、兄貴」

「………」


 すると、今度は蓮が、華とは違う落ち着いた声で話しかけてきた。


「さっきから、ずっと謝ってるけど、俺たちからしたら、なんで兄貴が謝るのかが分からない。親が人を刺したことだって、帰りが遅くなったことだって、兄貴には、どうしようもなかったことだろ。少し考えれば分かるのに、なんで、そこまで、自分を責めなきゃいけないんだろうって……だけど」


 一度、言葉を止め、兄を見やれば、蓮は、痛みに耐えるような顔をして、再び声を発した。


「だけど、人の"心の痛み"は、その人にしか分からないから……だから、俺達からみたら"どうしようもない"ことでも、兄貴にとっては、"どうしようもない"では、すまなかったっんだよな」


「……え?」


 その言葉に、飛鳥が瞠目する。


 蓮を見れば、その目は、とても悲しそうな色をしていて、その隣で泣いていた華も何かを察したのか、泣き腫らした目のまま兄を見つめた。


「兄貴は、いつも人のことばかりだ。母さんに謝って、俺たちに謝って、だけど、一番大事な人の気持ちを忘れてる」


「……一番、大事な……人?」


 ボソリと呟いたあと、意味がわからず二人を見つめた。


 蓮の言わんとする言葉の意味が分からなかった。


 すると、そんな飛鳥に蓮は──


「兄貴、"自分の気持ち"、蔑ろにしてない?」


「え……?」


「兄貴が、今でもずっと自分のことを責めてるのは、俺たちから母親を奪ったとか以前に、それだけ辛かったんだろ──が」


「……」


「ほんの5分、遅く帰った自分を許せなくなるくらい。どうしようもなかったことを、どうしようもないと思えないくらい。母さんを失ったのが、辛かった。だから、今でも、ずっと、自分のことを責め続けてる……!」


「……っ」


 耳に響く言葉が、自然と涙腺を刺激する。


「俺たち、母さんが亡くなった時のこと、何もおぼえてないよ。お父さんも、死に目には会えなかったっていってた。兄貴だけなんだろ。母さんが苦しむところも、泣きながら亡くなるところも、全部見てて、全部覚えてるの。あの日……あの日、一番辛い思いをしたのは、兄貴だろ!」


「………ッ」


 瞬間、目の奥が熱くなって、あの日、涙も流せず、霊安室で横たわる母を見つめていた自分の姿を思い出した。


 ただ、呆然と。


 母の死を受け入れられず、華と蓮の手をにぎりしめて、ただただ立ちつくしていた、あの幼い頃の自分を──


「大体、なんで、俺と華の母親みたいな言い方するんだよ! 兄貴だって母親を亡くしてるだろ。それも、辛い時に助けてくれた、一番大切だった人を目の前で亡くして……それなのに、なんで、その時の自分の気持ち差し置いて、人の事ばっか考えて謝ってんだよ!」


「…………」


 次第に感情的になる蓮の言葉に、鼓動が次第に早くなる。


 あの日、置き去りにした感情があった。


 ぐちゃぐちゃになって泣き叫ぶ自分を、必死に押さえ込んで、無理やり箱の中に閉じ込めた。


 子供の自分なんて、いらない。

 弱い自分なんて、いらない。


 強くならなきゃ

 大人にならなきゃ


 そうしなきゃ、大事なものは





 守れないから────





「俺達は誰も責めてないよ。俺も華も、父さんも母さんも、誰も兄貴を責めてない。だから、もう謝らないで。そんなふうに自分を責めないで……兄貴は何も悪くないよ。母さんが亡くなったのは──兄貴のせいじゃない」


「───…っ」


 不意に、涙が溢れそうになった。


 固く閉ざしたはずの心が、ポロポロとほころび始めてゆく。



 それは、まるで


 あの日、閉じこめたはずの幼い自分が



 「出して」と叫んでるみたいに────…




「お兄ちゃん」


 すると、今度は華が涙目のまま


「私たち、ずっと、お兄ちゃんのこと"強い人"だって思ってた。いつも笑って大丈夫って言って、弱みなんて全く見せなかったから。でも、本当は大丈夫じゃなかったよね? 誘拐事件に巻き込まれた時だって、お兄ちゃん笑ってたけど、本当は辛かったよね?……あの時、なんでもないように振舞ってくれていたのは──ぬいぐるみを忘れた私が、気に病まないようにだよね?」


 いつもそう。優しい兄は、いつも自分の心を殺して、誰かの心を守ろうとする。


 だから、きっと──


も、そうだったんじゃないの?」


「…………」


「無理やり自分の気持ち押さえ込んで、私たちのことばかり、考えてたんじゃないの?」


「…………」


「私、お兄ちゃん本心が知りたい。罪滅ぼしだっていうなら、それでもいい。一緒にいるのが苦痛だったって言われても、ちゃんと受け止める。だから、本当のお兄ちゃんのこと、全部教えて……?」


「…………」


「もう、自分の気持ち、ないがしろにしないで……私たちのために、平気なフリしないで……辛いなら辛いって言って、悲しいなら悲しいって言って……母さんが亡くなった時──お兄ちゃんは、?」


「───…っ」


 その瞬間、飛鳥の瞳から、涙からこぼれ落ちた。


 あの時、無理やり閉じこめた感情。

 それが、涙と一緒になって溢れてくる。


 あの時──


 まだ幼かった華と蓮と、精神的に弱り果てた父を見て、自分がしっかりしないと、この家族はダメになると思った。


 悲しむ間もなかった。


 ただ、家族を何とかしたかった。

 もう、壊したくなかった。


 バラバラになりたくなかった。


 だから──全部全部、閉じこめた。


 悲しいと泣く自分も

 辛いとわめく自分も


 弱いままでいると、大切なものは守れないと思ったから。


 でも───…



「ぅ、……っ……」


 すると、飛鳥は、その後小さく声を震わせ、ポツリポツリと話し始めた。


「つら、かった……悲しかった……母さんが、死んだなんて……全然…受け止められなくて……苦しくて、怖くて……どぅしよぅも…なかった……っ」


 母を亡くした、あの日。


 "弱い自分"を何もかも閉じ込めたら


 自分を"責める"感情だけが残った。



 ゆりさんがいないのも


 父さんが、おかしくなったのも


 華と蓮が泣くのも



 全部全部、俺のせいだって──…



 だから、母の死を悲しむ


 そんな当たり前のことですら


 上手く出来なくて……




 でも、本当は───…



「ぅ……ッ……なんで……っ」



 本当は、吐き出したかった。



 素直に母の死を悲しんで


 誰かに、この思いを聞いて欲しかった。



「もっと……傍に、いて……欲しかった……っ」



 母さんに──


 行かないで、死なないでと


 縋りつきたかった。



 もっと、笑って欲しかった。


 ただただ、子供らしく甘えて


 その手で、抱きしめて欲しかった。



 本当は、もっともっと



 母さんに




「生きて…いて……欲しかった──…っ」






 溢れた涙は、その後も、止まることなく何度と頬を伝った。


 それは、まるで、積もり積もった痛みや悲しみを洗い流すかのように


 静かに静かに流れ続けた。



 肩を震わせ泣く飛鳥の姿は、まるで幼い子供のようだった。



 母親がいなくなって


 悲しいと泣いている。



 弱くて脆い



 小さな小さな子供のように───…


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